カテゴリー「主イエス=キリストの愛」の43件の記事

2009年12月10日 (木)

今日、御国では祝宴が

今回は、たま~に!しか書かない --; というか、書・け・な・い (ToT)・・・鳩の要素、光の部分を書きます。世の情勢も動きそうで、動かないし、そうしよう。あっても14日か?

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。

「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ 8:31~39

今日は、うれしいお知らせがありました。おもしろいもので、わが事のようにうれしいものなのです(^^ゞ
日々、苦しいことばかりで、ろくなことないのにねえ~ --;
我がブログの読者でもある、たろさんが洗礼を受けられたこと。一つ前のエントリーのコメ欄に祝辞が次々と届いております。
サマちゃん(サマリア人さん)に次いで二人目です!ハレルヤ~
プロテスタント教会では、洗礼をまだ受けていない人を「求道者」と呼んでいます。教会には、新規でやってくる人がそれなりにいますが、教会に根付いて、洗礼まで行く人って、案外少ない・・・ --;
それだけに価値あることだと思います。楽じゃありませんから。
そうして考えてみると、教会って、相変わらず敷居が高いんでしょうかね?私もそうでしたが。

http://kirisutoinochi.seesaa.net/article/135034346.html

あなたも登場する聖書物語~モトイさんのブログ

にもありますように、聖書においては確かに、使徒行伝だけは中途半端な “to be continue” 的な終わり方をしてます。「このあとパウロはどうなっちゃうの?」となっております。モトイさんによると、現代も使徒行伝は継続中であり、我々もその一翼を担うべく、この物語に参加しており、キリストの再臨まで続くのだ~ということが書いてあります。なるほど!納得です。
そして日々、その働きに加えられていく。なんと素晴らしいことでしょうか!

確かに「救い」は、行いによるのではなく、信仰により、それは一方的な神からの恵みであります。しかし、そこで終わるのではありません。「キリストによる救い」という基礎工事=土台にどのような家を建てるかは、我々次第・・・どのような歩みをするか?
宿題はあったのです!
どのような形で、キリストに関わっていくかは人それぞれで、私にはわかりません。
私の場合、このようなこの世的には「キチガイ=ブログ」と呼ばれる情報発信がそれなのかも?しれません。

ただそれも、

すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。

ゼカリヤ 4:6

とあるように、権力でも能力でもありません(神がそれぞれの賜物に応じて、適材適所に配置するというのはあるでしょう。)、いわゆる聖霊の働きが大きいと感じます。でなきゃ、とうの昔にこのブログは終わっていたことでしょう。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

ヨハネ 1:9~14

私の書く記事の9割は、世の裏側ですが、これ(↑)がキリスト教の本質なのです。光を知らずして、真の平和、平安はあり得ません。
キリストによる、贖い、復活、再臨が約束されているから、サタンの陰謀ばかり書いていても、絶望しない。悪霊に攻撃されても気が狂わない(既に頭がおかしいという指摘もあるが --;)、最後にあるのは「主は我らの勝利」なわけです。

私はブログやっていても、誇れるものが何もない --;
しかし、「目の開かれたキリスト者」がこれだけ集められたということだけは誇りたい。と言っても、私の能力によるところは限りなくゼロなのですが。

種は蒔かれていたとはいえ、ブログ上で出会った同志が、このように受洗まで二人も導かれたというのは、本当にうれしいものです。その歩みは決して楽ではなかったはず・・・試みられ、時には突き放され・・・「それでもあなたは、私を信頼するか、私に希望を見るか」という苦難の末の洗礼であると思うから。たろさんや、サマちゃんのコメントを通して察することが出来るから。

イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

ルカ 19:9~10

私もキリストを知って、10年近くかかって洗礼へと辿り着いた頃を思い出させていただきました。
そうです、キリストの最大の目的は、「失われたものを尋ね出して救う」ことにあるのです。私のような偏屈でひねくれ者の天の邪鬼でさえ、心を開いて、主イエスを見つめるのであれば、喜んで手を差し伸べてくださったのです。

これから世は、間違いなく混沌としていくはずです・・・イスラエルのイラン攻撃による黙示録の本番が始まるのは時間の問題であるとさえ思えます。

とはいえ今日は、天の軍勢とともに、祝宴を楽しもうではありませんか。

キリストにあるならば、その先にある希望を、「その時こそ、人類がなし得なかった解決がなされるのだ」ということを知ることが出来るはずだし。

今も主イエスは、天のみ座で父なる神の右に座し

「私は今もあなた方に呼びかける。あなたは一人じゃない、あなたさえ心を開くなら、今日あなたの心に泊まろう。私はあなたの主であると同時に、かけがえのない親友なのだから。私にすべてをまかせなさい。」
と・・・絶えず呼びかけて下さるのです。

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2009年10月27日 (火)

キリスト者の確信とは?

主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。

イザヤ 25:8

わたしはエルサレムを喜び、我が民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞こえることはない。

彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。

彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。

おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。

イザヤ 65:19、23~25

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。

また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

黙示 21:1~4

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

ヨハネ 20:15~16

今現在、アメリカが揺れ始めています。しかし断片的なものばかりで、確信を得られる情報がありません・・・ということで、いつもいつも暗いことばかり書いていたのでは気が滅入ってしまい、サタンにつけ込まれるので、バランスを取るため、たまには信仰に関する希望に満ちた明るいことも書いてみようかと。

上記引用した聖句は、我がブログでたびたび引用してきました。好きな聖句は多々あれど、キリストにある終着駅という意味で言うと、閃くのはこれらの箇所でしょうか。

ただ単に陰謀論、人類の裏側を探っているだけでは自暴自棄になり、絶望し、発狂するだけです。歴史の裏側から、政治経済の裏側=いわゆる人類の闇の側面~から導かれた私みたいな人間が今、こうしていられるのは、主イエス=キリストという史上最大の希望があるからなのは疑う余地がありません。

我がブログも、のびたさん、わたぴ~さん、モトイさん、そしてジュリさんと相互乗り入れ、リンク先が増えてきました。感謝な事です。そんな中で訪れる方々の中には、キリスト者でないにせよ、少なくとも関心はある方がほとんどだと思っております。

つくづく感じますが、自我を徹底的に打ち砕かれて、御前にひれ伏すまではなかなか受け入れることは難しいかもしれません・・・自分がそうでした。

キリスト教とは徹頭徹尾「他力本願」否、「キリスト本願」なわけです。私はマグダラのマリヤの復活した主との再会の場面、その気持ちが自分のことのようにわかります・・・

今現在の閉塞感漂う、先の見えない時代に置き換えれば、主イエスだけが頼りです。これでもう恐いものなど何もない、爽やかなそよ風が吹きすさぶ、溢れんばかりの暖かな光の渦の中に身を置くようなものでしょう。

すべてが終わるのだ、というか、すべてが解決する。もう悲しみ、苦しみの涙を流すことはもはやない。人類では歴史上そうであったように、到底出来ないことなのです。私は荒唐無稽のおとぎ話だとは思いません。

あのパウロが言ってます。ガマリエル門下のパリサイ派の超エリートであった人間が、今まで自分の得たものは、キリストに比べれば糞土のごときだと。漁師であったペテロやヨハネと違って、彼は今で言えば、ハーバード、東大卒のエリートだったわけです。いつも書いてますが、理屈じゃありません。幼子のように心を開けば、おのずと主は訪れてくれるのです。

「急いで降りてきなさい。あなたの心に今日泊まるから。あなたもまたアブラハムの子なのだから。」と・・・私たちが心を開くのを待っておられるのです・・・

わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。

今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

第二テモテ 4:6~8

なかなか私ではパウロのごとく、間違っても!このように言うことは出来ません。

「じゃあ、おまえは主に会えるのか?」と問われれば、「たぶん?大丈夫でしょう。絶対に大丈夫!たぶんね --;」程度かもしれません。

しかし、それしかないのです。ないのなら、それに賭けるしか選択肢はありませんから 。

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2009年8月16日 (日)

一番大切なことって?

ちょこっとだけ書こうと思います。

私のブログは、預言や予言、予想、予測をメイン課題としてやってきましたが、誤解のないように改めて書いておこうかなと。

というのは、私などに、偉そうに説教する資格などないと思っていたからです。

先のことだけにまずは当たらない・・・聖書預言は、取る側の解釈によってある程度柔軟性があるので、現実に当てはめようとしても難しい作業であるなと実感しました。他人の解釈を必要以上に批判もすべきではない。

我々キリスト者にとって、一番大切なこと。それは

救い(贖いと復活)と悔い改めであると思います。

これがわからないと、再臨や終末論を語ったところで本末転倒になってしまう。

そして、必要以上に、偉そうに教理論争したり、律法主義を強調するより、「赦し」とか、「愛」を大切にしたい・・・ブログ活動を通して切に感じた次第です。もちろん、神を侮るべきではないし、それに甘えることなく「裁き」や「最後の審判」を恐れねばならないことは言うまでもありません。要はバランスでしょうか?

人類が統治していたのでは、ユートピアを築くことは出来ない。これは歴史が証明してます。善人、悪人問わずダメでしょう。

ケインズやってもダメ、新自由主義もダメでした。

名君が統治しても、死後、そのどら息子が統治すれば悲劇です・・・争いがなくなることはありません。

笑いを忘れた道化師=ザアカイの本音です。

本来のキャラである、ジョーク、おふざけトークを交えて語れる状態でないのが残念です。自分でも暗いと思いますが、心に病を患ってしまったので仕方がない。長年の読者はわかると思います・・・変ってしまったと。

この事だけは、書いておきたくて・・・この先どうなろうとも、後悔しないようにとの思いをこめて。

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2009年7月29日 (水)

詩篇~51篇より

ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

そうすればわたしは、とがを犯した者に/あなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。

詩篇 51:7~13

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なんとも言えないダビデ王の叫びです・・・

ダビデとて、もちろん人間でしたので、完璧ではありませんでした。私など比べようがありませんが、この詩篇の内容が今なら少しもわかります・・・

特に

わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

の箇所・・・

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2009年6月28日 (日)

傷ついた葦、ほの暗い灯心、ほふられる羊

彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞こえさせず、

また傷ついた葦を折ることなく、

ほの暗い灯心を消すことなく、

真実をもって道を示す。

イザヤ 42:2~3

彼は侮られて人に捨てられ、

悲しみの人で、病を知っていた。

また顔を覆って忌み嫌われるもののように、

彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。

まことに彼はわれわれの病を負い、

われわれの悲しみをになった。

しかるに、われわれは思った、

彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

イザヤ 53:3~4

「わたしたちはあなたのために終日、

死に定められており、

ほふられる羊のように見られている」

と書いてあるとおりである。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、

わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

ローマ 8:36~37

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時がいよいよ目の前に迫っているのか、それともあとしばし時間があるのか、私には断言することは出来ませんが、今日ふと、この箇所が思い浮かびました。

キリストはわれわれ人間にとっては最高水準の手本ではありますが、悲しいかな、どんなにがんばっても基準にはなり得ません。真似しようとも不可能だからです。

その事を前提に書かせてもらおうと思います・・・

ここに来て、打たれ、たたかれ、苦しめられている方が増えているように感じます・・・この世的に言って誠実なる善人、キリスト者も例外ではないようです。まじめに正直にだけでは、生きていけない・・・

すでにそのような時期に入っているのは間違いないようです。

ローマ書にあるように

わたしたちはあなたのために終日、

死に定められており、

ほふられる羊のように見られている

という意味が最近少しわかりました。我々罪深き人間では主の代わりは勤まりませんが、この事を真摯に理解すべきでしょう。ただ、言うまでもなくそれが敗北を意味するものではありません・・・

キリストにあって、勝ち得て余りがあるとパウロ先生は言っております。

またイザヤも、

傷ついた葦を折ることなく、

ほの暗い灯心を消すことなく、

真実をもって道を示す。

と来るべきメシヤであるキリストを暗示して、このように述べております。この世的には勝てないまでも、信じ通すことが出来るならば、我々は負けない!そう、少なくとも負けではない。

一概には言えないと思いますが、キリスト者やるのって、それなりの覚悟がいるように思います。この世的ご利益を求めているならば、悪いことは言いません、ならない方がいいです。

滅びを覚悟で、反キリストを拝めばいい。この世がすべて、現世至上主義者であるならば、カネ、地位、権力を求めて、サタンに媚びへつらった方がいいかもしれない。

これから益々選択肢は狭められ、他に頼るものがなくなると思われます。

神につくか、悪魔につくか、二者択一を嫌でも迫られます。

このように偉そうに書いている私ですが、コメ欄を読んでいる方はおわかりと思います。

私もご多分に漏れず、神か悪魔かわかりませんが(心当たりがたくさんあり、はたけばいくらでも埃が出るので)、特にリーマン=ショック以後、打たれ、叩かれ、苦しめられています(人それぞれ、試みの内容は異なっているようですが)。

しかも自分だけではない。自分がつらいのも嫌ですが、家族や周りの方々も巻き込む。また、心の通い合った兄弟姉妹方が、違った問題を抱え、苦しんでいるのを見るのも同等につらい・・・

本来であれば、この世でも“ある程度の”祝福を受けてもいいはずですが、まだいただいてないという方がほとんどです。少なくとも私の周りはそうです。

そのように卑しめられ、辱められ、わずかばかりのプライドすらズタズタに引き裂かれて弱り果てても、まだ、今のところ?信仰を捨てられず、離れられない自分がいる。

なぜなら

わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。

そして、行って、場所の用意が出来たならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

ヨハネ 14:2~3

主イエスは、2000年近くもかけて、天使を総動員して、我々ごときのために朽ち果てることのない永遠の住まいを用意してくれているのですから。

だからこのためにも、可能な限り、弱っていても、この福音を伝えたい。

ひざとひじで這いずっている状態でも、まだサタンと世間(この世)にギブアップするわけにはいかないのです・・・

PS: 終末カルトの、陰謀論大好きブログと勘違いされがちですが、その終着駅、目的地はこのエントリーにあるのでした。

終末論、陰謀論は、あくまでその為の過程、手段ですのでご理解ください。

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2009年4月 9日 (木)

過ぎ越し(贖い)とイースター(復活)

さて、今回はいつもの本家本元の?きな臭い記事はお休み。私の苦手とする?鳩の部分というか光の部分にスポットライトを当てます。日陰者の私でも、たま~に・・・この手の記事も?書きます。

この記事が公開される時間、ちょうどイスラエルでは日没を迎える(迎えた?)頃でしょう。

人類の罪の贖い=主の過ぎ越し(pass over)です。

こうしてイエス=キリストがメシヤであると信じることによって(新約における信仰義認)、我々は罪許され、罪の代価を買い取られて、主イエスの尊い血(旧約における生贄の羊)で洗われ、神の前に清い者とされ、神と和解し、律法と罪から解放され自由になり、救いに与かり、来るべき御国で永遠に生きるものとなるのです・・・そこにはもはや苦しみも悲しみも・・・涙もありません・・・その時こそ・・・すべてが過ぎ去るから。そこにあるのは、主にある平安です・・・人類が何千年かかっても成し遂げることが出来なかった、ユートピアがそこにはあるのですから。

そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

マタイによる福音書 / 27章 46節

そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。

ルカによる福音書 / 23章 46節

そうです、この時・・・ほふられた犠牲の子羊、永遠なる大祭司となられたのです・・・

その十字架の死の力とは、完全無欠であり、それに付け加えるものなど一切必要ありません。「完了した」そう!過去完了なのです。

そして今年は珍しく?見事なくらいに?3日後の12日がイースターです。ちょっと待て!受難日は10日の金曜日ではないのか?と突っ込まれる方がおられるかもしれませんが、書き出すと長くなるのでここでは触れません。

そして復活=甦りです。イエス=キリストの復活は、キリスト者の雛形なのです。

イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。

それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。

こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。

そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。

一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。

彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

ルカ 24:23~32

しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

ヨハネ 20:11~16

個人的には、ルカの二人の弟子のエマオへの道中の話と、ヨハネ伝のマグダラのマリヤの記述が好きです。

この時のマリヤの気持ちがわかろうというものです!

「主が復活なさったのだ!これでもう恐いものなど何もないわ!世界恐慌がナンボのもんじゃい!核ミサイルでもスカラー砲でも何でも来んかい!反キリはん、なめたらあかんで~!」

とは言わなかったでしょうが(^_^;)、そんなに遠くないはず・・・再臨の時には、我々もマグダラのマリヤと同じ経験ができることでしょう(もっとも生きていればですが(-_-;)・・・)。

もう恐れるものは何もない・・・早くその時が来て欲しいものです。

マラナタ~主よ、来たりませ

これがキリスト教というものです。

自民教、アソウ教、小泉=竹中教、小沢教、アメリカ教、中共教、マモニズム(拝金教)、宇宙人教などよりず~っと、頼りになりますよ!

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2009年1月18日 (日)

「命の門」~ ヨハネ 10:7~18

そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。

わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

ヨハネ 10:7~8

今日の礼拝でのメッセージの題名と箇所です。なにせ少人数の礼拝のため、本日は私が聖書朗読の当番でした。極端な話、聖書朗読と礼拝前の祈り or 礼拝後の祈りの掛け持ちの時もあります。

読んでいて心に訴えるものがありました・・・ゆえにブログ=エントリーにしようと決めました。

盗人や強盗はパリサイ派のことで、主ご自身が羊の門であると。

そして

>わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。

とのこと。そう、主は自分の羊を知っていて、羊はクリスチャンのたとえであるから、我々も主イエスを知っているのです。

こんなことを書くと「偉そうに!」とか「だからキリスト者は嫌いだ」と言われそうですが、理屈じゃないのです。この方のみがメシヤであって、贖い主であるということを。

さらに、まだこの囲いの他にも導くべき羊がいると言います。そしてその声を聞き分けるであろうと。文字通り解釈するならば、囲いの中の羊は当時のユダヤ人であり、囲いの外の羊とは異邦人。もちろん、その中においてもきき従わない羊はいるわけですが。

翻って現代においては、前者がクリスチャンであって、後者が未信者となるかなと。

そして自分から我々人類のために命を捨てるのは、メシヤの宿命であったのだと・・・命に至る門は、主イエス=キリストのみということがわかろうかと思います。

「現代のような危機は歴史上あった。しかし、そのスピードが桁違いだ。すぐに結果が出る」ともおっしゃいました。「ふむ、ふむ。わかってるじゃん」などと私は偉そうに(笑)心の中でつぶやきました。ポンペイの遺跡を例に取りましたが、人々が平和だと言っている時に突如として滅びがやって来る・・・まさしく「ノアの日、ロトの日」であるわけです。

そして今度こそ!King of Kings 「王の王」として再び来られるはずです。その時こそすべてが終わる・・・本当の意味で、我々は労苦を解かれるのです。

さあ、その為にも正しい羊飼いの声を聞き分け、命へと至る門=羊の門から入ろうではありませんか!

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2008年12月11日 (木)

旧約聖書~エレミヤ書より

私の苦手とする聖書ネタです。久々にエレミヤ書を通読し終えました。と言っても、自慢じゃありませんが、4回目(^^ゞ・・・旧約聖書はボリュームもあり、根気が要ります(-_-メ)。

ちなみに一番読んでいるのは(いわゆる通読で)、「ヨハネの黙示録」(これだけは10回以上(ーー;))、次に「マタイ伝」、その次が「ダニエル書」でしょうか?やはり、おかしなクリスチャン、頭がイカレてますね(涙;)。

やはり読み終えて思うのですが、エレミヤ書のトータル的なテーマは「警告と裁き」であると感じます。

炎上するユダ王国、バビロンに破壊の限りを尽くされ、累々と築かれた屍の中で、呆然と立ち尽くすエレミヤの姿が、まるでつい最近のことのように脳裏に浮かぶかのようです。

イザヤはペンを炎につけて書き、エレミヤは涙に浸して書いたと言われるように、何ともいえない「悲惨、哀愁」を感じずにはいられません。

主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。あなたはわたしよりも強いので、わたしを説き伏せられたのです。わたしは一日中、物笑いとなり、人はみなわたしをあざけります。

それは、わたしが語り、呼ばわるごとに、「暴虐、滅亡」と叫ぶからです。主の言葉が一日中、わが身のはずかしめと、あざけりになるからです。

もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。

エレミヤ 20:7~9

私は、エレミヤ書と言えば、ここの箇所を真っ先にイメージします。言いたくないことを言わねばならないエレミヤの心境は如何ほどだったでしょう。預言者の厳しい使命とは我々の想像を絶するものだったことでしょう。できることならごめん被りたい・・・つらい働きだったと思います。

私がやっているブログなど「幼稚園児のママゴト」みたいなものであると、つくづく痛感させられます(T_T)。私などが間違って?エレミヤみたいだったなら、3日と持たず発狂することでしょう。

そして炎上し、破壊の限りを尽くされ、掠め取られたユダ王国の姿が、これから来るであろう、

「終末の背信に走った裁かれるべき教会」

「罪が究極まで積みあがった現代物質社会」

とダブって見えてしまうではありませんか。

過去のものではなく、これから訪れるであろう「終末の姿」に思えてなりません。覚悟だけはしておきたいものです。嘘つき呼ばわりされようと、おおかみオヤジ扱いされようと、これだけは私も言っておこうと思います。これだけは必ずこうなるはず。他人事、かつてあった悲劇ではない・・・確かに「神の激しい怒り」は全地に注がれることでしょう。

残念ながら、宇宙人がやってきて、マザーシップに引き上げられ次元上昇するなどという、都合の良い事は起らないでしょう。このようなことを信じている人は、まず間違いなく慌てふためき、命乞いをしても真っ先に裁かれます。

ちと脱線。しかし読んでいて暗く、気分が滅入って来る中においても、私は一筋の光をも見出すのです。これから世は、こうなるであろうが、単なる「容赦なき裁き」では終わらないと思う。甘いかもしれないが、「警告と裁き」だけではないと感じる。もちろん、生物学的に言って、この世の命を失う=死ぬことはありえますが、確かに全能なる万物の創造主たる神は憐れみ深い。予断ながら、積極的にサタンの働きに加担しなかった者まで地獄の業火で永遠に苦しめ続けるとも思えない。

主は言われる、その日その時、イスラエルの民とユダの民は共に帰ってくる。彼らは嘆きながら帰ってくる。そしてその神、主を求める。 彼らは顔をシオンに向けて、その道を問い、『さあ、われわれは、永遠に忘れられることのない契約を結んで主に連なろう』と言う。

エレミヤ 50:4~5

* 解説:イスラエル、ユダの民は、文字通り現代のユダヤ人(サタニスト=カバラ主義ユダヤ教徒は論外)の末裔も指すでしょうが、霊的なたとえの意味合いでは、現代の霊的イスラエル=真実なるクリスチャンを指すと解釈します。そして、これからも「キリストによる救い」を信じる方が益々起こされることでしょう。そう、嘆きながら帰ってきて、神を求めるはずです。

イスラエルは、ししに追われて散った羊である。初めにアッスリヤの王がこれを食い、そして今はついにバビロンの王ネブカデレザルがその骨をかじった。

それゆえ万軍の主、イスラエルの神は、こう言われる、見よ、わたしはアッスリヤの王を罰したように、バビロンの王とその国に罰を下す。 わたしはイスラエルを再びその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べる。またエフライムの山とギレアデでその望みが満たされる。

主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである。

エレミヤ 50:17~20

* 解説:イスラエルは、真実なるユダヤ人と真実なるクリスチャン。おそらくアッシリアがアメリカ、バビロンは、おそらく、EU、中国のいずれかだろうと思われる。そして激動の終末からキリストの再臨、千年王国へ。そしてついに!涙がまったく拭い去られます。

そしてキリストの尊き血で贖われたレムナント(残りの者)が、キリストゆえに罪赦された時、主イエスを王とした新しい時代が訪れ、我々は重荷を降ろすことが出来ると私は解釈します・・・

このようなシナリオならば、私はたとえハズして嘘つき呼ばわりされてもかまいません。信じるだけでも価値がある。

年末になって暗いニュースばかりですが、私はまだギブアップしません、このような未来予想図がある限り。途方にくれても行き詰らないと信じます。極端な話、主にあって休みに入る者は幸せであるともあるから・・・

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2008年10月20日 (月)

惑わされることなく、影響されず・・・ただ主のみ見上げ

不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ

黙示 22:11

今日の日経平均は上げて終わったようで、終値9005円でしたか?しぶとく年金資金ででも買い上げているんでしょうか?とりあえず、一服と言ったところでしょうかね。明日、リーマンのCDSの実質的清算日のようですが、マジックを使ってのりきるんでしょうな。あと朝鮮半島で何らかの動きがあるようですが、まだわかりません・・・

ということで、久しぶりに聖書に関することを書こうかな、などと。

この聖句、実は毎週読んでいる、ある牧師先生のHPメッセージで取り上げていた箇所なのです。

今の世相を反映しているなと実感しました・・・24歳の孫が平気で95歳のじいちゃんの茶碗蒸しに毒入れるわ、無差別に人を刺すわ、誰でもいいから殺したかっただって?、2年位前?の栃木の今市での幼女殺人、茨城常陸大宮市の山中での全裸での死体遺棄事件・・・まだ犯人は見つかりません・・・宗教的儀式殺人の臭いすらします・・・なんでよ!イラク、アフガン、最近はパキスタンでの止むことなき自爆テロ(愛であるはずの父なる神が、そんなこと教えるわけねえだろうよ!なにがジハード、殉教よ・・・単なる無理やり巻き添え自殺じゃん)、もういいかげんにしてくれ!と叫びたくなります。てめえらで好き勝手博打打って、失敗すりゃ国に泣きついて助けて~、そうじゃないと世界の金融メカニズム崩壊しちゃうよなどと、脅迫するわ、世界的企業間競争に勝つ為には、労働コストの削減だなどと、モットもらしいこと言って、正当な労働対価払わないわ・・・輸出がダメなら内需喚起って・・・これだけ国内市場ぶっ壊しといて、国民貧乏にしておいて、いまさら無理だろうよ!と言いたくもなります。年金に関しちゃ、ありゃ国家あげての巨大な「振込め詐欺」以外の何ものでもないし・・・

キリがないのでこの辺にしますが、書いていてもう~!情けなくて、涙が流れてきます(エグッ!)

しかし、これも神の想定の範囲内、為すがままにさせよ、驚くには及ばないということなのでしょう。せめて我々だけでも、惑わされることなく、悪に染まることなく影響されず、腐らずに・・・

たとえ、魔が差して間違いを犯しても、ダビデのように謙虚に涙を流してこうべを垂れ(不倫を是認しているわけではありませんよ、ただ、ダビデの気持ちは痛いほどわかりますが・・・)、ヨナのように「いやだ~」と神から逃れても、それでも神を慕うように、主イエスを見上げ、ついていきたいものです。そうであるなら、主イエスは、誰一人脱落しないよう、後ろを振り向きながら、共に歩んでくださるはず。

我々には、あとわずかであろう千年王国の住人となり、新天新地=新しいエルサレムへの入場チケットが約束されているのですから、感謝です。

一時的なこの世的価値観に惑わされるべきではありません(負け犬の遠吠えとも言いますが)、もうすぐ最終結果が出るはず・・・要は最終成績、9回裏二死満塁で逆転満塁ホームランを打たせてくれる、後半ロスタイムで、フリーキックをジーコのように、芸術的にゴール右隅に決めさせてくれる・・・我々の信じる神とはそんなお方です。

めっちゃ厳しいですが、その本質は、私みたいな薄汚いドブネズミのような人間ごときの為にさえ、十字架にかかってくださった初臨の時の主イエスの面影を見る、愛ある憐れみ深い方なのですから・・・

ダビデの歌

主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。

詩篇 23:1~4

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2008年9月13日 (土)

サマリア人さん、あなたは主イエスに愛されているのですよ!

だんだん収拾がつかなくなってきたような(^_^;)・・・管理人として見て見ぬ振りは出来ないようですね。
心労で寝込んだ時はしばらくブログお休みします・・・(涙;)。
その時は、わたぴ~さん(また振っちゃッたよ^_^;、でも一番信頼してるということで、ブログやってるし)・・・バルナバさん・・・nnobitaさん・・・enjeruさん・・・あとのことはよろしくお願いしますm(__)m。

サマリア人さん・・・私ごときで納得する答えが出せるとは思ってませんけど・・・付き合いましょう。
わがブログと関わりを持ったのも何らか理由があるかもしれないから。

その前に!三位一体をまず無視しなさい!!

この際、背に腹は変えられません。
それとおかしなサイト、教理関係のネットサーフィンはやめること!
私が思うに、「ホルスの目」のサイトでおかしな影響受けたんじゃないかな?
オカルト=パワーをバカにしちゃいけません。
そうじゃないと、いつまでたっても、サタンの惑わしから抜けられませんよ。
「相手は人間じゃあない」のです、元フォーブス=アジア編集長さんみたいに、「我々で立ち上がって戦おう!」などと言うのは、バカの見本です・・・相手を知らないでノコノコ出て行ったのでは、発狂するだけです。

それと誤解のないよう言っておきますが、悪霊の惑わしは、誰にもやってきます、何もあなただけじゃない。
それにサタンは、どうでもいいような人間、サタンにとって強敵となる可能性のない人間は相手にしません。
サタンがあなたを「今のうちに潰してしまおう」と考えても不思議じゃない。
わたしは、サマリア人さんが、それだけの可能性を秘めていると思ってます。

バルナバさんが紹介してくれたサイトにもあったでしょ、「三位一体を充分に理解しようと思う者は、頭がおかしくなるであろう。」って。これは脅迫でも何でもなく、事実です。
まったくその通りで、三位一体と限らず、聖書を完璧に人間の頭で納得できるよう理解しようと思うならば・・・発狂するのが関の山です。東大卒、ハーバード卒の頭脳をもってしても無理!預言者でさえ、すべてを理解しているわけではないのです、「理解する、神がそのベールを剥ぐ」にも時があるのですよ。
悪い事いわないから、やめましょう。だから「悪霊にやられた・・・」とはっきり言ったのですよ。「惑わしの霊」にやられたわけです。

それとnnobitaさんがいい事言ってくれました。

>愛と同じように信仰も最後の飛翔は理屈では説明できない。
って・・・

いいですか、理屈じゃないのです・・・真正のキリスト者であれば、誰でもわかるはずです。

ということを前提に、サマリア人さんのコメを検証してみましょう。

>これは正統なカトリック、およびプロテスタントクリスチャンとして、洗礼を受けたもののみが最後の審判で復活するというと理解されているのですか?

→私はそうは思ってませんよ。洗礼受けたって、名前だけのクリスチャンだけならいくらでもいます。
総裁選に出馬している、麻生、与謝野、石破だってそうなんですよ。
あんなのがクリスチャンだって?ふざけんじゃねえよ、って言いたくなります。私は絶対に認めない!

洗礼受けてなくたって、素晴らしい信仰を持った人はいるはずです・・・

>反対にエホバの証人だろうが、仏教徒だろうが三位一体の教義をうけてなくても、神の教えに従っていきようとしている人

→残念ながらこれは違うんだなあ。三位一体じゃなくて

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  

ヨハネ 14:6


が正解です。これは私じゃなくて、聖書が言っているのです。唯一の救いはキリストによる!って。
いい人と正しい人は違うのですよ。このことは、わが教会で長老の方に言われ、「ハッ!」としました。

>偽クリスチャンでも、彼らより救われるチャンスがあるとお思いなのですか?

→答えは明白ですね?enjeruさんだって、そうは理解してないはずです。これは誤解。イエスをキリストと認めない、自称?クリスチャンは世間一般の人より、サマリア人さんが言うように、ある意味厳しいかもしれませんね。

>教義の同じ人だけが尊敬に値するとでもおっしゃりたいのですか?

→そんなことないでしょう。冷静になってください。キリスト者じゃなくたって、いい人、尊敬できる人はいくらでもいます。それどころか、自称クリスチャンより、よっぽど!「キリストの教えをわかってるじゃん!」という方はいくらでもいます・・・そして無理にキリスト教を押し付けるべきではありません・・・

時があります。そして三位一体がわからないから、クリスチャンになれないという理解も間違ってます・・・それを言ったら、私・・・クリスチャンじゃないです(-_-;)・・・あなたもそのうちわかるときが来るはず!

理屈じゃないのですよ・・・それが、知識と信仰の大きな違いなのです・・・知識だけなら、宗教学者の中に長けた人だっています。牧師先生より詳しい。でも信仰がなければ、絵に書いた餅だと私は思う。

聖霊の助けがなければ、「イエスこそ唯一の救い主である」ことがわからないし、聖書の言わんとしている真理はいつまでたってもわからないと思う。

エホバの証人だって、創価学会の信徒だって、いい人はいますよ。この世的に助けてもらっている人もいる。そういう人には、別の方法があるのかもしれない・・・それは残念ながら私にはわからないし、新しい神学を立ち上げるつもりもありません。

ただし!いいですか!!唯一の救いはキリストです。これは私としても譲れません・・・

>ただ、三位一体については神と神の子キリストが同質だとはわからないのだから、理解しようがないのです。
絶対に、神とキリストが同質でないと信じないと、神に裁かれる、そんなことどこに聖書に書いてあるのですか?

→だから理解できなくていいんです。「わからないのは罪である」と言うのにも似た、サタンの脅迫に惑わされているのです。そうでなきゃ、それほど三位一体にこだわるはずがない・・・みんなわからないで、「キリストの救い」を受け入れているのです。それだけで充分です。

私はキリスト教とは、徹頭徹尾キリスト本願で、キリストを「唯一の救い主=来るべきメシヤ」であると受け入れていれば、それでいいと思っているのです。だからキリストの救いをうまくはぐらかすエホバの証人や、キリストの神性を表向きはどうあれ、認めないユニテリアン=ユニバーサリストはキリスト教ではないと言っているのです。とにかく三位一体の惑わしから離れること!

時が来れば誰でも理解できるように、主イエスが真実を教えてくれるから。それまで待とうよ。

>三位一体という正統な教義を信じないと、救いはないと、どうして言い切られるのでしょう。
罪の悔い改めって、正統教会がいうように、キリストと神が同質でないと信じられない事を罪といわれるのですか。。

→そんなこと誰も言ってないよ。聖書にも書いてないよ。惑わされているのはあなたですよ・・・被害妄想に陥っている。

ただ、「キリストこそ唯一の救い主である」ということがわかっていればいいんだよ。これならわかるよね?それだけで充分です(^_^)v。

最後に私の大好きなエピソード、メッセージなどを少々。何度わがブログで書いても過ぎることはないから。

>使徒のあとの時代の第一クレメンス書簡にはペテロがローマで殉教したと書かれています。それを元にしたのでしょうか19世紀のポーランドの作家シエンキヴィッチはすばらしい物語を書きました。『クオ・バ・デス・ドミネ』(主よいずこに行き給う)という名のこの小説はローマ皇帝ネロの迫害の時の様子が見事に書かれています。大迫害の中クリスチャン達次々と犠牲になります。弟子たちはペテロにローマを脱出するように願います。あなたひとりは私たち数万人にも当たりますどうぞ逃れてください。
ついにローマを後にして郊外に出たペテロは向こうの空に輝く光を見ます。それはやがてペテロの横を通り過ぎようとしますが、弟子たちの目には何も見えないのにペテロの目にはその光の中に主イエスが見えました。ペテロは問います。「クオ・バ・デス・ドミネ」“主よいずこに行き給う”。主は答えられます。「ペテロよ、あなたが私の羊を捨てて逃れるなら、私はローマに行ってもう一度十字架に掛かろう」
「主よ申し訳ありません」老ペテロは驚く弟子たちを尻目にくびすを返してローマに帰ります。そしてついに捕らえられ十字架刑に処せられます。その時、ペテロは私は三度も主を否んだ者だ、主と同じ十字架に掛かることなど出来ないと、両方の腕木が下にある十字架にさかさまに掛かり殉教したと伝承にはあります。
弱く、無学で、普通の人だったペテロ。しかし、彼は幼子のように主に従いました。彼は常に真実でした。ガリラヤ湖の無名の漁師は歴史上もっとも有名な人となり、キリストの教会の柱となりました。


~小石牧師の礼拝説教集 2000/7/9 ペテロ Ⅲ より

* サマリア人さん、この老ペテロのどこに、「三位一体」の概念がありますか?この頃はまだ、アタナシウス神学もアリウス神学もなかったんだよ。そこにあるのは、ペテロの純粋なるキリストに対する従順だけじゃない、それだけでいいじゃん!

次いきます、長くなりそうだけどご勘弁を。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」19:5

 イエス様はザアカイという名前を知っておられました。前に聴いたことがあったのか、それとも神であるご自身の力で知っておられたのかは判りません。しかし、イエス様はザアカイの名前だけでなく、その心の求めの全てを知っておられたに違いありません。そうでなければ「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」とは言わなかったと思います。先日学んだイザヤ書の言葉を思い出します。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。イザヤ45:4~5(口語訳)

 イエス様はあなたを知っています。あなたの必要、あなたの寂しさ、あなたの苦しみ、あなたの悲しみ。
 面白いのはザアカイの家に泊まることにしてあるからという言葉です。ザアカイの承諾があったわけでもなく、全くの初対面なのに、まるで旧知の友人の家に泊まるように、気軽に言われたのです。ザアカイは友を持っていたのです。イエスという親友を持っていたのです。そうです私たちすべてはイエス様という親友を持っているのです。

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」19:6~8

 ザアカイは「急いで降りて来」ました。人々からのけものにされ、鼻つまみ者だったやくざの頭。しかし、彼は今、幼子のように喜び勇んでイエス様を迎えました。案の定、人々はイエス様を非難しました。「何だ、あの男もザアカイと一緒か」。
 しかし、ザアカイも、そしてイエス様も全くそんなことは問題にしていません。ザアカイはたちまちにして自分がなすべきことを悟りました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。主よ、というとき人は自分がその人の僕であると告白しているのです。人を人とも思わず、金だけがすべてだと思っていたザアカイ。すべての人に憎まれても、一向に気にせず、荒くれ者の頭だったザアカイがイエス様に「主よ」と呼びかけました。「私はこれからの生涯、あなたを主と仰ぎます。あなたは神の御子、約束のメシヤです。」

イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」19:9~10

 ザアカイは失われた人でした。言わばこの世の脱落者だったのです。しかし、そういう人のためにこそイエス様は来たとおっしゃるのです。救いが来ました。アブラハムの約束。永遠の救いがここに来ました。
 その日、エリコの町の貧しい人々の家に、ザアカイの僕たちが金銀をばら撒いて行きました。ザアカイの莫大な財産の半分が、エリコの町に流れてゆきました。
 イエス様はザアカイの決意を喜ばれました。イエス様はザアカイの差し出す悔い改めの捧げものを受け取られました。イエス様はザアカイに、あの金持ちの息子のように全財産を捨てよという命令はされませんでした。それはなぜだと思いますか。あの青年は「あなたに従ってまいります」と言ったのです。献身するのに財産は要りません。すべてを捨てるべきです。ペテロもヨハネも、網と両親を捨てて従いました。しかし、ザアカイはイエス様に従って行くと言ったのではありません。彼はエリコに留まりました。恐らく取税人もやめなかったことでしょう。正しく行うならそれは間違った職業ではなかったのです。イエス様はザアカイの信仰の度合いに従って、ザアカイを受け入れたのです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28~30


 今もこの方は変わらずに私たちを待っておられます。イエス様は今日もあなたに言うのです、「急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に、あなたの心に泊まることにしているから。私はあなたの親友だから。

~ 小石牧師の礼拝説教集 2002/8/25 組長ザアカイの回心より

* 私はこのメッセージによって、ハンネが与えられました・・・そこにあるのは、常にキリストと自分との関係でしょ?元祖オリジナルのザアカイさんだって、「三位一体」を信じて救われたわけじゃないよね?主イエスをキリストと信じて救われたわけだよね?これだったらわかるよね?それと二つのメッセージに共通する事、それは、「幼子のように」です・・・小難しい理屈はいらないのです。

私の信仰の基礎の半分以上は小石牧師に教わったものなので、先生に無断ですが、引用させてもらってます・・・あの先生、「陰謀論者」とか「反ユダヤ」のレッテル貼られているけど、それは単なる一面で、あの牧師先生の信仰の真髄は、「三位一体」じゃなく、「キリストの際限なき愛」なんです。これだけで充分です。

これで最後です。

フット=プリント(あしあと)

ある夜、私は夢を見た。 

私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 

どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。 

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 

これまでの人生の最後の光景が映し出された時、 

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 

そこには一つのあしあとしかなかった。 

私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 

このことがいつも私の心を乱していたので、 

私はその悩みについて主にお尋ねした。 

「主よ、私があなたに従うと決心した時、 

あなたは、全ての道において、私とともに歩み、 

私と語り合ってくださると約束されました。 

それなのに、私の人生のいちばんつらい時、 

ひとりのあしあとしかなかったのです。 

いちばんあなたを必要とした時に、 

あなたが、なぜ、わたしをすてられたのか、 

わたしにはわかりません」 

主は、ささやかれた。 

「私の大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 

あしあとがひとつだったとき、 私はあなたを背負って歩いていた。」
 

* どうですか?ここにだって、「三位一体」の三の字も出てこないよね?でも私には充分主イエスの愛が伝わってくるし、三位一体などわからなくても、「主よ、私はあなたについていきます!」という気になりませんか?

今は確かにつらいかもしれない・・・キリストを受け入れるということは、つらいことも覚悟しなくてはならないから。それも神の子となる(もちろん、キリストと違った意味でです)ためには必要なのです。

みんなそれを乗り越えて、今に至っている・・・キリスト教とはその初めにして、つまづきの石なんです。来るものを選ぶのです・・・大丈夫!それこそ「わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。

となるから(^_^)v。

今日は不思議と爽やかで、心穏やかです・・・冷静に書けました。こんなしょうもないブログでよければ、いつでもおいで・・・私も覚悟決めたよ・・・とことんまで付き合ってあげるから・・・でもお手上げの時は・・・わたぴ~さん、よろしく~(^_^;)・・・ふり杉だって(笑)。

それにしてもバルナバさん・・・

>バルナバです。
サタンの策略は明確です。
私たち主に在る兄弟姉妹の分裂と、子羊通信の閉鎖です。

私・・・ここまで考えませんでしたよ(^_^;)・・・

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