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なんでも&緊急連絡版

カテゴリー「主イエス=キリストの愛」の88件の記事

2018年6月10日 (日)

十字架の愛~神の一方的な恵みを

いつもこの手の動画の紹介は、板の方へ投稿するのですが、今回のこの動画・・・
魂に染み入りました。

福音の本質を見事に話してくれてはる。

もう見たからええわと言う人もいるでしょうけど、まだ見てない方、50分ほどの動画ですので、是非、ご覧になって下さい。

「私が道であり、真理であり、命である。私によらなければ誰も父のみもとに行くことは出来ない。」

とのヨハネ伝の意味も理解できることでしょう。ヨブも言ってます。仲保者が必要だと。

これぞメシヤなるイエス=キリストの証しであろうかと。
無駄話はこの辺にして、「罪と救い」・・・わかり易く話してくれてます。

2018年6月 4日 (月)

Pass Over Lamb~過ぎ越しの子羊

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。~ヨハネ 1:29
わが神、わが主よ。
トマスの言った上記の言葉・・・ただただ主の十字架の前に跪くばかり。
True Messiah  誠なる贖い主。

 

53:1だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。


イザヤ 53章

これも書いておきましょう。

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十字架上のキリストの最後の7つの言葉

第1の言葉

「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節)

第2の言葉

「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節)

第3の言葉

「女よ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節)

第4の言葉

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)

第5の言葉

「私は渇いている(ディプソォー)」(ヨハネの福音書19章28節)

第6の言葉

「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節)

第7の言葉

「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節)

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注;残酷なシーンが含まれてますので、気の弱い方は視聴にご注意下さい。

2018年5月17日 (木)

私にとってのキリスト信仰とは

15:3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

 

15:14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

第一コリント 15:3~6、14~20

パウロをして、何と重みのある言葉であろうか。

以前にも書きましたが、私は「気休めの宗教」と呼ばれるものが大嫌いな人間です。
じゃ、お聞きします、キリスト教は宗教じゃないのですか?と。
はい、宗教じゃありません、大宇宙の真理です、だから私は信じて望みを託すのです、と応えますね。

言い方を変えるならば、キリスト教とは私にとって、人生一大の大博打、人生最大のすべてを賭けたギャンブルと言えるでしょう。

半か丁か?真実か偽りか?当たるか外れるか?All or Nothing  二つに一つ。
50:50・・・決して低くない確率ですよね?

我が師匠が生前、言ってました、「中途半端な信仰は人生を棒に振る、私は人生のすべてをキリストに賭けている。中途半端な信仰なら持たない方が良い」と。

結果、私はキリストにわが人生のすべてを賭けた・・・たとえ万が一、外れても悔いはない、平安のうちに人生の幕を閉じることが出来ることでしょう。

今現在、イラン核合意問題、アメリカ大使館移転をはじめとするエルサレム問題、次に待っているのは米朝首脳会談(ボルトン絡みで不透明感が漂い始めたが --;?、米軍産複合体の戦争屋を侮るべからずか?)、その続きが最近出てきまして、EU10カ国によるEU連合軍構想、軍事同盟ですわね。いわゆるダニエル書、黙示録の十本の角、十本の足の指でしょうか?

ここに来て世の中の動きが早い!2~3日前の情報は古い、まるで出エジプトのイスラエルの民に与えられたマナのようです。

私には世の中が今現在、マタイ24章、ルカ21章の世界にあるように思えてならない。
ダニエルの最後の一週(7年)まで秒読み段階のように思えてなりません・・・

私が今、総論的に書けるのはこの程度でしょうかね?

イエス=キリスト、ヤシュア=ハ=マシヤこそ、唯一の贖い主であると私は信じ、希望を託す次第です・・・シャローム、God bless you!

22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
22:21主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

黙示 22:20~21

主よ、来たりませ、アーメン。

2018年1月 7日 (日)

主よ御許に近づかん

もう疲れたよ、パトラッシュ・・・

いかん、いかん!その時が来るまで走り続けねば。主よ、力を与え給え・・・
と強がってみるが・・・

若い後輩たちの根性を見習わねば・・・

霊戦その他諸々の戦いは、これからが本番なのだから。

14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

ヨハネ 14:1~3


2017年4月26日 (水)

メシヤの証し~両手両足の今なお残る十字架の刺し傷

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

マタイ 28:16~20

24:38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。 24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔 24:40こう言って、手と足とをお見せになった。〕 24:41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。 24:42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 24:43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

24:44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 24:45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 24:46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 24:47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

 

24:48あなたがたは、これらの事の証人である。 24:49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
24:50それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 24:51祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 24:52彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 24:53絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

ルカ 24:38~53

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引用箇所は、主なるキリストが復活を遂げて、天に挙げられた記述である。
今でこそ、復活の概念がわかろうと言うものだが、当時の弟子たちに復活を理解するのは難しいことであったろう。

もし自分が!・・・あの当時、生きていたとして「復活と昇天」が理解できたか・・・はっきり言って自信がない。そもそもイエスをメシヤだと信じたかどうかすら自信が・・・ない(涙;)

「天国は本当にある」;トッド=バーボ著の証し人になった息子のコルトン少年(当時3歳~5歳だったか?)によると、「イエス様は両手と両足に赤いペンを持っているんだよ」との事・・・・

要するに、今では復活を遂げて天に昇り、父なる神の右に座している神の御子、父なる神から全権委任を受けた King of Kings なる御方が今なお、受肉時に地上で受けた十字架刑の釘で刺された傷跡を残されていると言うのだ・・・そのような傷跡、神(くどいが私が言う神はただ1人、聖書の神です、いわゆる創造主)たるもの(人間的見地では)邪魔だろうに、消そうと思えば簡単なことだろうに。

ここに、言葉に出来ない「神の愛」があるのだ・・・
肉にアタマからの伝達が行かないような罪人のカシラ、代名詞のような私などのためにと思うと、ただただ跪き、十字架上でのテッタレスタイ(完了した)なる御業を讃え涙する以外にないのではなかろうか・・・

やがて主イエスとお会いできる時(たぶん?大丈夫だろう --;?、聖書を読む限り)、おそらく真っ先に、土下座して謝罪するだけだろうと思っていた(笑)

しかし両手両足の「十字架刑の刺し傷」(いずれ真偽はわかるだろうが、私は信じる)・・・全宇宙を探し回っても、これ以上の宝は見出せないのではなかろうか。

おそらく感激のあまり微動だに出来ず、フリーズ。謝罪どころか、ひと言も発せないのではなかろうか??


* 私自身、これでも小心者で血を見るのは苦手、残酷な映像ですが、あえて選びました。

2016年10月15日 (土)

心に染み入る聖書箇所

7:15わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

ローマ書 7:15~25
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まるで自分のことのように、この箇所は読むことが出来ます・・・
主が、パウロを「選びの器」として召し上げたのもわかろうというもの。
回心してからも、そう簡単に人間スイッチ一つ押してどうにかなるように変われるものではありません。
主イエスの一方的な憐れみ、恵み・・・テッタレスタイ~「完了した」

102213psalm116112

ただただ跪き、首を垂れるだけです。

2016年3月11日 (金)

あれから5年~涙を拭い去ってくださる時が必ず来ると信じて

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

黙示 21:1~4

2015年12月 6日 (日)

「叱責」と「説得」

https://www.youtube.com/watch?v=6AZElHJSzBA&index=71&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p

https://www.youtube.com/watch?v=NwF-8LDZx-8&index=72&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p

本日の命題。
上記URLは、知る人ぞ知る??私の尊敬するアメリカン牧師、ジョン=コーソン師の黙示録12章の講解説教です。必見ですよ、100%完璧かどうかはわかりませんが、師の着眼点は鋭い!
和訳奉仕してくださっている姉妹に、天来の豊かな祝福がありますように。

と序論を展開しましたが、難解なる黙示録12章の聖書解釈は上記URLのユーチューブ動画を見てもらうとして、視点を変えて・・・その中で触れていた論点・・・
私も常々と言いますか、毎日のようにジレンマに陥る「罪の自覚」と「罪の赦し」について自分なりに感じたことなどを。

コーソン師は言います。

「叱責」いわゆる聖書的に言うならば「訴える者」となるでしょうか、これは悪霊から来ている。翻って、「説得」するもの・・・これは聖霊から来ている。
これには目から鱗でした。

キリスト者として受洗して、形の上ではいわゆる「新生」、言い換えるならば「Born again」して、晴れてキリストを信じ、救われる者となるわけですが、現実はと言うと・・・なかなかそうは問屋が卸さない --;

今回のエントリーは客観的というより、主観的要素が強いことをはじめに断っておきましょう。
パウロも言ってます。「義人はいない、一人もいない。」とローマ書の中で。
私などはその典型であり、叩けばいくらでも埃が出てくる、それは己自身がクリスチャンホームで生まれ育った環境ではないと言うのも関係するのかも?知れません・・・

学生時代、ある女性がいました。世間で言う「いいとこ育ちの典型的なお嬢様クリスチャン」・・・

私は感じましたよ・・・「私とは人種が違うな」と・・・
通学していた大学がミッション・スクールでしたので、それなりにクリスチャンはいました。その反面、「おいおい、お前、本当にクリスチャンかよ?嘘だろ?」という輩がいたのも事実ですが(笑)

自分自身で今までの生涯で後悔しても後悔しきれないことも多々やってきた。洗礼を受けた後においても、「いけないことだ、これはどう都合よく割り切っても罪だ」ということも、多々やってしまった・・・「ああ~、このことも天において記録として残るのだろうなあ・・・」と思いながらも、葛藤がありながらも、結果、肉の弱さに打ち克つことの出来ない自分がいた・・・というか、今もいる・・・現在進行形。

ところで、キリストを信じる以前はそれほど深く考えたこと、感じたことはなかったのですけど、キリストを信じてからと言うもの、いわゆる「罪」に関して敏感になったのか?
どうも「やっちまった後」、罪悪感だけが残り、その度に、旧約的に「燔祭の子羊」を生贄に心の中で捧げる行為をしてしまう自分がいる。「羊がぎょうさんいるいうても、足りないやないかい!あかん、あかんわ。破産してまうで~!」となってしまう。
これが、コーソン師の言うところの「叱責、訴える者」だと言うことなのですね。あくまで人間的視点なのですがね。

よって、キリストの十字架の贖いを自分では理解してわかっているつもりでも、サタンの叱責にはなかなか勝てない自分をそこに見出すのです。

コーソン師は「これはサタンから、悪霊陣営から来るものだ」と言います。異論ありませんね、頭ではわかっているが、エモーション(心、魂)が別物であるかのようについていかない。

ところが、聖霊は説得する側であると言います。主なるキリストは言ってくれる「私はもう忘れたよ。だから君もいつまでもウジウジしてないで前進しようよ」と・・・

「我々の戦いは血肉ではなく霊的な戦いである」とパウロは書簡の中で述べている。まったく異論のないところ。

世間一般では「気の持ちようだ」で片付けてしまうでしょうが、奥は深いと私は感じる。

よくよく考えてみれば、唯一なる父なる神との仲介者であるキリスト。
歴史上で言えば一大事であった大イベント、そう、

神は罪の根源、動機によって裁く方であって、傲慢、奢り高ぶりの罪は許されないが、人間的弱さから来る罪は許される。

父なる神がそのひとり子である御子イエスをローマ帝国時代、もっとも残酷であったと言われる十字架刑によってまで、我々を贖って下さった。その罪の赦しは絶対に等しいのだ。

もちろん、少しでもキリストに似た者になることを忘れてはならないけど、どんなにあがき努力しても、その水準になど我々人間で到達することなど100%不可能、キリストはあくまで手本であって基準ではないのですね、これが。

ただただ、御子なるイエスの十字架の前にひれ伏し、感謝するのみ。御子の十字架はそんな偏狭なものではないのだ、父なる神へと至る、唯一の道であるのだから。

「もう忘れたよ・・・友よ、ともに永遠の御国においてお供してはくれまいか・・・それまでは大変なこともあるかもしれないが、私のために出来る範囲でよい、救いを受けたからには地上において尽力を願いたいのだが。」と、これがいわゆる「説得」、聖霊の働きなのでしょうね・・・

実感するのは困難かもしれない、しかしこれが、聖書的であるのは間違いないところ、「罪の自覚と赦し」・・・全てはここから始まるのですね。

霊的ガードを今こそ大切に。

2015年10月15日 (木)

キリスト信仰の三本柱

さてさて、ブラッドムーン・テトラッド及び仮庵の祭りも終わり、9月末に真打ちなるロシアがシリアへ出張って行き、今月に入りイスラエルが荒れてきて、ナイフで刺された、それどころか銃弾まで飛び交って、テロの連鎖の日々と、めまぐるしく世の中は動いているようです。

ところが私の周りはと言うと・・・「今度の研修会、○○山のハイキングに行くけど参加者は?」とか、「11月の○○祭り、けんちんそばを今年はやってみようと思うのだが」とか、イスラエルとは危機意識において雲泥の差というか、平和ボケと言うか --;・・・

ある意味、何も知らない方が幸せなのかもしれない。
これが世のマジョリティーの現状でしょう。

教会でさえ(すべてとは言いませんが)、終末という言葉にはアレルギーを示し、死んだら天国に行ける・・・その先のメッセージはまず聞かない・・・復活の栄光体の本当の意味(復活の福音)も、どれほどの信徒が理解しているやら?掲挙、ラプチャーという単語すら知らない人もおそらく多いことでしょう。
単なる気休めで「宗教ごっこ」の仲良し社交クラブやっているんだったら、やらないほうがいいと思うのだけど・・・だから私は不条理で荒唐無稽な宗教というものが大嫌いなわけなのです。
注;別に教会批判をしているわけじゃありません。ある事情があり、しばらく教会から離れてますが、いろいろなことを教わり、信仰のバランスも矯正され、感謝してますので。

じゃ、「なぜあなたはキリスト者やっているのよ?」と聞かれれば、「本物のキリスト教は宗教じゃないから。大宇宙の唯一なる真理だから」と答えるしかないでしょうかね?

16:ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

17:ヨハネによる福音書/ 03章 17節
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

18:ヨハネによる福音書/ 03章 18節
彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

19:ヨハネによる福音書/ 03章 19節
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。

20:ヨハネによる福音書/ 03章 20節
悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。

要するに福音の三本柱である

1 罪の赦しなる贖いの十字架

2 復活

3 再臨

を、このヨハネ伝の箇所は、よく表現していると私は感じます。

私はたまたま、どういうわけか?ダニエル書、エゼキエル書、黙示録から入り、終末論を通して3番目から信仰への道へ入ってきた為に、このようなブログを書いてますけど、私としては優先順位は付けられないですね、どれも大事で一つたりとも欠けてはならない。

ただ一つ申し上げたい。

司令官(牧師、聖職者 etc )たるもの、敵を知らずしては敗北する。しかしながらここで注意したいのは、この世の君として絶大なる英知と知恵、絶大なるこの世の権力を有するサタンをボスとするNWOと陰謀論のみに傾倒して、その土台、基礎となる「罪の赦し」、言い換えれば、尊きキリストの贖いの十字架を信じなくては本末転倒で、霊的ガードがないため極めて危険であるということです。

かく言う私自身、救いを受けた時の(たぶん間違いない --;??)あの爽やかな涼風が心の中を静かに優しげに吹き抜けていく、一人空を見上げると、意味もなく涙が頬を伝う平安・・・理屈じゃなく自分にしかわからない感覚、あの体験があったからなのでしょう。
これこそイエス=キリストそのものじゃありませんか!!

ローマ人への手紙/ 08章 31節
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

ローマ人への手紙/ 10章 11節
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。

と、偉そうに慣れない分野を書いてしまいましたが、実を言いますと、苦しい日々の毎日なんですわ、これが(涙;)
でも、あの時の体験があるから何とか留まっていられるのですね・・・この世のものとは思えないあの感覚がです・・・残念ながら一週間ほどしか持続しませんでしたがね --;

御国に行ったならば、それこそ永遠に感じることが出来るでしょう。だから私は、主の再臨を待ち望みたいのです、もちろんその前に肉の命を落すかもしれない(最近、やせ方が病的で)。阿鼻叫喚の期間を覚悟せねばならないかもしれない。それでも反面、そのチャンスが与えられている世代でもあると私は感じるのです・・・

2015年8月11日 (火)

自分って本当に救われているのかよ??

なんだか最近、また絶不調で「ああ~、なんてこった~!まったくの役立たずの見本じゃねえかよ!」と思う今日この頃・・・

そんな時だったかな・・・昇天されてから約1年と3ヶ月、ファイナルに近いメッセージを読み返し、必要以上に自分を責めてはいけない、人間なんだからしょうがないのだな・・・と思わされました。

このHPだけは本人不在でも、閉鎖しないで遺して置いていただきたい!
全文は ↓

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2014msg/140119.html

「あなたは救われていますか?」

大事なところだけ抜粋引用させていただきます。ダメだとは本人も言わないことでしょう。

>自分は本当に救われて居るのだろうか。そんな疑問を持っているクリスチャンが以外に多いことに気がつきます。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ローマ10:9~10

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。10:13
 それでも本当に自分の信じ方で良いのだろうか、これで十分なのだろうかと心配するナイーブな人も居ます。そういう場合は否定してみればいいのです。
「イエスは神の子ではない」
「イエスの十字架は自分と関係ない」
「イエスは復活しなかった、今でも死体はどこかにある」
 もし、これがスムースに言えるか、抵抗無く信じられるか、“判らない”なら、あなたは救われていません。

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
Ⅰコリント12:3

「イエスは主です」と言う告白は、聖霊様の助けによってだけ出来るのです。一般の人でも、さすがに「イエスは呪われよ」とはいえないと思いますが、欧米のサタン礼拝者たちは喜んで言います。

救いや、聖霊に関することは、感情やフィーリングで結論付けてはならないのです。明確な文書によって、永遠に誤り無く定められていることです。大体、自分が救われているかどうか心配する人は、救われているのですがね。未信者はそんなことには関心を持ちませんから。


特に下線部分。
これで自分が散々と「イエスは我が神、我が主です」と信じてからでさえ、肉的弱さ、持って生まれた本能に勝てずにやってきた神の目から見れば、悪行三昧の数々・・・間違いない、自覚があるのだから。
神の清さとは、我々人間では到底及ばない、どんなに努力したって届かない、それだけシミ一つない、完全無欠な方だということです。

さすがに神からのミッションを忠実にこなして、凱旋帰国した牧師先生だけあるなと私は思う。
これですっきりした。大丈夫!たぶん?^^;
私って、こんなブログ書いていますけど、意外と?ナイーブで感受性が強いのです。

私がネット上でお世話になった別の牧師先生も言ってましたね。大好きでしたがこの先生も数年前に召されました。よくコメント欄に投稿してくださり忘れられない方です。

「天においてイエス様にお会いしたなら、『申し訳ありません。ごめんなさい。お許しください。』って、開口一番無意識にでるんじゃないかな。」と(笑)

私、思いましたよ、「これって自分じゃん!」と^^;

人間、傲慢が最大の敵ですが、あまり自分を追い込み卑下するのも考えものですね。
大丈夫!少なくとも霊は救われて地獄の業火で未来永劫、苦しむことはないでしょう。

それでもこの世においてはいつも --;

「ああ~、なんてこった!何故ここまで苦汁を飲まねばならないのだ」と・・・
早く楽になりたい・・・

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