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カテゴリー「主イエス=キリストの愛」の92件の記事

2023年5月23日 (火)

キリスト信仰までの The long and winding road?

子羊村でレビさんからリクエストがあり、久々にブログを書いてます。

信じたきっかけとなったのは、1995年頃、某牧師先生の書いた一冊の著書。
バブル崩壊後の不景気は「今までの循環性のとは違いそうだ」何かおかしいと感じていたんです。
本屋の平台にあってその本を買うのに、3日続けて通い3回目に買ったんです。
気になってしょうがなかったんですね。

その本を読んで目から鱗、この世を支配運営し、サタンを崇拝する悪魔主義者のピラミッド構造を知り、溜飲が下がる思いでした。な~る!と思わず納得。

子供のころから誰に教えてもらったわけでもなく、神は全知全能、最強で唯一神でなければならない、多神教的考えが嫌いでした。例として鳥山明氏でしたっけ?ドラゴンボール、漫画としては面白くて少年ジャンプで毎週読んでましたが、神様が、それも強い神があとからあとから出てくる・・・これは気に入りませんでしたね。「そんなの神じゃねえだろよ!」と(笑)

ついでながら小2の遠足で動物園の猿山でも、「人間になったサルって見たことも聞いたことないよな?」と幼心に思い、進化論には否定的で、創造論はすんなりと受け入れられました。

一神教的な下地はあったのかもしれません。しかしまだ陰謀論と聖書の終末論の知識どまりで、信仰を持つにはまだ時間がかかりました。
それからですね、大学がミッションスクールだったので、入学時にいただいた聖書があり、私の場合特殊かな?まず読んだのが黙示録とダニエル書^^;
そして四福音書を読んでから、創世記から通読へと。

もともと気休めに過ぎない宗教など大嫌いな人間なので選択肢はただ一つ、キリスト信仰しかなかったのですね。

そして2,000年を超えた頃から、取引先、同業者がバタバタと倒産・・・他人事じゃない、己の無力さを嫌と言うほど知らされ、私は生きているんじゃない、生かされているんだと思うようになり、自分にはサタンの陰謀に勝てる救世主が必要だとなり、トマスじゃありませんが、「わが神、わが主」なるイエス=キリストへとたどり着いたのですね。

それとは別件で、否、関係あるか?
初めて教会の礼拝に出席した翌日だか翌々日、なんとも言えない平安に満ちた心の落ち着き、5月の爽やかな風が自分の心と体を吹き抜けていく感覚、犬の散歩中に、そよ風に吹かれ空を見上げると、悲しくもないのに?不思議と涙があふれ頬を濡らす・・・こんな平安に満ちた日々が毎日続けばいいのにと思いましたよ(しかしこの世と関わっていると?5日間しか続かなかったですがね^^;)。生きていてこのような体験は初めてでしたね。まさしくエル=シャロームでしたよ。

ここまで来たら、もう後戻りは出来ない。終末の入り口にいるのは間違いない。罪の贖いの十字架、復活から昇天、そして再臨。そうそうそして携挙ですよ。
聖書を読む限りこれから世の中益々、悪化の一途をたどるでしょうが、我々には万軍の主、King of Kings であるイエス=キリスト という最強の神の御子がいらっしゃる。

こんな腐りきった世の中ですが、希望は間違いなくありますからね。

主よ、来たりませ~マラナタ。

2022年4月 3日 (日)

ラザロの蘇り

8分ほどの動画です。

 

2020年6月10日 (水)

You raize me up!

映画が公開されてから15年近くたちますが色あせないですね。

1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2この言は初めに神と共にあった。
1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネ1:1~5

3:16神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。

ヨハネ 3:16~18

 

2019年4月21日 (日)

今日は「復活祭」

春の例祭である、「過ぎ越し」~「種入れぬパン」~「初穂」の祭り(レビ記23章)

キリストの十字架上での贖い~肉体の死(葬り)~復活 の予表です。

今年は日付が一致しましたね、ハレルヤ!

本来であれば、心静めて「復活祭」を祝いたかったのですが、外野がうるさくて(涙;)、「サタンのやつ、邪魔ばかりしやがって」(笑)

ま、何はともあれ「過ぎ越しの犠牲の子羊」かつ「甦りの初穂」である我らが主、イエス=キリストの救いの御業に感謝です。

 

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2018年6月10日 (日)

十字架の愛~神の一方的な恵みを

いつもこの手の動画の紹介は、板の方へ投稿するのですが、今回のこの動画・・・
魂に染み入りました。

福音の本質を見事に話してくれてはる。

もう見たからええわと言う人もいるでしょうけど、まだ見てない方、50分ほどの動画ですので、是非、ご覧になって下さい。

「私が道であり、真理であり、命である。私によらなければ誰も父のみもとに行くことは出来ない。」

とのヨハネ伝の意味も理解できることでしょう。ヨブも言ってます。仲保者が必要だと。

これぞメシヤなるイエス=キリストの証しであろうかと。
無駄話はこの辺にして、「罪と救い」・・・わかり易く話してくれてます。

2018年6月 4日 (月)

Pass Over Lamb~過ぎ越しの子羊

見よ、世の罪を取り除く神の小羊。~ヨハネ 1:29
わが神、わが主よ。
トマスの言った上記の言葉・・・ただただ主の十字架の前に跪くばかり。
True Messiah  誠なる贖い主。

 

53:1だれがわれわれの聞いたことを
信じ得たか。
主の腕は、だれにあらわれたか。
53:2彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
53:6われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。
53:7彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。
53:8彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
彼はわが民のとがのために打たれて、
生けるものの地から断たれたのだと。
53:9彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:11彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。


イザヤ 53章

これも書いておきましょう。

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十字架上のキリストの最後の7つの言葉

第1の言葉

「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節)

第2の言葉

「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節)

第3の言葉

「女よ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節)

第4の言葉

「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)

第5の言葉

「私は渇いている(ディプソォー)」(ヨハネの福音書19章28節)

第6の言葉

「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節)

第7の言葉

「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節)

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注;残酷なシーンが含まれてますので、気の弱い方は視聴にご注意下さい。

2018年5月17日 (木)

私にとってのキリスト信仰とは

15:3わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、
15:4そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
15:5ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。
15:6そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。

 

15:14もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。
15:15すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。
15:16もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

第一コリント 15:3~6、14~20

パウロをして、何と重みのある言葉であろうか。

以前にも書きましたが、私は「気休めの宗教」と呼ばれるものが大嫌いな人間です。
じゃ、お聞きします、キリスト教は宗教じゃないのですか?と。
はい、宗教じゃありません、大宇宙の真理です、だから私は信じて望みを託すのです、と応えますね。

言い方を変えるならば、キリスト教とは私にとって、人生一大の大博打、人生最大のすべてを賭けたギャンブルと言えるでしょう。

半か丁か?真実か偽りか?当たるか外れるか?All or Nothing  二つに一つ。
50:50・・・決して低くない確率ですよね?

我が師匠が生前、言ってました、「中途半端な信仰は人生を棒に振る、私は人生のすべてをキリストに賭けている。中途半端な信仰なら持たない方が良い」と。

結果、私はキリストにわが人生のすべてを賭けた・・・たとえ万が一、外れても悔いはない、平安のうちに人生の幕を閉じることが出来ることでしょう。

今現在、イラン核合意問題、アメリカ大使館移転をはじめとするエルサレム問題、次に待っているのは米朝首脳会談(ボルトン絡みで不透明感が漂い始めたが --;?、米軍産複合体の戦争屋を侮るべからずか?)、その続きが最近出てきまして、EU10カ国によるEU連合軍構想、軍事同盟ですわね。いわゆるダニエル書、黙示録の十本の角、十本の足の指でしょうか?

ここに来て世の中の動きが早い!2~3日前の情報は古い、まるで出エジプトのイスラエルの民に与えられたマナのようです。

私には世の中が今現在、マタイ24章、ルカ21章の世界にあるように思えてならない。
ダニエルの最後の一週(7年)まで秒読み段階のように思えてなりません・・・

私が今、総論的に書けるのはこの程度でしょうかね?

イエス=キリスト、ヤシュア=ハ=マシヤこそ、唯一の贖い主であると私は信じ、希望を託す次第です・・・シャローム、God bless you!

22:20これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。
22:21主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように。

黙示 22:20~21

主よ、来たりませ、アーメン。

2018年1月 7日 (日)

主よ御許に近づかん

もう疲れたよ、パトラッシュ・・・

いかん、いかん!その時が来るまで走り続けねば。主よ、力を与え給え・・・
と強がってみるが・・・

若い後輩たちの根性を見習わねば・・・

霊戦その他諸々の戦いは、これからが本番なのだから。

14:1「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

ヨハネ 14:1~3


2017年4月26日 (水)

メシヤの証し~両手両足の今なお残る十字架の刺し傷

28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。
28:17そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。
28:18イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

マタイ 28:16~20

24:38そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。 24:39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔 24:40こう言って、手と足とをお見せになった。〕 24:41彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。 24:42彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、 24:43イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた。

24:44それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。 24:45そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて 24:46言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。 24:47そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

 

24:48あなたがたは、これらの事の証人である。 24:49見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。
24:50それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。 24:51祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕 24:52彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、 24:53絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

ルカ 24:38~53

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引用箇所は、主なるキリストが復活を遂げて、天に挙げられた記述である。
今でこそ、復活の概念がわかろうと言うものだが、当時の弟子たちに復活を理解するのは難しいことであったろう。

もし自分が!・・・あの当時、生きていたとして「復活と昇天」が理解できたか・・・はっきり言って自信がない。そもそもイエスをメシヤだと信じたかどうかすら自信が・・・ない(涙;)

「天国は本当にある」;トッド=バーボ著の証し人になった息子のコルトン少年(当時3歳~5歳だったか?)によると、「イエス様は両手と両足に赤いペンを持っているんだよ」との事・・・・

要するに、今では復活を遂げて天に昇り、父なる神の右に座している神の御子、父なる神から全権委任を受けた King of Kings なる御方が今なお、受肉時に地上で受けた十字架刑の釘で刺された傷跡を残されていると言うのだ・・・そのような傷跡、神(くどいが私が言う神はただ1人、聖書の神です、いわゆる創造主)たるもの(人間的見地では)邪魔だろうに、消そうと思えば簡単なことだろうに。

ここに、言葉に出来ない「神の愛」があるのだ・・・
肉にアタマからの伝達が行かないような罪人のカシラ、代名詞のような私などのためにと思うと、ただただ跪き、十字架上でのテッタレスタイ(完了した)なる御業を讃え涙する以外にないのではなかろうか・・・

やがて主イエスとお会いできる時(たぶん?大丈夫だろう --;?、聖書を読む限り)、おそらく真っ先に、土下座して謝罪するだけだろうと思っていた(笑)

しかし両手両足の「十字架刑の刺し傷」(いずれ真偽はわかるだろうが、私は信じる)・・・全宇宙を探し回っても、これ以上の宝は見出せないのではなかろうか。

おそらく感激のあまり微動だに出来ず、フリーズ。謝罪どころか、ひと言も発せないのではなかろうか??


* 私自身、これでも小心者で血を見るのは苦手、残酷な映像ですが、あえて選びました。

2016年10月15日 (土)

心に染み入る聖書箇所

7:15わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

7:16もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 7:17そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:18わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

7:19すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 7:20もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 7:21そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

7:22すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 7:23わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 7:24わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

7:25わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。

ローマ書 7:15~25
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まるで自分のことのように、この箇所は読むことが出来ます・・・
主が、パウロを「選びの器」として召し上げたのもわかろうというもの。
回心してからも、そう簡単に人間スイッチ一つ押してどうにかなるように変われるものではありません。
主イエスの一方的な憐れみ、恵み・・・テッタレスタイ~「完了した」

102213psalm116112

ただただ跪き、首を垂れるだけです。

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