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カテゴリー「宗教関連」の33件の記事

2017年4月 6日 (木)

置換神学は「補助的に」がいいと思うのだが?

>置換神学

置換神学(ちかんしんがく、Supersessionism、replacement theology、fulfillment theology)とは、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になったとする説である。

その根拠とされる聖句は、ガラテヤ3:6-9、3:29、ローマ2:28、29、4:13、マタイ21:43である。

聖書の語句で「イスラエル」と出てくる箇所を「ユダヤ人」と見なさずに霊的にのみ解釈する(キリスト教、教会を「真のイスラエル」とする)。

~ウィキより~

私としては100%否定するつもりはないし、場合によっては、この手法を使った方がわかりやすくフィットする箇所もあります。よって、私もまったく使わないわけじゃありません。

解釈にも、いわゆる「文字通り」の解釈と「たとえとして」の解釈があるように。聖書の二重性(デュアリティー)も否定しません。
とは言え、イスラエル(ユダヤ人)と教会は双方揃って両輪をなしていますよね?

要するに、バランス感覚のない常軌を逸した極端な置換神学は御法度ということでしょうか。頓珍漢な聖書解釈をしたくなければ。

それからこれ大事!終末預言の書に関しては、これはやめた方がいい。
最近の世界情勢、特に中東情勢を見ているとつくづく感じる。

自称?聖書片手に中東ウォッチャーをやっていて、ここ1~2年でフッと感じたことですけど、ユダヤ人とイスラエル国家、エルサレムを無視してはおかしな解釈になってしまうのですよ。
なぜなら、聖書に書いてある文字通りのことが成就しようとしているから。

特にダニエル書、ゼカリヤ書などは、終末における、ユダヤ人の救い為の書と言えるのではなかろうか?
ダニエル書を読んで気づくことは、黙示録と比べかなり、ユダヤ色が濃いことです。

それと参考までに:

”聖書預言には賞味期限がある(いわゆる政治経済、登場人物、軍事面を含めた舞台設定)

~Pastor JD Farag

”聖書に出て来る戦争の記述はすべてイスラエルが関係している。だからあれほどの歴史的大惨事にもかわらず、二度の世界大戦は聖書には書いてない。なぜか?あの時代にはイスラエルが国家としてまだ、なかったから。”

~Amir Tsarfati 氏

* 全部調べたわけじゃありませんけど、説得力がある。そしてハルマゲドンの最終攻撃のターゲットとなる本丸は・・・イスラエルであり、その時には世界首都であろうエルサレム。

2016年5月 2日 (月)

初代教会~使徒(12使徒他)達のその後~伝承

ワケあり、久々の更新となってしまいました・・・

結論から入るトップ・ヘビーで申し上げるならば・・・12使徒(イスカリオテのユダの後継者=マッテア、そしてある意味12使徒以上の働きをしたパウロ)のこの世での結末は、この世的価値観で言うならば、必ずしもHappy End とは言えないことでしょう。
世間でよく言う、当たり前、普通の死である死を迎えたのは、12使徒ではヨハネだけです・・・

彼らは「主イエスの復活」によって、変えられ、永遠の命の真骨頂を知っていたから受け入れられた・・・と言えばそれまででしょうけど、現代の自称・預言者、自称・神の働き人に・・・果たして可能でしょうか?私は真っ先に疑問を呈しますね・・・もちろん全員だとは言いませんよ。
それだけ預言者、主の証人の責務というのは、凡人では負いきれないほど重いものなのだとつくづく感じます。文字通り「・命がけ・孤独・世の嫌われ者」の代名詞なのだと思います。

ちなみに私のやっていることなど、幼稚園児のままごと・レベルに等しいですから。

さて、偽預言者に惑わされる昨今・・・一つのリトマス試験紙にはなりやしまいか?と思い、書いてみます・・・後の判断は個々人次第ですが。
連中がそれだけの器かどうかの判断材料の一つになることでしょう。神の選んだ真正なる預言者は世界広しと言えど、そう多くはないはずです・・・

聖書には使徒行伝においてゼベタイの子・ヤコブの殉教しか書いてませんが、参考までに伝承として、決して有害ではないと思うので。

参照サイト:http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-death-apostles.html

聖書に記録されている唯一の使徒の死はヤコブ(使徒行伝12:2)。
ヘロデ王がヤコブを「剣で殺した」と書かれていますが、おそらく首をはねたので しょう。

使徒ペテロは、ローマでXの形の十 字架(逆さ十字)に逆さにはり付けられたというものです。(最も一般的に、使徒たちの死の記録として受け入れられている教会の伝承)

マタイは、エチオピアで刀傷によって殉教の死をとげました。

ヨハネは、ローマで迫害の波が起こったとき、煮え立った油の大釜の中で殉教するところでした。しかしながら、奇蹟的に命が助かりました。 その後ヨハネは、監獄の島パトモス島の炭鉱に島流しになりました。彼は、預言的な書、黙示録をパトモスで書きました。使徒ヨハネはのちに釈放され、現代トルコとして知られているところに戻りました。彼は老齢で亡くなりました。使徒の中で唯一、平和に亡くなった人物です。

エルサレム教会のリーダーだった、イエスの兄弟ヤコブ(正式に使徒ではない)は、キリストへの信仰を否定することを拒否したとき、宮の南東の小尖塔から突 き落とされました。彼が、その墜落でも死ななかったことを発見した敵たちは、ヤコブを棍棒で撲殺しました。この小尖塔は、サタンがイエスを誘惑したときに 見せた同じ小尖塔でした。

ナタナエルとしても知られていたバルトロマイは、アジアへの宣教師でした。 彼は、今日のトルコで証し、アルメニアで説教したことで、むちで打たれ皮膚がはがれて亡くなりました。

アンデレはX型の十字架につけられ、ギリシャで亡く なりました。
7人の兵士にひどくむち打たれたあと、彼らはアンデレの苦しみを長引かせるためにひもで彼の体を十字架にくくりつけました。彼が十字架に引か れて行ったとき、彼は次のようなことばをもって十字架にあいさつしたと彼の弟子たちは報告しています。「私は、この至福の時を長いこと待ち望んできた。十 字架は、キリストのからだがかけられたので、神聖なものとなったのだ。」彼は、彼を苦しめた人々に2日後に死ぬまで説教し続けました。

使徒トマスは、そこに教会を建てるために出かけた宣教旅行の間に、インドで槍で刺されました。

裏切り者イスカリオテ・ユダの代わりに使徒として選ばれたマッテヤは、石打ちに され、そのあと首を切られました。

使徒パウロは、ローマにおいて紀元後67年に、拷問のあと邪悪な皇帝ネロによって首をはねられました。他の使徒に関して も伝承がありますが、それらには、信頼できる歴史的、また伝承的なサポートがありません。

使徒たちがどのようにして亡くなったかはそんなに重要なことではありません。重要なのは、彼らはみんな信仰のために喜んで死んでいったという事実です。イエスがよみがえらなかったのなら、弟子たちはそのことを知っていたはずです。誰も、うそだと分かっていることのために死ぬ人はいません。すべての使徒たち が、キリストへの信仰を捨てることを拒んで、自ら進んで恐ろしいしかたで死んだという事実は、彼らが本当に復活したイエス・キリストを目撃したということ のすばらしい証拠なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これから先・・・おそらく時代は益々、悪い方向へと向かうでしょう。そんな時、使徒たちの勇気のほんのわずかでも与えられるのならと・・・そう願わずにはいられません。

これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

ヨハネ 16:33

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

ヨハネ 12:24

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。
あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、
(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。


ヘブル 11:36~40

2014年11月19日 (水)

失われたアークーⅡ~聖書考古学による裏付

まず初めに、昨日の記事を読んでない方はまず読んで先入観を払拭してからお願いします。特定教団のすべてを否定するのは間違いですので。

実は2006年12月18日付、「失われたアーク~モーセ契約の箱は発見されている!」という記事を、ブログを始めて4ヶ月ほど経った頃アップしたのですが、未だに人気記事ランキングベスト5に入っている常連記事でして、最近、某姉妹からアークに関するDVDをお借りし(この場を借りて篤く御礼申し上げます)、その補足裏付としてはこれ以上はないだろう?という強い援軍となっており、ユーチューブにもアップされていたのでラッキー!これを使わない手はないとなった次第であります。

まだ読んでない方 ↓

http://zaakai.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_3c11.html

失われたアーク~モーセ契約の箱は発見されている!

も合わせて読んでいただけるとよりわかり易いかと。

それでは本題へと。

まずはこちらの動画を見てからの方がより理解が進むでしょう。

ゴルゴダの丘の上には聖墳墓教会が建っている、主イエスの墓はここにある、また、磔刑に架かった真下は東方正教会のエリアであると勘違いして、また間違った教えを受けている方・・・結構いらっしゃると思われるので。

二つとも1時間ちょい、2時間と長いビデオですが、必見です。

エンターテインメントと違い真剣に見ると疲れるかもしれませんので、1時間位づつ、3回に分けてみるのもいいかもです。

それでは真打と行きましょう。

このビデオを見ると、旧約聖書(人間の罪の記録であり、医学で言うところの診断書)と新約聖書(その為の解決であるところの罪の赦しと救い、医学で言うところの処方箋)は一体であり、そこには見事なまでの整合性が見出され、批准されているということがわかると思います。

まさしく聖書は「イエス=キリスト」を証しする書であって、「御子の贖いの血」に拠らねば救われないのです。

ヨハネ伝19:30の「すべては終わった」と仰られ息を引き取られた、主なるイエス=ヤシュアがまさしくメシヤであったと御霊に感じられることでしょう。

特に46分40秒から始まる講演内でのビデオ・・・生前のロン=ワイアット氏がアーク上から採取したという血液の塊ですが(詳細はビデオを見てください)、エルサレムの研究所で分析してもらった結果、それは人間の血であるのは間違いないが、染色体が24個しかなかったそうです。ワタクシ、理数系は生物を含めパッパラパ~なのですが、46個あるそうですね --;?

ところが女性の染色体が23個(母マリヤの遺伝子でしょう)、そして男性の染色体であるyもしくはxのうちy染色体が1個で計24しかなかったそうです。

我々普通の人間は23+23で46になるそうです。私は父なる神の奇跡がなされた業であると同時に、神が人間の姿をして地上に来てくださったと信じて疑いません。まさしく「聖霊によりて宿り」です。

そして極め付けが、これは誰のものでしょうか?との問いに対し、ロン氏は・・・涙ぐみながら「救い主の血です」と告白するシーンは、何度見ても胸が熱くなり、涙なくしては見れませんね(ToT)/

ここで涙が流れるようであれば、間違いなく救いに与っていると思ってます、たぶん --;?、これは偽預言の類ではありませんので。

と、前置きが長くなりました。これまた必見、2時間と長いですがそれだけの価値が十分あります。

そして私の見解は今でも変わりません。失われたアークはイエス様が磔刑に架かった真下にある!それは神の摂理であり、出来過ぎた話でもなんでもない。

日本の剣山説を力説する宇野正美氏は、いいかげん持論を撤回すべきであると。この人素晴らしい働きもしてますが、おっちょこちょいでガセネタが多いのも事実。でも憎めないからまあいいとしてます。

今のエルサレムの情勢からして、ソロモンの第三神殿が具現化してくる頃、そう遠い未来ではないはずです・・・本物のアークがレビ族の末裔により地下より運び出されるのでしょうか・・・

注;多分にSDA教団の宣伝も兼ねているのではないの?と思われる箇所、また「今でもイエスは天において父に執り成しておられる」との発言・・・これは人間側からの見方であり、主の十字架の贖いの業は一度だけで完全無欠。これに付け加えるものは何もないはずです。ヘブル書9,10章を参照。

またウィリアム=ミラーの存在を無視するわけにもいかず・・・

是々非々で、その辺は割り引いて見てください。人間のやることに完全を求めるのは限界があるということで。良いものはいい、悪いものは悪いのスタンスで。

2014年11月18日 (火)

小石牧師のラストHPメッセージから

http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2014msg/140126.html
信仰のニュートラルギア

ちょっと紹介したい動画がありまして、その予備知識として是非読んでおいてもらいたく。
このメッセージを最後に、今は現世での主からの使命を立派に果たし、パラダイスで来るべき神の王国の祭司として復活を待っているであろう?小石泉牧師のラストメッセージです。

毎週のメッセージが読めなくなってしまったのが残念ですが、師の残された礼拝説教集は今でも珠玉のごとく貴重な輝きを放っていると私は思っております。

全文は↑URLよりお願いします。ここでは関係するであろう部分を一部だけ抜粋引用いたします。

> 信仰の世界は白黒、善悪、前後、左右と決め付けることが多くあります。これは信仰の健全性を守るために非常に大切なことです。ところが意外や意外、決められないこと、言わば車のニュートラルギアのようなシフトが必要なことがあります。
 車のニュートラルギアは前後の動きを中断しエンジンとの連結を切断するシフトです。これが無いと危険です。信仰の世界でそんなことを言うとけしからん、信仰をあいまいにし堕落させるものだとお叱りを受けそうです。ところがこれが非常に重要な信仰の場面で現実にあるのです。

問題はセブンスデー、後の雨運動、ワンネス(イエスの中に三位一体があるという)、聖霊派(聖霊のバプテスマのよる救い)などです。セブンスデーはユダヤ教に近く、土曜安息を強調し菜食主義を採ります。私はセブンスデーの牧師の訪問を受けて、語り合いましたが主イエスの神性、十字架の贖い、復活、再臨を信じていて、「それならキリスト教ですね」と分かれた経験があります。聖霊派の信徒も尋ねてきて同じような結論を得たことがあります。ワンネスには親しい友人が居ます。しかし、あまりこの教理を話したがりません。非常に真摯で熱心な人々が多いです。

それは彼らが聖書を否定しない限り聖書そのものの持っている力によって浄化、建設されて行くからです。聖書を否定したり、聖書以外の経典を作る場合はその希望はありません。

私たちは十分注意しながら、良いものは良い、悪いものは悪い、是々非々の立場を取りましょう。ニュートラルギアを上手く使って、神様の祝福をつかみ取ろうではありませんか。

2013年10月 2日 (水)

使徒・預言者回復運動とは?

実はワタシ、「聖霊の第三の波」系に関してはある縁から、散々、英文資料の翻訳奉仕を含め、随分と研究させられたのである程度わかります。
この村上師のブログ記事は重要ですよ。

これは何もプロテスタントだけではなく、カトリックではおもに「幻視者」という言葉が使われる場合が多いようですが共通項でしょう。
今は惑わしの時代、慎重なる吟味が必要とされるかと。

ひどい例は、聖書をまったく無視し、幻視者情報の鵜呑み --;
「聖書がすべてなのか?聖書に書いてないことを信じてはいけないのか?」
というようなことを言われた事もある --;

「死者に対して信頼できる神父を通してバプテスマを施したから救いに与れたと信じている」と聞いたときは正直、ゾッとしました。
当の本人は正しい行為だと信じているようですが、聖書にはっきり書いてないデリケートな行為はリスキーだし、異教、背教となる恐れもあるから慎むべきだと個人的には思うのですが。
そういう人とは縁を切って、距離を取るしかない。

話が脱線しました。
案の定、結果吟味としてはまず当たったためしがない・・・それでもその人物に入れ込んでしまう。これは私の経験から言っても器崇拝の罠となるので注意が必要です・・・自戒を込めて。
決まりきった言い訳として、預言が延期された、預言情報が古かった、など。
預言情報が古かったって・・・あ~た!アホらしくて相手にする気にもならず。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

http://maranatha.exblog.jp/21146468/

2013年 10月 02日
エンパワード21と「新使徒運動」

 弟子たちがイエスに尋ねた。「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆が起きるのでしょう。」(マタイ24:3)その前兆の一つが、にせ預言者の登場である。イエスは「にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」(24:11)と言っている。近年の自称預言者は、ピーター・ワグナーの影響を受けている。

韓国では「新使徒運動」とも言われて、異端と指摘される使徒・預言者回復運動である。後の雨運動の流れを継承する運動で、後の雨運動は、すでに異端とされている。名称は違うが内容はそう変わらない。

 預言運動に影響を受けている人は、にせ預言者が多く起こるのだから、預言者が本当かどうか吟味する必要がある。多くの人が惑わされるから、自分は惑わされてはいないか、自己吟味が必要である。私は大丈夫と思っている人の大半は、深い聖書理解の基づくものではなく、ムーブメントに便乗しているだけである。

 エンパワード21が近づいて来た。この大会の講師や参加者の中には後の雨運動を信奉している人が多く参加する予定である。久しぶりの超教派大会で、このようなことを好む人々は何が何でも参加するであろう。この参加者たちが、ピーター・ワグナーを問題視しないなら、異端の影響を受けていると言える。これが初歩的な判断材料である。多くの人が集まれば大会は成功ではなく、多くの人が惑わされていると私は見る。

2013年6月13日 (木)

繁栄の神学(福音)ってなんなのだろう?

ゆうべ、韓国ヨイド教会のカリスマ牧師、チョー・ヨンギ師が起訴されたという情報を、いつも陰ながら支えてくれている愛する某姉妹から教えていただきました。

詳細を同じアッセンブリーズの村上密師のブログから引用させていただきます。

チョー・ヨンギを起訴

 2013年6月10日、朝鮮日報/朝鮮日報日本語版は「汝矣島純福音教会の牧師 背任容疑で在宅起訴 株式購入で157億ウォンの損害を与えた疑い」と報じた。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド世界総裁を務めた彼のニュースは世界を駆け巡るはずだ。繁栄の神学を日本に広めた人物の不祥事が、今後どんな影響を与えるか注視していきたい。
 今回のチョー・ヨンギ起訴の背景には、次のことが考えられる。2011年9月19日、汝矣島純福音教会の29人の長老は、チョー・ヨンギと長男で国民日報元会長の趙希俊(チョー・ヒジョン)に対して、特別経済犯罪加重処罰法の背任容疑で、ソウル中央地検に告発していた。

注 趙希俊に関することは「趙希俊 拘束(起訴)」 「趙希俊 東京へ逃亡 逮捕」を検索のこと。
by maranatha | 2013-06-11 21:50

http://maranatha.exblog.jp/20640495/

今はラオデキヤの教会時代、チョー師に関しても以前からよからぬ噂が絶えませんでしたし別に驚くべきことではありませんが、大物だけにインパクトは大きい事でしょう。

ただ誤解しないで頂きたいのは、教会三面記事、裁くことを目的に取り上げたのではないということ。それは、最後の審判の時に主にお任せすることなので、ここでは触れません。

繁栄の福音とか、繁栄の神学について少し触れたいなと。
当初、私は繁栄の福音に関して否定的でした。
しかしながら、すべてを否定できない事にも気づきました。
M牧師の言葉を借りるなら「苦しみだけのクリスチャン信仰生活・・・それならクリスチャンになりたいなどという人などいないし、福音をいくら宣べ伝えたって意味ないでしょう」
これは的を得ていると思います。

私自身つくづく感じるのですが、何も知らなかった世間一般人であったときの方が気楽でこの世的には幸せでした。
もちろん、今と違い戦後の高度成長期の名残りからバブルを経験したという時代背景もあったことでしょう。食いっぱぐれの心配などなかったし、明日は明日の風が吹くと言う時代を40近くまで生きてきましたから。

しかしわがポリシーゆえ、何事も極端は良くない、バランスが大事だろう・・・クリスチャンの進むところすべて青信号だとは限らない。むしろ山あり谷ありのほうが多くはないだろうか?
チャキチャキの繁栄の神学を説く聖職者は、「ラザロと金持ち」の箇所をどう説明するのでしょう?
ペテロや、ステパノ、パウロ、ヤコブetc名前を挙げればキリがない、そして大好きなシエンキヴィッチの「クオ=バディス~主よ、いずこへ行き給う」に見事に描写されている、ネロ時代の原始教会の殉教していった信仰の手本のような先達方・・・強烈なる迫害のパワーを吸収し、エネルギーに変え成長してきたのもまたキリスト教です。逆境こそリバイバルのダイナミックなパワーであるともいえます。

ただ、自分に関して言えば、「もっとダイナミックでポジティブなことを書かねば。キリスト者としての喜びのヨの字も証し出来てないではないか。メインとなるのは終末関連記事ばかり(涙;)」と感じる。ここに自分の物足りなさ、能力不足を感じる。もっとも終末論を通してキリストを知った経緯があるのだから仕方がない面もあるのですが。

自分が「ある程度」幸せであり、豊かであり、余裕がなければ他人を助ける事すら出来ないというのもまたしかり・・・カネがなければ他人様に迷惑かけるのもしかり。まさしく無力、無常、理不尽の三部作・・・もっと力が欲しいと言うのが本音です。
出来る事ならば、この世においても平安に一生を過ごしてもらいたいと主も願っていると思います。少なくとも私に関しては無理のようですが(涙 x 2)

かと言って、自分で身を持って苦難、痛みを経験しないと他人の痛みがわからない・・・晩年のヤコブのように、苦労して精錬されたからこそ、あれだけの老練された人格が築き上げられたのだと感じます。あの狡猾さと身勝手さはどこへやら?まるで別人みたい(笑)

難しいところです。
この世的に祝福を受けるのは決して悪いことではないでしょう。ただ今回の場合、その祝福の実を感謝して謙虚な姿勢で神の目的のために使わなかったことが問題であったわけです。神を怖れず、私利私欲のために使ってしまった・・・この世を支配する「空中の権を持つ君」の誘惑にはどう逆立ちしても勝てないようです。

結局、ボンクラの私としては次の箇所に落としどころを持っていくしかないのか。

わたしは二つのことをあなたに求めます、わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、「主とはだれか」と言うことのないため、また貧しくて盗みをし、わたしの神の名を汚すことのないためです。

箴言 30:7~9

慣れないことを論点として採り上げるとうまくまとまりませんね、どうぞお許しください。
わが苦悩がなくなることはなさそうだ(涙;)

2013年4月23日 (火)

ローマ書から

悪い癖でまたふたたび・・・というか、いつもの事で気まぐれブロガー、書ける時は何かに魅入られたようにキーを叩けるのですけど、ダメとなるとダメ --;
久々の更新です。
この一週間、アメリカでのボストンマラソンテロ、テキサスでの肥料工場の爆発(爆破?)事件、日本、イラン、中国など世界中での大きな地震とそれなりの事件がありました。

ま、優秀な方が様々な分析をしてましたし、私などはお呼びでないと外野から見ておりました。
今ひとつ見えてこないことがあり、焦点を絞れず、スルーした面もありましたが。

ただ、世の中は聖書の預言通りに進んでいるのは確かなようです。
ということで、特にワールドワッチ・レポートとして書くこともなく(^^ゞ

そんな中でここ一週間、心に残った聖書箇所です。今、旧約お休み、新約を通読中、ローマ書を読んでいたのでローマ書からが中心になります。

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

ローマ 3:22

では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。
「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」/と書いてあるとおりである。

ローマ 9:30~33

聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。

ローマ 10:11~13

* 「ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」とあります。主の名を呼び求めるならばみな救われるのです。
選民思想、はたまた優生学を盾に自惚れ、思い上がった、ワケわからないユダヤ人の教え、又はそれに喜んで尻尾を振る和製シオニストに惑わされる事なく、文字通りに受け取ればいいのではないでしょうか。

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

ローマ 12:15~16

食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。

ローマ 14:3

もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。

ローマ 14:15

* ここを少し解説します。文字通り、律法的な食物とも解釈できるでしょうけど、一歩深入りして、食物を御言葉のたとえとして霊的に解釈するならば、福音を受け入れたばかりの乳飲み子のクリスチャンの躓きとなるような、律法主義的な講釈はすべきではないと言う事になるでしょう。もちろん、致命的な間違いは指摘すべきでしょうが、それによって、必要以上に裁くべきではありません。傲慢な思い上がりにより自分が知者だと思い上がるべきではない、これは自分に対する戒めでもありますがね --;

救いは唯一、イエスをメシヤだと信じること。それでいいではありませんか。ここにも、あなたの食物(偉そうな思い上がった講釈)によって、兄弟を滅ぼしてはならない、とありますから。

すべての聖徒達から、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。

ピリピ 4:22

なぜ、この箇所がピンと来たか?
実は某牧師先生のメッセージで気づかされました。
地中海西部にはディアスポラしたユダヤ人がいたのは間違いありませんが、新約聖書も北イスラエルのいわゆる「失われた10部族」の末裔、これらの人々を聖書で言うところの異邦人と呼び、ユダヤ人向けに書かれたというユダヤ的というか、選民主義的傲慢解釈があるそうな。

どうも教会破壊、分裂を目的としたマラノ的解釈に、私みたいなユダヤ陰謀論出身のタイプはピン!と反応してしまう。カイザルの家の者というのだから、ローマ帝国直属の悔い改めたクリスチャンを指しているのでしょう。比較的社会的地位が高かったと推測されます。これは使徒行伝を読めばわかります。どう贔屓目に見てもそうとしか思えません。
自称=メサニック・ジューとマラノは紙一重、要注意です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、こちらでは極端な解釈に陥らないよう、「すべてのユダヤ人はワルである」という公式を鵜呑みにしないよう、ユダヤ人を弁護します。

兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

ローマ 11:25~26

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。

マタイ 23:37~39

* さて最後の論点になります。書いているうちにエンジンがかかってきました(笑)

ユダヤ人には3つのタイプがあります。
私は、アシュケナジー、スファラディーとはタイプ分けしません、的外れとは言いませんが、ある意味ナンセンスです。

シオニスト~別名、ユダヤ・カバリスト、サバタイ派ユダヤ教徒、フランキストなどと呼ばれます。もっとストレートに言うならばサタニストでもいいでしょう。
300人(500人)委員会とか、さらにその上、13ドルイドカウンセル、イルミナティ悪魔の13血流、などと呼ばれる連中の手足のごとき連中。もちろん、この中心にあるのもユダヤ系であるのは言うまでもありませんが。

正統派ユダヤ教徒(オーソドクス=ジュー)~イエスをメシヤと信じない、旧約の律法により義を追い求め、今だ現われないメシヤを待ち望んでいる人々。
現在のイスラエル国家を神の意志によって建国されたのではないと否定する。イスラエルにおいては、シオニストより格下の二級市民として迫害も受けている人々。
タルムードの教えも受けているだろうから、完全に惑わしの中にもあるとも言えるでしょう。
しかし、このタイプがすべて、サタニストとするのは早計でしょう。イエス憎しと洗脳されているだけで、シオニスト連中ほど邪悪な感じはしない方々が多い。この方達も純朴すぎるタイプが多いように見られる。彼らは敵では断じてありません!

上記に挙げた聖書箇所は、オーソドクス=ジューのためにあるように思える。まさしく「イスラエルの失われた家」の典型で、最終的にはイエスをメシヤと認め、悔い改める人々だと思います。

メサニック=ジュー~キリストをメシヤと一応認める人々。マラノ(表向きキリスト教に改宗したふりをする、キリスト教破壊を目的とするある意味、シオニストより、たちの悪い偽善者、NWOの宗教部門における工作員、中世の異端審問官として有名なトマス=トルケマーダはマラノであった)との見分けが難しいため要注意。

聖書知識にも長けており、中には心から悔い改めたユダヤ人もいるはずでしょうが、その教理を鵜呑みにし、実はマラノであったなどとなったら悲惨すぎるので、このような人たちもいる、参考くらいに理解しておいた方が無難。
しかし、あのユダヤ歴とユダヤの祭りの意義には一目置いてます。(レビ記23章参照)

律法で救われるには100%完璧に実行せねばならず、人間ではまず不可能。あのモーセですら律法を完璧に実行する事は出来なかった。出来たのは、主イエスただお一人。

使徒行伝には我々異邦人に対し、このように書いてあります。

そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼ら(注;異邦人の事)にも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。
しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。
確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。

使徒 15:8~11

↑は、ガラテヤ書を読めば、なお一層、理解が深まる事でしょう。一貫したテーマでパウロは書いております。

そもそもメサニック=ジューの誰か忘れましたが、「福音のユダヤ性の回復」などと、マラノ的な臭い、「異なった福音」の臭いがプンプンします。

我々は我々の信ずる道を行けば、それでいいのだと思いますね。
むしろ私としては、オーソドクス=ジューの救いのために、祈りたく感じます。理屈でもなんでもなく、そう感覚的に感じるから・・・ただそれだけです。

2013年4月15日 (月)

イエス=キリストは日本語表記なのだ

ええ~、なぜこのようなエントリーを書く気になったかといいますと、イエス=キリストとは、バビロン起源の異教の神の名前だという記事を見つけたからです。
2000年近くもサタンに騙されてきたのだと。

ここは冷静になって、とりあえずは調べねばならないと思わされました。
私としては、サタンと言えども神の許しの範囲内でしか活動できない、すべてを司っているのは全知全能の神である。聖書には誤訳、意訳があるのは認めるが、いくらなんでもここまではお許しにならないだろう、と考えたからです。

さらに続けて「ギリシャ語新約聖書は当てにならない、毒だらけだ」と言いますが、私はそうは思いません。確かに聖書はすべてを語ってはいません・・・しかし人間の救いのためにはこれ一冊で必要十分なわけです。キリストの福音は十分伝わります。これが何よりの証拠ではないですか。

そしたらヤフー知恵袋にありましたよ。
私はギリシャ語まったく知りませんのでネット上から引用させてもらいます。

ギリシャ語で イエス キリスト って何て読む?
my_mgf_0602さん

ギリシャ語で イエス キリストって何て読む?

ベストアンサーに選ばれた回答miestastaniさん

全二者はどちらもおかしいです。クライストなんてのは英語です。
ギリシャ文字 ? とローマ字 s を混同していけません。
アクセント記号がないと、ギリシャ語の単語表記としては間違いです。
 

アクセント付きギリシャ文字は、きちんとギリシャ語キーボードから入力するか、文字コード表などのユニコードメニューから直接貼り付けるかしなければ、正しいギリシャ語表記はできません。JIS入力の日本語変換では入力できません。

イエス・キリストのギリシャ語表記は、古典ギリシャ語・新約ギリシャ語表記では、

  Ἰησοῦς Χριστός

現代ギリシャ語表記では、定冠詞がついて

 ο Ιησούς Χριστός 

発音は、時代によって変わります。
古典期BC5世紀以前の古代ギリシャ語では、「イエーソウス・クリストス」、
キリストが生きていた紀元1世紀ごろの発音では、「イイスス・クリストス」、
現代ギリシャ語では、定冠詞も発音して、「オイースス・フリストス」、
エラスムスの提唱した古典ギリシャ語の慣用発音では、「イエースース・フリストス」。
 

どれもアクセントは語末音節「スス、スース、ソウス」「トス」の部分にあります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251853382

* 現代ギリシャ語ではしっかり定冠詞も発音するとのことです。

いくらなんでもギリシャ語自体を「悪魔由来の言語」とするには無理がありますよね?ギリシャ人が全員地獄行きだとは私には間違っても思えませんので。

続いて同じくヤフー知恵袋から

ヘブライ語での現地名は「ヨシュア」です。ヨシュアの原語での意味は、神の救い(神は救う)です。 

当時の東方ディアスポラ(現イラク地域などイスラエルからみて東側のヘブライ人コミュニティ)で話されていたアラム語では、イェシュア となります。初期キリスト教社会の共通語は、西方ディアスポラ地域(エジプトなどイスラエル周辺の地中海沿岸部)の事実上の共通語であるギリシャ語となり、新約聖書の原典もギリシャ語で聖典化されています。こういった中、ヨシュアはギリシャ語化し イェスース となって、これをベースに多数の言語に変形してゆきました。例えば、英語では Jesus(ジーザス)ですが、日本語ではイエスです。日本語の方が、ギリシャ語に近いように思われます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311465743

アラム語も私、知りませんのでイエシュアと言う発音が正しいとします。主イエスはアラム語も話されました。アラム語表記もけしからん!ヘブライ語表記しか認めないとでも言うのでしょうか?

何でもヘブライ語で正確に発音するならば

ヤシュア=ハ=マシヤ 

と発音するそうですが、何も私たちは日本人、日本語発音で十分ではないでしょうか?ましてや日本語には定冠詞などという概念は薄いですし。
チャールズをフランス語でシャルル、ドイツ語でカールと表記するのに何の問題があるでしょう?
そう批判する人は、イエス=キリストの御名、ジーザス=クライスト(個人的には英語なので間に The を入れれば突っ込まれる必要が無かったとも思いますけど)の御名によって素晴らしい働きをしている器をどう説明するのでしょうか?世界にはそれこそ、異邦人の中にはゴロゴロいます。
ということは、歴史上、古今東西、キリストの名によって働いてきた方々はみなサタンの御名によって福音を宣べ伝えてきた偽者だとでも言うのでしょうか?騙されてきたクリスチャンはみな地獄行きだとでも言うのでしょうか?

大事なのは

「我々は、私たちの罪のために十字架に架かって下さり、罪を贖ってくださった。そのことによって天の父なる神の前に大胆に出ることが出来るようになった。その方を知っている。」

これで十分でしょう・・・もちろん、警告、批判は必要でしょう。しかし必要以上に批判的になり、律法主義に陥り、他人の悪口、批判ばかりして極端に走り過ぎると、かえって過ちに陥る事があるようです。私はそのようなサウル王タイプの方の門下で、一時期、学んだことがあるから良くわかります。残念ながらその方は、「聖書の暗号」にこだわりすぎて自爆してしまいました。

ネガティブな面ばかり追いかけて(私も気をつけねばと思ってますけど --;)、キリストにある愛、喜び、恵み、感謝を忘れるべきではありません。十字架により罪許されているはずです。そしてそれは、一度限りであり、パーフェクト。付け加えるものなど何もないはずです。
人間はどうしても極端に走りやすいように出来ているようです。だから新約聖書においてもパウロ書簡の中に、よく理解しないと頭の中がフリーズして戸惑ってしまう、行いを強調した異質な「ヤコブ書」が入っている気がしてなりません。

また特に、ローマ書、ガラテヤ書などはユダヤ人にとっては破り捨てて、焚書にしたいような内容でしょう、裏切り者パウロを呪い糾弾して。

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

第一コリント 9:19~23

すべての人に対しては、すべての人のようになった。― とのことです。
ここもディアスポラのユダヤ人限定の箇所、メサニックジュー限定と解釈すべきなのでしょうか?私にはそうは思えません。メサニックジュー的というより、マラノ的な匂いがプンプンします。うがった見方をするならば異邦人に絶望感を与える、傲慢なる選民思想で洗脳する意図を持った悪意すら感じます。
また、ローマ帝国の百卒長には素晴らしい信仰を持った人がいたはずです。百卒長すべてがユダヤ人との混血だとでも言うのでしょうか?ギリシャ人、イタリア人は全員、ギリシャ=ローマ文化のルーツがバビロン起源だから地獄行きだとでも言うのでしょうか?あまりにも極端すぎます。

そもそも、マラノとメサニックジューの見分け方ほど難しいものはありません。アメリカの神学校の多くもこれで、内部から破壊されました。自称、メサニック=ジューの教えだからといって鵜呑みにするのは危険です。彼らは巧妙に真実の中に嘘を混ぜ込みますゆえ。

今は惑わしが強烈にはびこる時代です、確かにユダヤ人は人類の長子で、最終的にイエスをキリストと認めるのでしょうが、神は差別無く全人類を愛しておられると信じます。なぜなら人間はすべて神の被造物なのですから。

2011年10月31日 (月)

ハロウィーンについて

本日はハロウィーンです --;
ハロウィーンのルーツには、いくつか諸説がありそうです。
ここでは私の知っているハロウィーンについて書いてみます。

その前にドルイド教とその祭司、ドルイド僧について知っておきましょう。
簡単に結論から言いますと、サタニズムでありサタニストなわけですがね。

イメージとしてはこんな感じです ↓

20050614

<ドルイド教>

物質と霊魂は永遠であり、人間の魂は転生するという教えである。死は他の生への入り口であり、休息期間とされていたため、ケルト人は死を恐れぬ戦士となり得たのだ。

ドルイド教の上位階級には、「ウァテス(預言者)」、「語り部(フィラ)」、「バルド(吟遊詩人)」があった。ドルイド僧は神学、倫理、医学、法律、裁判、天文学、占い、歴史といった、人々の生活の基盤となるものを掌握していた。

<樫の樹の賢者>

ドルは「樫(オーク)」、ウイドは「知識」という意味で、ドルイドは「樫の樹の賢者」とされている。樫の樹は神木であり、神の象徴でもあった。

そしてドルイド僧は、魔力を持つ「樫の杖」とヤドリギを切るための黄金の鎌を持ち、長い白い衣を着て金の胸当てを付け、魔法のバックルをしめていた。この姿が後の魔法使いの原型になった。

彼らは聖なる言葉を文字にすることを禁じられていたため、口承ですべての知識を伝えていた。ドルイド僧となるために、20年もの修業期間を必要とした者もいた。

<蛇の卵>

ドルイド僧は鳥の飛び方や生贄の内臓の様子を観察して予言を行ない、戦士のための護符も作っていた。しかし、どんな護符よりも「蛇の卵」が一番だとされていた。「卵」は宇宙の発生を、「蛇」は転生と永遠の再生のシンボルとされていたからである。

http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Cell/4066/kdolid.htm

この事を知った上で手持ちの資料から抜粋してみます。

ハロウィーンもクリスマスも悪魔祭

「我々がイルミナティの世界統一の陰謀とオカルトの悪魔的王国の関係を認識しない限りこの秘密結社の力の深みを本当に知ったことにはならない。それゆえwitchcraftとオカルト信仰の基礎的な理解は必須の事である」‐キリスト著にとってこれは非常に嫌な仕事であり、それゆえ誰もイルミナティの陰謀を探ろうとはしなかった。

しかし、この陰謀の裏付けとなるオカルト、悪霊的知識を少しは知らないと、全くナンセンス になってしまう。研究者の中には「私はこういう間題には触れない」と言う人もいるが、それではイルミナティを知ったことにはならないし、陰謀の奥行きを知ることはなくせいぜい表面だけの知識に終わってしまうだろう。

「すでに我々はニムロデのオカルトの歴史と時代を見てきた。しかし、全ての時代に渡って、ニムロデは多くの国々で様々な名前で知られてきた。例えば、バール、オシリス、ホーラス、ジュピター、センタウ、パッカスなどなどである。

またセミラミスは、アシタロテ、イシス、シベル、アイリーン、ダイアナ、イシュタル、ヴィーナスなどで知られている。witchcraft界には多くの神々のシステムがある。

全ての時代の暗黒の世界で、もっとも悪しき人々はドルイド僧である。こ れはまた『柏の人々』Men of oakとも呼ばれている。彼らは人間の生け贅を要求する。男子の奴隷やローマ軍の兵士が堅い砂地の上に置かれた籠の中で、生きながらに焼き殺された。ドルイド僧たちは火の神エルフィンが大地から出てきて犠牲を飲み尽くすように叫び求める。その間、ドルイド教のビートの音楽が間こえる(注*これがロックミュージックなどに取り入れられている)。

このドルイド教の大きな祭りがハロウィーンである。オカルトでは10月31日のその祭りは『サムハイン』と呼ばれている。ハロウィーンの日に、ドルイド僧と信者たちは、城から城、農奴から農奴へ〃トリックオアトリート〃と言いながら渡り歩く。ドルイド僧たちが城で要求する〃トリート〃とはその城の王妃か他の女性の生け贅である。〃トリート〃がドルイド僧の気に入ると、彼らは、人間の脂肪で作ったろうそくが灯されている『ジャックオランターン』を置いて行く。それは悪霊によってその城の内部の人間がその夜殺されるのを防ぐと言うものである。

ドルイド僧の要求が彼らの気に入ったもので答えられないとHexが入り口のドアに書かれる。
これが〃トリック〃であって、その夜、サ タンと彼の悪霊たちがその城の誰かを恐怖の内に殺すのである。すでに見たようにクリスマスもハロウィーンもサタン的な祭りであるが、欧米では子供のお遊びとして一般社会に普及している。これも彼らの遠大な計画なのであろう。
ハローウィーンの実態がこのようなものであるとしたら、欧米のクリスチャンはそれでも自分の子供を遊びに行かせるであろうか。最近、ハロウイーンの日に子供が多数殺されるのでアメリカから帰ってきた人の話では、次第にやめられているという。

情報ソースは、ジョン=ドッド、別名、裏切り者として殺されたトム=コリンズの書いた「ウィッチクラフト&ジ・イルミナティ」という小冊子。
そうです、フリッツ=スプリングマイヤー氏によると、悪魔の13血流と言われる13ファミリーの中でも、そのオカルト=パワーにおいてはトップクラスであると言われるコリンズ家の人間だったようです。

このようなこと知ったならば、ハロウィーンなど恐ろしくてやれませんよね?

2011年5月25日 (水)

預言に関する一考察

予言

予言(よげん、prediction)とは、ある物事についてその実現に先立ち「あらかじめ言明すること」である。
神秘的現象としての「予言」は、その中でも合理的には説明することのことのできない推論の方法によって未来の事象を語ることを指し、占星術やチャネリングと同じく疑似科学の領域の話題として扱われることが多い。
自分の好き勝手な思い、考えを述べる場合や、または悪霊からの啓示と言う要素も否定できない場合もある。

預言

神からの啓示を預かる。ここで言う神とは全知全能、万物の創造主である聖書の神を指す。
とかく今の世の中、近未来の預言(ダニエル、ヨハネ、エゼキエル、福音書、パウロ、ペテロ書簡など)にフォーカスしがちだが、聖書の中には過去に数多くの成就した預言(メシヤの生誕、古代ヘブライ王国の滅亡、ディアスポラ、エルサレム滅亡など)が存在し、そのほか、神からの人類に対する訓戒、警告を伝える(モーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤなど)要素も無視できない。
旧約聖書は人類の診断書としての罪の記録であると同時に、メシヤ誕生の預言書としての役割も大きい。聖書は旧約、新約で聖書であり、イエス・キリストについて証すると言われる所以である。

まずはツボを抑えておきましょう。このことを理解したうえで本題へ。

ちまた予言、預言が氾濫してきております。つい最近も世間を騒がせた予言が話題となりました。

ま、予言に関しては石を投げれば当たるというくらい多々あるわけで、当たるも八卦、当たらぬも八卦、偶然もあるし、悪霊からのインスピレーションは「そこそこ」当たるようですし、毎日毎日、非常体感・・・M6以上の地震の発生の可能性あり。とか、日々金融危機を叫んでいれば、いつかは当たることもあるでしょう。

ということで、これら予言に関してはスルーします。

問題は預言が本当に神からのインスピレーション、語りかけで、信頼に足るべきかどうか?の一つの判断材料を、一度このブログでまとめてみようと思います。

消去法でいくのが手っ取り早いでしょうね。
まず基本の基。

○ 聖書的根拠のないもの、あまりにも突飛なものは除外 --;

そういう意味では、ファチマの予言、シャーベル修道会の教祖=リトル・ペブル、聖母予言、幻視等の、マリヤの名を語っての(マリヤが悪霊であるという意味ではない)悪霊から来ているカトリック系の幻視は、まずは疑ってかかるべきでしょう。実際、的中率も悲しいくらい低い。

ただ例外として、「マラキ預言」はかなり信憑性が高いので、私は終末のタイム=スケジュールの参考としている。

次に、これは強烈です。好きなだけ笑ってください。名づけて ザ・カルトの代名詞です。

○ 予言を外しても、性懲りもなく言い訳して新たな予言をし、また外す --;

ものみの搭系の予言、そして今回のファミリー・ラジオのハロルド=キャンピング予言 --;・・・今度は10月21日に「地球滅亡の日」を再設定 (ToT)・・・頼むからやめて<(_ _)>

そしてSDAの祖、ウィリアム・ミラーも再臨予言を何度か(二回だったかな?)外してます。ただ、誤解なきよう弁明しておきますが、律法主義的色彩が強く、聖書の他にエレン=ホワイトの本をテキストにもしているようですが、SDAが異端だというわけではありませんので悪しからず。そもそも大枠しか知らないし。

○ 明らかな悪意のあるサタンの使徒による予言

トッド・ベントレー、ピーター・ワーグナー、ベニー・ヒンなどの予言には要注意。

「2000年までに日本ではリバイバルが起こる~!」というような、祝福の預言を外すのは偽預言者決定です。何らかの意図があったのでしょう。彼らは間違いなくフリー・メーソンの教会破壊の為に遣わされたエージェントです。

その証拠に、「奇跡」の八百長演出、贅沢三昧の浪費癖に離婚問題とメッキが剥がれ、本国アメリカにおいても見捨てられつつあるようです --;

例外として、「悔い改めれば、災いを思い直す」ということは、ケースバイケースあるようです。

イザヤがまだ中庭を出ないうちに主の言葉が彼に臨んだ、「引き返して、わたしの民の君ヒゼキヤに言いなさい、『あなたの父ダビデの神、主はこう仰せられる、わたしはあなたの祈を聞き、あなたの涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。三日目にはあなたは主の宮に上るであろう。 かつ、わたしはあなたのよわいを十五年増す。わたしはあなたと、この町とをアッスリヤの王の手から救い、わたしの名のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守るであろう』」。そしてイザヤは言った、「干しいちじくのひとかたまりを持ってきて、それを腫物につけさせなさい。そうすれば直るでしょう」。

列王記下 20:4~7

神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

ヨナ 3:10

ただ現代においてはどうでしょう?人類の罪は積もりに積もって天まで届いていることでしょう。現代は「ソドムとゴモラ」より悪いと言われており、私としても否定できません、残念ながら。

これらのことを念頭において次なる段階へと進みましょう。

ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。
もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。

申命記 18:20~22

これは預言が本物かどうか判断する上でバイタル=キーとなるでしょう。赤鉛筆でアンダーラインの箇所ですね。
そして私は預言者とは縁も所縁もないのでわかりませんが、「そのような気がする」とか、「~を示唆しているのだろう」、過激なのになると「神の声を聞いた」「神が語れといった」などと平気で言う人がいますが、インスピレーションを「何となく感じるような気がする」ことはあっても、「声を聞いた」とか「語れと言われた」などとは、口が裂けても私は言えません --;

わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。
そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

使徒 26:14~15

人類の運命を一身に背負った大物の預言者クラスになると、このように母国語で、はっきりとわかるような語り掛けが、必要とあれば、時が満ちれば、現代においてもあるのでしょう。
往々にして、自分の思いで語る、「自称」預言者が多いのでこれまた要注意。責任重大ですから、場合によっては永遠の裁きに入ることもあるだろうし、軽々しく預言はして欲しくないものです。そして預言者と自称して欲しくないものです。

そして一番厄介で判断に苦しむのが

○ 悪意がなく、誠実な人柄、「御霊の実」も悪くは見えないが、思い込みが激しく狂信的な人物 --;

私は「無邪気な狂人」と呼んでますが。おまけに全面的に否定はできず、取りようによっては、一部預言が当たっているとも言えなくもない・・・

私がたまたま偶然にも 

2011/3/11=2+1+1+3+11=18=6+6+6

で、何か嫌な感じがするとブログでアナウンスしたら、東日本大震災が起こってしまった・・・というのとはわけが違います。

このような時はどうするか・・・今でこそ神の御子ですが、どうも私には「もし自分が主の時代のパレスチナに生きていたら、果たしてイエスが来るべきメシヤである」と見抜けたかどうか?・・・正直言って自信がない・・・

また当時の正統派(オーソドクス・ジュー)と呼ばれる一派からすれば、使徒たちの宣教は異端、キリスト教は明らかなる新興宗教でした。

大祭司アナニヤは使徒行伝の24章5節で次のように述べています。

さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。

(-_-;)・・・これがいつの時代においても、世のマジョリティーの総意というものでしょう・・・たとえそれが真実でも出る杭は打たれる・・・

私、「他人の力量の見極め」、「他人の見立て」に関しては、そこそこ自信があるのですが、それでも所詮は人間・・・限界と言うものがあります。当然間違えることもある・・・そこで私の取る最終手段が次の聖句箇所です。

そこで、この際、諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて、そのなすままにしておきなさい。その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう。
しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば、諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」。

使徒 5:38~39

を、最後の切り札としております・・・凡人にはこれしかありません --;
確信を持てるまではニュートラルに、ひょっとしたら?今まで真実と思って間違いないとしていた自分の信仰がずれていたなどという可能性がゼロとは言えないかもしれない・・・
人間の教え、解釈に完全というものはないし、自分の間違いを認める行為は、とてつもない勇気がいるのも事実です。翻って、自分が間違ってなかった、正しかったのだということもありますし。

何で私はこんな事やっているんでしょうか?自分でも時々わけわからなくなります・・・どこにでもいる平信徒なんだから、上からの教えに従順に従えばいいのに、今さら教師になるわけでもないのだから、こんなに根詰めて無い頭使うことないのに・・・と思うわけでして。

どうも好奇心旺盛で、他人に騙され、ごまかされるのが嫌いな真実追求タイプの異端児、天邪鬼は世間から嫌われます(涙;)

弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。

使徒 14:22

今回の使徒行伝の通読、なんか多くのことを教えてもらった気がします。
今さらながらですが、パウロはオリジナルの12使徒のメンバーではありませんでした。しかし、使徒以上に使徒くさい・・・キリスト教をユダヤ教の枠から脱皮させて世界宗教としたのは紛れもなくパウロでした。誤解を恐れずに言うならば、全人類を対象とした 「完成されたユダヤ教」とも言えます。

何はともあれ、神の知恵と勇気に満ちた、真実を見極める霊眼を与えてもらいたいものです・・・とほほ。

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