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なんでも&緊急連絡版

カテゴリー「主イエス=キリストの愛」の83件の記事

2016年10月15日 (土)

心に染み入る聖書箇所

7:15わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

ローマ書 7:15~25
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まるで自分のことのように、この箇所は読むことが出来ます・・・
主が、パウロを「選びの器」として召し上げたのもわかろうというもの。
回心してからも、そう簡単に人間スイッチ一つ押してどうにかなるように変われるものではありません。
主イエスの一方的な憐れみ、恵み・・・テッタレスタイ~「完了した」

102213psalm116112

ただただ跪き、首を垂れるだけです。

2016年3月11日 (金)

あれから5年~涙を拭い去ってくださる時が必ず来ると信じて

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

黙示 21:1~4

2015年12月 6日 (日)

「叱責」と「説得」

https://www.youtube.com/watch?v=6AZElHJSzBA&index=71&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p

https://www.youtube.com/watch?v=NwF-8LDZx-8&index=72&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p

本日の命題。
上記URLは、知る人ぞ知る??私の尊敬するアメリカン牧師、ジョン=コーソン師の黙示録12章の講解説教です。必見ですよ、100%完璧かどうかはわかりませんが、師の着眼点は鋭い!
和訳奉仕してくださっている姉妹に、天来の豊かな祝福がありますように。

と序論を展開しましたが、難解なる黙示録12章の聖書解釈は上記URLのユーチューブ動画を見てもらうとして、視点を変えて・・・その中で触れていた論点・・・
私も常々と言いますか、毎日のようにジレンマに陥る「罪の自覚」と「罪の赦し」について自分なりに感じたことなどを。

コーソン師は言います。

「叱責」いわゆる聖書的に言うならば「訴える者」となるでしょうか、これは悪霊から来ている。翻って、「説得」するもの・・・これは聖霊から来ている。
これには目から鱗でした。

キリスト者として受洗して、形の上ではいわゆる「新生」、言い換えるならば「Born again」して、晴れてキリストを信じ、救われる者となるわけですが、現実はと言うと・・・なかなかそうは問屋が卸さない --;

今回のエントリーは客観的というより、主観的要素が強いことをはじめに断っておきましょう。
パウロも言ってます。「義人はいない、一人もいない。」とローマ書の中で。
私などはその典型であり、叩けばいくらでも埃が出てくる、それは己自身がクリスチャンホームで生まれ育った環境ではないと言うのも関係するのかも?知れません・・・

学生時代、ある女性がいました。世間で言う「いいとこ育ちの典型的なお嬢様クリスチャン」・・・

私は感じましたよ・・・「私とは人種が違うな」と・・・
通学していた大学がミッション・スクールでしたので、それなりにクリスチャンはいました。その反面、「おいおい、お前、本当にクリスチャンかよ?嘘だろ?」という輩がいたのも事実ですが(笑)

自分自身で今までの生涯で後悔しても後悔しきれないことも多々やってきた。洗礼を受けた後においても、「いけないことだ、これはどう都合よく割り切っても罪だ」ということも、多々やってしまった・・・「ああ~、このことも天において記録として残るのだろうなあ・・・」と思いながらも、葛藤がありながらも、結果、肉の弱さに打ち克つことの出来ない自分がいた・・・というか、今もいる・・・現在進行形。

ところで、キリストを信じる以前はそれほど深く考えたこと、感じたことはなかったのですけど、キリストを信じてからと言うもの、いわゆる「罪」に関して敏感になったのか?
どうも「やっちまった後」、罪悪感だけが残り、その度に、旧約的に「燔祭の子羊」を生贄に心の中で捧げる行為をしてしまう自分がいる。「羊がぎょうさんいるいうても、足りないやないかい!あかん、あかんわ。破産してまうで~!」となってしまう。
これが、コーソン師の言うところの「叱責、訴える者」だと言うことなのですね。あくまで人間的視点なのですがね。

よって、キリストの十字架の贖いを自分では理解してわかっているつもりでも、サタンの叱責にはなかなか勝てない自分をそこに見出すのです。

コーソン師は「これはサタンから、悪霊陣営から来るものだ」と言います。異論ありませんね、頭ではわかっているが、エモーション(心、魂)が別物であるかのようについていかない。

ところが、聖霊は説得する側であると言います。主なるキリストは言ってくれる「私はもう忘れたよ。だから君もいつまでもウジウジしてないで前進しようよ」と・・・

「我々の戦いは血肉ではなく霊的な戦いである」とパウロは書簡の中で述べている。まったく異論のないところ。

世間一般では「気の持ちようだ」で片付けてしまうでしょうが、奥は深いと私は感じる。

よくよく考えてみれば、唯一なる父なる神との仲介者であるキリスト。
歴史上で言えば一大事であった大イベント、そう、

神は罪の根源、動機によって裁く方であって、傲慢、奢り高ぶりの罪は許されないが、人間的弱さから来る罪は許される。

父なる神がそのひとり子である御子イエスをローマ帝国時代、もっとも残酷であったと言われる十字架刑によってまで、我々を贖って下さった。その罪の赦しは絶対に等しいのだ。

もちろん、少しでもキリストに似た者になることを忘れてはならないけど、どんなにあがき努力しても、その水準になど我々人間で到達することなど100%不可能、キリストはあくまで手本であって基準ではないのですね、これが。

ただただ、御子なるイエスの十字架の前にひれ伏し、感謝するのみ。御子の十字架はそんな偏狭なものではないのだ、父なる神へと至る、唯一の道であるのだから。

「もう忘れたよ・・・友よ、ともに永遠の御国においてお供してはくれまいか・・・それまでは大変なこともあるかもしれないが、私のために出来る範囲でよい、救いを受けたからには地上において尽力を願いたいのだが。」と、これがいわゆる「説得」、聖霊の働きなのでしょうね・・・

実感するのは困難かもしれない、しかしこれが、聖書的であるのは間違いないところ、「罪の自覚と赦し」・・・全てはここから始まるのですね。

霊的ガードを今こそ大切に。

2015年10月15日 (木)

キリスト信仰の三本柱

さてさて、ブラッドムーン・テトラッド及び仮庵の祭りも終わり、9月末に真打ちなるロシアがシリアへ出張って行き、今月に入りイスラエルが荒れてきて、ナイフで刺された、それどころか銃弾まで飛び交って、テロの連鎖の日々と、めまぐるしく世の中は動いているようです。

ところが私の周りはと言うと・・・「今度の研修会、○○山のハイキングに行くけど参加者は?」とか、「11月の○○祭り、けんちんそばを今年はやってみようと思うのだが」とか、イスラエルとは危機意識において雲泥の差というか、平和ボケと言うか --;・・・

ある意味、何も知らない方が幸せなのかもしれない。
これが世のマジョリティーの現状でしょう。

教会でさえ(すべてとは言いませんが)、終末という言葉にはアレルギーを示し、死んだら天国に行ける・・・その先のメッセージはまず聞かない・・・復活の栄光体の本当の意味(復活の福音)も、どれほどの信徒が理解しているやら?掲挙、ラプチャーという単語すら知らない人もおそらく多いことでしょう。
単なる気休めで「宗教ごっこ」の仲良し社交クラブやっているんだったら、やらないほうがいいと思うのだけど・・・だから私は不条理で荒唐無稽な宗教というものが大嫌いなわけなのです。
注;別に教会批判をしているわけじゃありません。ある事情があり、しばらく教会から離れてますが、いろいろなことを教わり、信仰のバランスも矯正され、感謝してますので。

じゃ、「なぜあなたはキリスト者やっているのよ?」と聞かれれば、「本物のキリスト教は宗教じゃないから。大宇宙の唯一なる真理だから」と答えるしかないでしょうかね?

16:ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

17:ヨハネによる福音書/ 03章 17節
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18:ヨハネによる福音書/ 03章 18節
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

19:ヨハネによる福音書/ 03章 19節
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

20:ヨハネによる福音書/ 03章 20節
悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

要するに福音の三本柱である

1 罪の赦しなる贖いの十字架

2 復活

3 再臨

を、このヨハネ伝の箇所は、よく表現していると私は感じます。

私はたまたま、どういうわけか?ダニエル書、エゼキエル書、黙示録から入り、終末論を通して3番目から信仰への道へ入ってきた為に、このようなブログを書いてますけど、私としては優先順位は付けられないですね、どれも大事で一つたりとも欠けてはならない。

ただ一つ申し上げたい。

司令官(牧師、聖職者 etc )たるもの、敵を知らずしては敗北する。しかしながらここで注意したいのは、この世の君として絶大なる英知と知恵、絶大なるこの世の権力を有するサタンをボスとするNWOと陰謀論のみに傾倒して、その土台、基礎となる「罪の赦し」、言い換えれば、尊きキリストの贖いの十字架を信じなくては本末転倒で、霊的ガードがないため極めて危険であるということです。

かく言う私自身、救いを受けた時の(たぶん間違いない --;??)あの爽やかな涼風が心の中を静かに優しげに吹き抜けていく、一人空を見上げると、意味もなく涙が頬を伝う平安・・・理屈じゃなく自分にしかわからない感覚、あの体験があったからなのでしょう。
これこそイエス=キリストそのものじゃありませんか!!

ローマ人への手紙/ 08章 31節
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

ローマ人への手紙/ 10章 11節
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

と、偉そうに慣れない分野を書いてしまいましたが、実を言いますと、苦しい日々の毎日なんですわ、これが(涙;)
でも、あの時の体験があるから何とか留まっていられるのですね・・・この世のものとは思えないあの感覚がです・・・残念ながら一週間ほどしか持続しませんでしたがね --;

御国に行ったならば、それこそ永遠に感じることが出来るでしょう。だから私は、主の再臨を待ち望みたいのです、もちろんその前に肉の命を落すかもしれない(最近、やせ方が病的で)。阿鼻叫喚の期間を覚悟せねばならないかもしれない。それでも反面、そのチャンスが与えられている世代でもあると私は感じるのです・・・

2015年8月11日 (火)

自分って本当に救われているのかよ??

なんだか最近、また絶不調で「ああ~、なんてこった~!まったくの役立たずの見本じゃねえかよ!」と思う今日この頃・・・

そんな時だったかな・・・昇天されてから約1年と3ヶ月、ファイナルに近いメッセージを読み返し、必要以上に自分を責めてはいけない、人間なんだからしょうがないのだな・・・と思わされました。

このHPだけは本人不在でも、閉鎖しないで遺して置いていただきたい!
全文は ↓

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2014msg/140119.html

「あなたは救われていますか?」

大事なところだけ抜粋引用させていただきます。ダメだとは本人も言わないことでしょう。

>自分は本当に救われて居るのだろうか。そんな疑問を持っているクリスチャンが以外に多いことに気がつきます。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ10:9~10

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。10:13
 それでも本当に自分の信じ方で良いのだろうか、これで十分なのだろうかと心配するナイーブな人も居ます。そういう場合は否定してみればいいのです。
「イエスは神の子ではない」
「イエスの十字架は自分と関係ない」
「イエスは復活しなかった、今でも死体はどこかにある」
 もし、これがスムースに言えるか、抵抗無く信じられるか、“判らない”なら、あなたは救われていません。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
Ⅰコリント12:3

「イエスは主です」と言う告白は、聖霊様の助けによってだけ出来るのです。一般の人でも、さすがに「イエスは呪われよ」とはいえないと思いますが、欧米のサタン礼拝者たちは喜んで言います。

救いや、聖霊に関することは、感情やフィーリングで結論付けてはならないのです。明確な文書によって、永遠に誤り無く定められていることです。大体、自分が救われているかどうか心配する人は、救われているのですがね。未信者はそんなことには関心を持ちませんから。


特に下線部分。
これで自分が散々と「イエスは我が神、我が主です」と信じてからでさえ、肉的弱さ、持って生まれた本能に勝てずにやってきた神の目から見れば、悪行三昧の数々・・・間違いない、自覚があるのだから。
神の清さとは、我々人間では到底及ばない、どんなに努力したって届かない、それだけシミ一つない、完全無欠な方だということです。

さすがに神からのミッションを忠実にこなして、凱旋帰国した牧師先生だけあるなと私は思う。
これですっきりした。大丈夫!たぶん?^^;
私って、こんなブログ書いていますけど、意外と?ナイーブで感受性が強いのです。

私がネット上でお世話になった別の牧師先生も言ってましたね。大好きでしたがこの先生も数年前に召されました。よくコメント欄に投稿してくださり忘れられない方です。

「天においてイエス様にお会いしたなら、『申し訳ありません。ごめんなさい。お許しください。』って、開口一番無意識にでるんじゃないかな。」と(笑)

私、思いましたよ、「これって自分じゃん!」と^^;

人間、傲慢が最大の敵ですが、あまり自分を追い込み卑下するのも考えものですね。
大丈夫!少なくとも霊は救われて地獄の業火で未来永劫、苦しむことはないでしょう。

それでもこの世においてはいつも --;

「ああ~、なんてこった!何故ここまで苦汁を飲まねばならないのだ」と・・・
早く楽になりたい・・・

2015年5月 2日 (土)

魂に染み入るメッセージ~ワタクシ、泣けました(ToT)/

板の方には貼り付けたのですが、板、見てない方もいるかもしれないのでこちらにも貼り付けます。ダブってますので見た人は勘弁願います。

人間というのは「気の毒だ、同情する」と、相手を思いやることは出来ても、自分で身を持って同じような経験をし、痛みを共有しないと、同じ境遇を味あわないと、心底から相手のその苦痛はわからないものです。

中身は違えど、私にも「犬に噛まれたレベルの棘」が6年以上刺さっているので良く理解できました。
Pastor ジョン=カーソン師、覚えておこう。


>あなたがどれほどの知識を持っていようと、心がなければ、人には伝わらない。
そしてあなた自身が経験していなければ、人に心から共感することは出来ない。
その立場に立たないと。

アーメンです!

2015年4月24日 (金)

罪びとのつぶやき~自分です

102213psalm116112

わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。


ローマ書 7:15、24~25

* 人間とは何と弱い生き物なのであろうか・・・

ただただ一方的な憐れみと恵みとにより、主の御前に跪き罪の許しを請い、己の罪状書きから罪の記録を黒く塗り潰していただこう・・・

追記:

アタマではわかっている、しかしながら別の生き物であるかのように、心がついていかないことでもあるのですよね。

ヘブル書にもありますように、「キリストの十字架は完全無欠であり、過去完了系である。付け加えるものは何もない」

要するに「イエス様の初臨時の仕事は既に終わっている。」、やってしまっていて疑問の余地はない。

のですが・・・人間側(自分)から見ると「日々、イエス様に十字架に架かってもらっている気がする、旧約の時代だったら羊が何頭あっても足りない」

もちろん、上記が真理でありますが。
弱いものです。
「信仰の薄い者よ、何故疑うのか」・・・全然成長しない、時間をかけてじっくりと変えていただくのみです。

多分大丈夫でしょう・・・たぶん?

2014年8月23日 (土)

ニック=ブイチッチさん

神は間違いを犯さない。

主よ、あなたを信じます。
たとえ明日がわからなくとも。

僕には聖霊の翼が必要なんだ。

神をあきらめちゃダメだ、神はあなたをあきらめないから。

どうやって最後まで耐えられるかが大事でしょう。
耐え抜けることが出来るでしょうか?
起き上がることを放棄したら、二度と起き上がれないでしょう。
もう一度起き上げれる勇気を得ることが出来ますよ。こういう風にね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すごい男がいたものです。比較すること自体ナンセンスなのですけど、どう逆立ちしても、一生かかっても、私などじゃ~、彼のレベルには到達できないですね。

その他、三浦綾子さん、田原米子さん、星野富広さんと・・・

二連弾でいきましょう!






2014年8月 7日 (木)

新天新地

・・・って、このようなものかもしれませんね。

最近、手抜きで申し訳ありません。
ノックアウト寸前の体に鞭打ちながら情報収集及び精査作業はやってます・・・ただ決定打が見つからず、先行き不透明状態、ブログ記事として書く気がしないだけでして。
もう少し時間が必要なようです。

そういうわけで、最終目的地である、新天新地に思いを馳せましょう。
このJlcmilesさん、左の「お勧めユーチューブ動画サイト」にもリンク貼り付けてありますが、お勧めですよ。


2014年4月20日 (日)

女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか

しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。

すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。


ヨハネ 20:9~16

今日はイースターでしたね。
この際、律法主義的にセミラミス=ヴィーナス=女神崇拝というローマ的異教がルーツであるとか、過ぎ越し=ペサハ(この分野においては教会暦よりユダヤ暦のほうが信用性においては高い)から数えて、日数が合わねえじゃん?ということは脇にいったん置いておいて、純粋なる気持ちで主なるイエスの復活を祝いましょう。

ここの箇所は、復活の場面でも特に好きな箇所です。
自分がマグダラのマリヤの立場として、背後に主が現れたなら・・・もう恐れるものなどないもない!となったことでしょう。病気など吹っ飛んじゃう(笑)

贖い、復活は既に成就してます。あとは再臨を待つだけです・・・本当の意味での救いの完成はそれほど遠くないと感じます・・・Amen!



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