ラザロの蘇り
8分ほどの動画です。
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8分ほどの動画です。
映画が公開されてから15年近くたちますが色あせないですね。
1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ヨハネ1:1~5
3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
ヨハネ 3:16~18
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15:3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
15:14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
第一コリント 15:3~6、14~20
パウロをして、何と重みのある言葉であろうか。
以前にも書きましたが、私は「気休めの宗教」と呼ばれるものが大嫌いな人間です。
じゃ、お聞きします、キリスト教は宗教じゃないのですか?と。
はい、宗教じゃありません、大宇宙の真理です、だから私は信じて望みを託すのです、と応えますね。
言い方を変えるならば、キリスト教とは私にとって、人生一大の大博打、人生最大のすべてを賭けたギャンブルと言えるでしょう。
半か丁か?真実か偽りか?当たるか外れるか?All or Nothing 二つに一つ。
50:50・・・決して低くない確率ですよね?
我が師匠が生前、言ってました、「中途半端な信仰は人生を棒に振る、私は人生のすべてをキリストに賭けている。中途半端な信仰なら持たない方が良い」と。
結果、私はキリストにわが人生のすべてを賭けた・・・たとえ万が一、外れても悔いはない、平安のうちに人生の幕を閉じることが出来ることでしょう。
今現在、イラン核合意問題、アメリカ大使館移転をはじめとするエルサレム問題、次に待っているのは米朝首脳会談(ボルトン絡みで不透明感が漂い始めたが --;?、米軍産複合体の戦争屋を侮るべからずか?)、その続きが最近出てきまして、EU10カ国によるEU連合軍構想、軍事同盟ですわね。いわゆるダニエル書、黙示録の十本の角、十本の足の指でしょうか?
ここに来て世の中の動きが早い!2~3日前の情報は古い、まるで出エジプトのイスラエルの民に与えられたマナのようです。
私には世の中が今現在、マタイ24章、ルカ21章の世界にあるように思えてならない。
ダニエルの最後の一週(7年)まで秒読み段階のように思えてなりません・・・
私が今、総論的に書けるのはこの程度でしょうかね?
イエス=キリスト、ヤシュア=ハ=マシヤこそ、唯一の贖い主であると私は信じ、希望を託す次第です・・・シャローム、God bless you!
22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
22:21主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。
黙示 22:20~21
主よ、来たりませ、アーメン。
もう疲れたよ、パトラッシュ・・・
いかん、いかん!その時が来るまで走り続けねば。主よ、力を与え給え・・・
と強がってみるが・・・
若い後輩たちの根性を見習わねば・・・
霊戦その他諸々の戦いは、これからが本番なのだから。
14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
ヨハネ 14:1~3
28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
マタイ 28:16~20
24:38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。 24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔 24:40こう言って、手と足とをお見せになった。〕 24:41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。 24:42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 24:43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。
24:44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 24:45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 24:46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 24:47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48あなたがたは、これらの事の証人である。 24:49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
24:50それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 24:51祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 24:52彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 24:53絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。
ルカ 24:38~53
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引用箇所は、主なるキリストが復活を遂げて、天に挙げられた記述である。
今でこそ、復活の概念がわかろうと言うものだが、当時の弟子たちに復活を理解するのは難しいことであったろう。
もし自分が!・・・あの当時、生きていたとして「復活と昇天」が理解できたか・・・はっきり言って自信がない。そもそもイエスをメシヤだと信じたかどうかすら自信が・・・ない(涙;)
「天国は本当にある」;トッド=バーボ著の証し人になった息子のコルトン少年(当時3歳~5歳だったか?)によると、「イエス様は両手と両足に赤いペンを持っているんだよ」との事・・・・
要するに、今では復活を遂げて天に昇り、父なる神の右に座している神の御子、父なる神から全権委任を受けた King of Kings なる御方が今なお、受肉時に地上で受けた十字架刑の釘で刺された傷跡を残されていると言うのだ・・・そのような傷跡、神(くどいが私が言う神はただ1人、聖書の神です、いわゆる創造主)たるもの(人間的見地では)邪魔だろうに、消そうと思えば簡単なことだろうに。
ここに、言葉に出来ない「神の愛」があるのだ・・・
肉にアタマからの伝達が行かないような罪人のカシラ、代名詞のような私などのためにと思うと、ただただ跪き、十字架上でのテッタレスタイ(完了した)なる御業を讃え涙する以外にないのではなかろうか・・・
やがて主イエスとお会いできる時(たぶん?大丈夫だろう --;?、聖書を読む限り)、おそらく真っ先に、土下座して謝罪するだけだろうと思っていた(笑)
しかし両手両足の「十字架刑の刺し傷」(いずれ真偽はわかるだろうが、私は信じる)・・・全宇宙を探し回っても、これ以上の宝は見出せないのではなかろうか。
おそらく感激のあまり微動だに出来ず、フリーズ。謝罪どころか、ひと言も発せないのではなかろうか??
* 私自身、これでも小心者で血を見るのは苦手、残酷な映像ですが、あえて選びました。
7:15わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
ローマ書 7:15~25
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まるで自分のことのように、この箇所は読むことが出来ます・・・
主が、パウロを「選びの器」として召し上げたのもわかろうというもの。
回心してからも、そう簡単に人間スイッチ一つ押してどうにかなるように変われるものではありません。
主イエスの一方的な憐れみ、恵み・・・テッタレスタイ~「完了した」
ただただ跪き、首を垂れるだけです。
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
黙示 21:1~4
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