聖書の改ざん、誤謬説、サタニストがつくり上げたペテン説を斬る
今回は聖書にまつわる事を書いてみたいと思います。要するに、巷言われている「改ざんされている」であるとか、ユダヤ=カバリストがでっち上げた作り話の偽書とかいう話です。ひどいのは「悪魔教徒のペテン」であるとか・・・
以下私の見解。ちなみに私は、口語訳を愛用してます。
また、聖書を信じない人は怒り心頭に達する人もいるかもしれないのでスルーして下さってけっこうです(-_-;)・・・それでは行ってみましょう。
確かに、翻訳の時点で誤訳などがあったかもしれない。
また聖書の訳は、新しくなればなるほど、意図的に訳が捻じ曲げられているという話も知っている。
NIV聖書では単語の削除、意図的な曲解がなされているとも聞く。
>NIV訳を始めとする最近の英語訳聖書には勝手に削除されたことば、恣意的な翻訳がまかり通っている。驚くなかれ、NIV訳においては5万語以上の聖書の単語が削除された!!
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/index.html
No 25 より
また私は詳しくは知りませんが、「新共同約」の聖書訳は問題が多いとも聞いてます。
じゃあ、聖書は信用ならんのか?と問われるならば、答えは「否!」
確かに聖書はすべてを語っているわけではなく、隠されていることもあるゆえ、わからない箇所も多い。すべて解明しようと思えば発狂することだろう。
だからといって、我々人間にわからないから改ざんされていると言うのは説得力がない。歴史書の記述や有名な学者先生が書いた著書と聖書の記述がバッティングした場合、どちらをとるかといわれれば、私は聖書をとる。
たとえ100歩譲って、改ざん箇所があるにせよ、私には聖書以上に信頼できる書物は、世界広しといえどないと考えるし、聖書以上の絶対基準、羅針盤はないと思っている。
「人間の良心、自分の内なる声に聞け」という人もいるが、そもそも人間の良心など、ある程度は参考になるが、どうしても自分に甘くなるゆえ、アテになどならない。人によって千差万別で、そこに絶対基準を見出すことなど出来ないだろう。
よって、主イエスから直接、日本語で誰にでもわかるように教えてもらうわけにはいかない以上、私は聖書を絶対基準に、最終判断のリーザル=ウエポンにしている。もちろん、至らぬゆえの解釈の間違いはあるだろうし、その時は、間違いは間違いとして謙虚に認めようと思う。
また、このような事を書くとおもしろくない人もいることだろうが、信仰、聖霊の助けがないと、聖書を知っているというだけで、単なる知識で終わってしまう。宗教学者などがこの部類に当てはまるだろう。学問としてしか捉えることが出来ないところに限界がある。よって、正しい解釈など出来るわけがない。
。。。。。。。とまあ~、ここまでは私個人としてのオリジナル。ちょっと説得力に欠けるなあ~、インパクトが弱いなあ~ ーー;
と感じるので、最後に、とある牧師先生の書いた論評を転載します。
これぞまさしく、神の知恵、最終兵器です!
私は「蛇に睨まれたかえる」のごとく、まったく反論できなかった(-_-;)・・・というか反論する必要ないのだが(^^ゞ
転載開始~
聖書の改ざん説を嗤う
最近、ある人々が「聖書は改ざんされている」と、あたかも真実のように言っている。では伺うが、聖書のどの書のどこからどこまでが改ざんされたのか。それを正確に言っていただきたい。聖書66巻のどの書か。そのうちのどこがどう改ざんされたのか。
そういう人々は何回聖書を読んだのだろうか。私は50回以上聖書を通読したが、どこにもそのような痕跡を発見することは出来ない。聖書は非常に厳密な構成で成り立っている。どこかを直せば必ず矛盾が起るはずである。しかし、どこを読んでもそのような矛盾は発見できない。何事であれ、あいまいに、適当に、総括的に「何々だ」と、何の根拠も示さないで、あたかも真実のごとく吹聴するのは止めないか。そういうのを愚かしい迷信というのだ。大切な事を言うなら、どんな反論にも耐えうる根拠を明示せよ。
おそらく、今言われている改竄説は、デイビッド=アイクの書いたものが元になっているのだろうが、彼は元々オッチョコチョイのオカルティストで厳密な研究から出たことではない。
聖書は2000年間、攻撃され続けた書物である。批判、揶揄、騙し、時には軍隊が動員され、焚書され、所持したり、翻訳しただけで殺された。チェコ語に翻訳したヨハン=フスは生きながらに火刑に処せられた。しかし、それらのすべてを聖書は跳ね返してきた。
聖書の正確さと真実さについては古来、専門家による数え切れない論争と、厳密な審査が繰り返されてきた。それらのすべてについて調べたのか。改竄説者はそれらすべてを簡単に否定しきることが出来るほど自信をお持ちなのだろうか。
聖書の真実のためなら命を掛ける人は世界に数億人はいる。私は額に銃口を押し付けられても聖書の真実性と、正確性を信じ続ける。火で焼かれても信じ続ける。聖書の改竄について語るなら命がけで言うべきである。もしそうでないなら軽はずみに「改竄されている」などというべきではない。信仰とは命がけのものである。それだけの価値のあるものなのだ。命を掛ける価値のない信仰なら、信じる価値はないのだ。
転載終了~
絶句! m(__)m
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