復活
これがなければキリスト教(キリスト信仰)とは言えない。これを抜きにして人類の救済はないと私は信じます。
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これがなければキリスト教(キリスト信仰)とは言えない。これを抜きにして人類の救済はないと私は信じます。
ユダヤ歴によると、本日8日、日没より過ぎ越しの祭りが始まります(4/8~16)。
この過ぎ越しの一連の祭り=春の例祭~過ぎ越し→種入れぬパンの祭り→初穂の祭り(レビ記23章)は、新約的にはキリストの十字架→死→復活にあたります。これはすでに、主イエスご自身により成就されました。おっと!忘れてはいけない、7週の祭り=ペンテコステがありましたね。
ついでながら秋の例祭であるラッパの祭り、贖罪日、仮庵の祭りが携挙、再臨、千年王国の型とされ、これはまだ成就しておりません。
マタイ、マルコ、ルカによる共感福音書とヨハネによる福音書で、若干の違いがあるのですが、ヨハネ伝に基づけば、過ぎ越しの羊がまさに屠られようとしている時、キリストが十字架にお架かりになり、バプテスマのヨハネの言「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」となり、文字通り我々のメシヤ=救い主としての使命をやり遂げてくれたのは何と感慨深いものでしょうか・・・
4:11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
使徒行伝 4:11~12
この暗黒?というにはまだ?大げさかもしれませんが(大患難期はこんなものじゃないでしょう)、サタンがいよいよ自分の時が短いのを知り、自分の手駒を使い活動が活発化してきているこのご時世、秋の例祭の成就が待ち遠しいものです。
御霊も花嫁も言う、来てください、一刻も早く。マラナタ・・・
最後にいつもチェックしているブログ、オリーブ山通信で見つけた動画です。Happy Passover!
かなり聖書からの引用が多いですが勘弁願います。
またタイトルの「但し書き」という表現も変なのですが、この方がわかり易いかも?と思い付けました。
4:8その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
4:11このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
使徒 4:8~12
3:24このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
3:25しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
3:26あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
3:27キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
3:28もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
3:29もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
ガラテヤ 3:24~29
3:20なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
ローマ書 3:20~22
3:28わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
3:29それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
3:30まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
同 3:28~30
ここまでが、原則と捉えて下さい。
置換神学、振り子を振り切り過ぎた反セム主義者、聖書はNWOグローバリスト連中によって、改竄されているとする(誤訳、誤解を招きそうな意訳はあることでしょうが)聖書の権威を貶める自称キリスト者・・・私は、聖書は神の力により守られてきたと信じる者です。神の力を侮るべきではないと思う。
そこでです。
9:1わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。
9:2すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。
9:3実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。
9:4彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
9:5また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。
ローマ書 9:1~5
11:1そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
11:2神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはされなかった。聖書がエリヤについてなんと言っているか、あなたがたは知らないのか。すなわち、彼はイスラエルを神に訴えてこう言った。
11:3「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこぼち、そして、わたしひとりが取り残されたのに、彼らはわたしのいのちをも求めています」。
11:4しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。
11:5それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。
11:6しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。
11:11そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
11:12しかし、もし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう。
11:25兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
11:26こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、
「救う者がシオンからきて、
ヤコブから不信心を追い払うであろう。
11:27そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、
彼らに対して立てるわたしの契約である」。
11:28福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。
ローマ書 11:1~6、11~12、25~28
ともあります。
1948年イスラエル独立宣言、1967年エルサレム奪還~これにより主イエスの再臨の舞台が整いました。
ただ注意していただきたいのは、現代のイスラエル国家と限らず、欧米を含めほとんどの国家の中枢は、NWOグローバリスト=フリーメーソン・イルミナティ=カヴァリスト=サタニストに支配されています。「イスラエルのやる事はすべて正しい」などと言う、極端で盲目的な信仰、考えもこれまたご法度。
イスラエル最高裁にあるシンボルを見れば明らかです、あまりにも露骨 --;・・・
左上に1ドル札のピラミッド
万物を見通すホルスの目
定規とコンパスの噴水
この建物はロスチャイルドによって企画、奉献
もっとも、現代と限らず、旧約時代のイスラエルの歴史は罪の歴史であって、言うなれば人類の縮図、けっして褒められたものではありませんでしたが。
要するに、聖書の一連の流れを見る限り、神の人類救済計画はユダヤ人から始まり、ユダヤ人がメシヤを拒絶した為(すべてのユダヤ人ではないが)に、救いが異邦人へと及び(教会時代)、ふたたび・・・終末の土壇場にユダヤ人が涙ながらに「イエスこそメシヤであった」と悔い改め、本当の意味での救いが完成に至ると私は信じます。
忘れ去られた頃に更新・・・読者も減りますわね --;
結論から申し上げて、師匠の受け売りになってしまいますが
「聖書はすべてを語ってはいない。隠されている真理が必ずある。しかし、人間の救いの為には、聖書66巻(完結)一冊で、必要充分なのだ。」
まさしくこれに尽きるでしょう!
せっかくの機会なので参考資料を。
>聖書の中には、現在の聖書にはない書(書物や手紙)についての存在を指し示している箇所が幾つもあります。
以下にそれを挙げてみましょう。
・契約の書:出エジプト記24章4節、7節
・主の戦いの書:民数記21章14節
・ヤシャルの書:ヨシュア記10章13節、サムエル下1章18節
・王国のならわしの書:サムエル上10章25節
・ソロモンの事績の書:列王紀上11章41節
・ナタンとガドの書:歴代史上29章29節、歴代志下9章29節
・アヒヤの予言とイドの黙示:歴代志下9章29節、12章15節、13章22節
・シマヤの書:歴代志下12章15節
・エヒウの書:歴代志下20章34節
・イザヤが記したウジヤの事績:歴代志下26章22節
・先見者の記録:歴代志下33章19節
・コリント人へのパウロの手紙:コリント人への第一の手紙5章9節
・エペソ人へのパウロの手紙:エペソ人への手紙3章3節
・ラオデキヤ人へのパウロの手紙:コロサイ人への4章16節
・ユダの手紙:ユダの手紙3節
・エノクの預言:ユダの手紙14節
https://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/e/33e3807de52a0c32e8761fdc51b97611
(わたぴ~さん、今、どないしとるねん?拝借、堪忍やで~♪))
その他、外典、偽書?扱いとして、新共同訳に加えられたのも含め
トマスによる福音書
ユダによる福音書~これなど明らかにオカルト書と言っていいでしょう。
トビト記
マカバイ記
シラ書
エノク書 etc.
私にとっては、聖書66巻だけでも消化し切れず、悪戦苦闘であるのにねえ~、ましてや概略しか読んでませんが、エノク書など入れたら、こんな堅い食物、下手したら躓きの石になってしまう。救われる者も救われないじゃ、洒落にもならない・・・外したのもわかろうと言うもの。
創世記から始まり、黙示録で終わる・・・見事な調和、芸術的であるとさえ言えますね。そりゃ、旧約聖書がBC400年頃で、新約聖書が紀元100年ごろ出来た。そもそも数ある書から取捨選択して編纂して出来たのだから、そりゃ、多少の誤訳、サタンのちょっかいがあるにせよ、しょせんは神の許しの範囲内、大勢に影響はない。そこにあるのは聖霊の働き、神の霊感により書かれたわけで、神は聖書を今現在に至るまで守ってこられたと私は信じます。聖書はイエス=キリストを証しします。
聖書は、「すべて彼(主イエス)を信じる者は、失望に終わる事がない」と言っている。
ローマ書 10:11
陰謀論、異次元世界を含め熱心に調べるのもいいですが、行き過ぎると、フォーカス先を見誤ると、ミイラ取りがミイラになってしまう。間違いなくサタンの罠に嵌り、悪影響を受けてしまう。NWO陣営を操るダーク・マスターを決して侮ってはなりません。神の武具の備えは必須。
(エペソ書 6:10~18)
誰かが言ってましたっけ・・・「聖書は神様からのラブレター」だと・・・Amen!
神の按配、さじ加減、すべてを語ってはいない、隠された真理、見つかっていない写本(私はあえて神が隠していると考える)があるのだから、解らない箇所、矛盾に感じる箇所があって当然。人間ごときが知ったかぶりして高等批評を展開するのは好きになれません。
素直に読めばいい、解らない箇所は解らないでいい、わかる日が来るでしょう。少なくともイエス様が再臨した暁には・・・
まず初めに思わず反応した情報を二つほど。今の時点でどうこう言うつもりはなし。
Ⅰ トランプ大統領がメキシコ国境の壁問題を巡り、民主党と対立。非常事態宣言へと。
Ⅱ あのネオコンの重鎮、元米アメリカ国連大使、現在、米大統領補佐官のフィクサーと言っていいのかと?ジョン=ボルトンがベネズエラ情勢において、世界各国に脅しをかけていますね・・・「米の言う事を聞かないと痛い目に合うぞとばかりに。」万国共通ではありますが、特にアメリカの上層部はサタニストの巣窟と言っても過言ではないでしょう。思わず「あなた何様のつもり?」と。個人的にはこの人物大嫌いです!まさしく世界最大の暴力団国家ですよ、別名ジャイアン国家?(笑)
これらの件については、現在、様子を見なければ何とも言えませんので、情報のみの提供レベルで勘弁願いたいところです。
どうも最近、掲示板の方に引っ張り出されてるわけではないのですが、ブログがおろそかになっている状況・・・と言いますか、ピン・ポイントをターゲットにして可能な限り(限りなく不可能に近いのが現実ですが)、大げさな煽り記事?フェイク=インフォメーションの代名詞と化してしまったメイン・ストリーム:メディア情報・・・を慎重過ぎるくらい吟味していると、何も書けなくなっている現状・・・これが当たらずも遠からずの私の今の状況であります。
よって、どうも・・・ブログ記事が書けないでいる?のが正直なところです・・・
と前置きはこの辺にしておいて、まずは信仰の基本を確認するのに持って来いの動画から。
異論なしです。
さて、個人差はあれど、一歩前へ進んで本題へと。
誤解を恐れずに厳密に色分けするならば、新約の始まり=教会時代はペンテコステの「使徒行伝」からであって、4福音書は旧約聖書の範疇と言っても間違いないでしょう。まさしく旧約時代のクライマックスです。主イエスも旧約からの引用が多々ありますし、そもそもあの時代、新約聖書はまだ存在しなかった・・・ --;
旧約を知らずして、新約を消化するにはあまりにも無謀と言うか、限りなく不可能に近い。
旧約聖書の特徴を挙げるとすれば、旧約の主役であるイスラエルの民は人類の縮図であり、罪の記録、医学的見地で言えば診断書・・・けっして人間の目から見ても、褒められ、手本とするべきものじゃない・・・そう言う意味では読むのが辛い、嫌いという想いも、ピュアで敬虔であればある人ほどそうであるのだろうと察します。
私も決して他人のことを言えたものじゃありませんが、ユダヤ人の英雄、ダビデ王でさえ、必要とあらば、赤裸々にその恥部を曝け出されます。なにも民族の英雄の恥まで書くことないとも思いますが、それが聖書なのですね。ちなみに私は大好きな人物ですけどね。
要するに、原罪を持った人間はどうしようもない、人間に対して徹底的に絶望することが、スタート地点に立つことになるのかなと。
その解決手段が新約聖書なのです。診断書に対し、言うなれば処方箋=イエス・キリストの十字架上での贖いの死により罪赦された、さらに3日目の甦り=復活、昇天。人間としての生誕(初臨)、これは成就しました。「救い主」と信じるならば救われる。そして、やがてそう遠くないであろう未来に再臨し、「本当の意味での救いが完成すること」を、私は信じます。
「信仰義認」により罪赦された、及び律法から解放された。ガラテヤ書を読めば明らかですが、我々は、キリストを心から信じることにより、救いに与り、罪及び律法から解放され自由の身となれるのです。
そして旧約聖書のもう一つの無視出来ない側面、特色として挙げられるのが、メシヤ生誕(救い主の登場;初臨)の預言書的色彩があります。聖書は、旧約、新約を通し、イエスを証しする書物と言っても過言ではないでしょう。
ちょっと長いですがルカ伝から引用。
ルカ伝 24:13~27
24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
24:17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 24:18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 24:19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 24:20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 24:22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 24:23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 24:24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
24:25そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
どうでしょう、モーセの石版が二枚であったように、聖書は旧約と新約で一冊なのですね。もちろんここ↑で言っている聖書全体とは、旧約聖書です、くどいですが、まだ新約聖書は完成しておりませんので。(AD100年ごろ、ちなみに旧約聖書がBC400年ごろ)
特にイザヤ書などはメシヤ生誕の初臨的預言箇所が多く見受けられますよね。
そして旧約聖書の中には「主の使い」として、受肉前のイエス様らしき人物の登場箇所があちこちに見受けられます。
またノアの箱舟、ヨセフ、イサク、王としてのダビデなど、その予表とも言える箇所もあちこちに。
今の時代、新約聖書の黙示録を読むことも大事だと思いますが、旧約のダニエル書、エゼキエル書、ゼカリヤ書などもユダヤ的ですが、と言うか、だからこそ、終末預言の書として間違いないでしょう。
結果として、置換神学を用いて、救いはユダヤ人から取り除かれ、異邦人に移行した。クリスチャンこそ新約のイスラエルだと説く人がいますが、これはこれで異論ありません。イエスを信じる信仰によって、アブラハムの祝福は異邦人にも広がったわけですから。
そもそも2000年近く世界を流浪の民としてさまよった歴史を持つユダヤ民族、混血しているのがあたり前だろうし、そもそも純血のユダヤ人などいるのでしょうかねえ~?
否、ラハブ、ルツの時点でそもそも混血しているではないですか?
だがしかし・・・神は決してユダヤ人を見捨ててなどいません。ダニエル書、ゼカリヤ書を読めばわかるように、ユダヤ人は反キリストをメシヤだと信じてしまった過失に気づき、騙された~(メサニック=ジュー的見解かもしれませんが、ユダヤ教徒にとってメシヤは、人間なのだそうだ?)、そしてイエスこそ来るべきメシヤであったのだとハルマゲドン近くの土壇場までには気付いて、悔い改めレムナント・ユダヤ人は救われると私は信じます。
真実ですが、よくユダヤ人と言うと、ユダヤ国際金融財閥のフリーメーソン・イルミナティの世界の政治、経済、軍事、情報テクノロジーを動かす大富豪、NWOの重鎮を連想しますが、このような悪魔に魂を売ったユダヤ人がすべてではなく、それこそ1%と99%の世界なわけなのですよ。もっともユダヤ人とは限りませんがね。
このように見て来ると、聖書は創世記から始まり、黙示録で終わるまで、見事なくらいに調和が取れていて、神による人類救済計画は、ユダヤ人を通して、我々異邦人に及び、最後には「病的な頑なさ」、「悪女の深情け」の代名詞?であるかのようなユダヤ人へとターン・バックして、これまた見事な流れとなっているのですね、聖書と言う書物は・・・
現代において、本物の預言者かどうか?
あまりにも軽率に「神が語られた」とか、「神に示された」・・・とか、口にしたり、ブログに書いたりする人がいる。
特に胡散臭いのが個人預言の類 --;
中には本物の預言も絶対にないとは言いませんが、あまりにもカリスマ系に傾倒しているクリスチャンをみているとウンザリとされられる・・・99.9%は自分の考え、思いを勝手に語っているだけではなかろうか?
判断基準として、以下の聖書箇所が、参考になろうかと。
18:20ただし預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺さなければならない』。
18:21あなたは心のうちに『われわれは、その言葉が主の言われたものでないと、どうして知り得ようか』と言うであろう。
18:22もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。
申命記18:20~22
28:8わたしと、あなたの先に出た預言者は、むかしから、多くの地と大きな国について、戦いと、ききんと、疫病の事を預言した。 28:9平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実に主がその預言者をつかわされたのであることが知られるのだ」。
エレミヤ書28:8~9
真の預言者というものは、旧約の時代においても、現代においても、それはもう過酷な運命で、この世的視点からは決して天真爛漫な仕事人ではない。まさに命がけなのだ。
そうして考えてみると、かつて一世風靡した、ピーター=ワグナー、ベニー=ヒン、トッド=ベントレーなど聖霊の第三の波系の連中は、明らかなる偽預言者と言えますわね?!
アミール師などは、わざわざ「非預言者団体の者」などとアナウンスするくらい。「預言は聖書に書いてあるではないか」と。好感持てます。
結論として、自称=預言者にはロクなのがいないと独断と偏見で言わせていただきます。
それを鵜呑みにするクリスチャンもいかがなものかなあ~?ましてや牧師先生が偽預言に引っかかる、神がそう語った、などと言うと・・・私はそのような先生からはドン引きしますね。アタマの中がおめでたいとしか言いようがない --;
最後になりますが、この中川師の3分動画もお役に立つことでしょう。
今は終わりの時代、「蛇のように聡く、鳩のように素直であれ」ですよ。
どうもここの所、過去記事の「輪廻転生」を扱った記事のコメ欄に散発的にコメントが入るので、今一度、書いて置こうかと。
言いたいことがあるのであれば、ご自分でブログなり何なりで持論を好きなだけ展開して下さい。正直、反論する気力もないのですよ・・・信じるところのベースが違うので、どこまで行っても平行線なのもわかってますし。もちろん、何を信じるかは自由ですが、キリスト者であるとするならば、ちょっと?と感じたので、第二弾として書かざるを得ないのかなと。
私はカルマ、業を信じる者ではありません。
そのような先入観で聖書を読めば当然のごとく、そのように解釈するでしょうし、輪廻転生を信じるとしても不思議ではありませんから。
あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。
詩篇90:3
ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。
伝道の書12:7
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ヘブル書9:27~28
* これがいわゆる、「輪廻転生」との違い「復活」の雛形です。輪廻転生が前世の記憶がないのに対し、復活は個々人のアイデンティティーが存在し続けます。
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。
第一テサロニケ4:13~17
* これがキリスト者の究極の希望なのです。もう一度、再び地上に生れ落ちたいなどとは私は間違っても思いません。
最後に誰にでもわかる素朴な疑問を。復活を信じない、わからない人には理解できないことでしょう。
私の前世はアベルであった。
次はアロン。
そのまた次はペテロ。
その次はなぜか?ゴキブリ?・・・自分に最もふさわしいかな?(笑)
そして今生きている自分自身・・・
さて?復活の時には誰として復活する?ゴキブリとしての復活はあり得んでしょうけど?
かように、明らかに「輪廻転生」と「復活」は相反する教えなのですよ。
己は己自身で充分ではありませんか。
* くどいようですがコメント入れてもらってもレスはいたしませんので悪しからず。前の記事で散々やりつくしたし、これ以上、不毛な議論をする気も有りませんので。
どうしても言いたいことがある方は上記の素朴な疑問に答えてからにして下さい。
3:16確かに偉大なのは、この信心の奥義である、
「キリストは肉において現れ、
霊において義とせられ、
御使たちに見られ、
諸国民の間に伝えられ、
世界の中で信じられ、
栄光のうちに天に上げられた」。
第一テモテ 3:16
何も言うことはないことでしょう・・・「世界の中で信じられ」、そう、そこにはユダヤ人と異邦人となんら差別、比較するものはない。
よく「銀の二本のラッパ」がイスラエルと教会にたとえられますが、キリストを信じる者はキリストにあって皆、霊的イスラエルなのです。
23:37ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。 23:38見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。 23:39わたしは言っておく、
『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』
とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
マタイ 23:37~39
今現在、神殿の丘(テンプル・マウント)がきな臭い状況です。
イスラエル政府は神殿の丘へのゲイトに、金属探知機を設けました。
これがパレスチナを始めとし、ムスリムの反感を買っているようですが、ユダヤ教右派連中は「今こそその時だ。エルサレムの主権を取り戻す、脅迫には屈しない」という姿勢・・・今はどういうわけか?ムスリムが神殿の丘の管理権を有してます。
近いうちにおそらくは、黙示録11章1~2節から察するに、アル・アクサ寺院、岩のドームはそのまま、その隣にユダヤの第三神殿が設立されることでしょう。この設立予定場所から直線で結ぶとなんと!今は閉じられている「東の門(黄金門)」に突き当たるそうです!
第三神殿が出来るのが先か?それともその後なのか?
ダニエルの70週のストップ・ウォッチが最後の一週(7年)へと向けて、再び動き出すのもそう遠くないはずです・・・
エルサレムに真の平和が訪れる日・・・それは主なるキリストの再臨まで待たねばならないことでしょう。
主よ、来たりませ、マラナタ。
21:3また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 21:4人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。 21:6そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。 21:7勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
黙示 21:3~7
>置換神学
置換神学(ちかんしんがく、Supersessionism、replacement theology、fulfillment theology)とは、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になったとする説である。
その根拠とされる聖句は、ガラテヤ3:6-9、3:29、ローマ2:28、29、4:13、マタイ21:43である。
聖書の語句で「イスラエル」と出てくる箇所を「ユダヤ人」と見なさずに霊的にのみ解釈する(キリスト教、教会を「真のイスラエル」とする)。
~ウィキより~
私としては100%否定するつもりはないし、場合によっては、この手法を使った方がわかりやすくフィットする箇所もあります。よって、私もまったく使わないわけじゃありません。
解釈にも、いわゆる「文字通り」の解釈と「たとえとして」の解釈があるように。聖書の二重性(デュアリティー)も否定しません。
とは言え、イスラエル(ユダヤ人)と教会は双方揃って両輪をなしていますよね?
要するに、バランス感覚のない常軌を逸した極端な置換神学は御法度ということでしょうか。頓珍漢な聖書解釈をしたくなければ。
それからこれ大事!終末預言の書に関しては、これはやめた方がいい。
最近の世界情勢、特に中東情勢を見ているとつくづく感じる。
自称?聖書片手に中東ウォッチャーをやっていて、ここ1~2年でフッと感じたことですけど、ユダヤ人とイスラエル国家、エルサレムを無視してはおかしな解釈になってしまうのですよ。
なぜなら、聖書に書いてある文字通りのことが成就しようとしているから。
特にダニエル書、ゼカリヤ書などは、終末における、ユダヤ人の救い為の書と言えるのではなかろうか?
ダニエル書を読んで気づくことは、黙示録と比べかなり、ユダヤ色が濃いことです。
それと参考までに:
”聖書預言には賞味期限がある(いわゆる政治経済、登場人物、軍事面を含めた舞台設定)
~Pastor JD Farag
”聖書に出て来る戦争の記述はすべてイスラエルが関係している。だからあれほどの歴史的大惨事にもかわらず、二度の世界大戦は聖書には書いてない。なぜか?あの時代にはイスラエルが国家としてまだ、なかったから。”
~Amir Tsarfati 氏
* 全部調べたわけじゃありませんけど、説得力がある。そしてハルマゲドンの最終攻撃のターゲットとなる本丸は・・・イスラエルであり、その時には世界首都であろうエルサレム。
ワケあり、久々の更新となってしまいました・・・
結論から入るトップ・ヘビーで申し上げるならば・・・12使徒(イスカリオテのユダの後継者=マッテア、そしてある意味12使徒以上の働きをしたパウロ)のこの世での結末は、この世的価値観で言うならば、必ずしもHappy End とは言えないことでしょう。
世間でよく言う、当たり前、普通の死である死を迎えたのは、12使徒ではヨハネだけです・・・
彼らは「主イエスの復活」によって、変えられ、永遠の命の真骨頂を知っていたから受け入れられた・・・と言えばそれまででしょうけど、現代の自称・預言者、自称・神の働き人に・・・果たして可能でしょうか?私は真っ先に疑問を呈しますね・・・もちろん全員だとは言いませんよ。
それだけ預言者、主の証人の責務というのは、凡人では負いきれないほど重いものなのだとつくづく感じます。文字通り「・命がけ・孤独・世の嫌われ者」の代名詞なのだと思います。
ちなみに私のやっていることなど、幼稚園児のままごと・レベルに等しいですから。
さて、偽預言者に惑わされる昨今・・・一つのリトマス試験紙にはなりやしまいか?と思い、書いてみます・・・後の判断は個々人次第ですが。
連中がそれだけの器かどうかの判断材料の一つになることでしょう。神の選んだ真正なる預言者は世界広しと言えど、そう多くはないはずです・・・
聖書には使徒行伝においてゼベタイの子・ヤコブの殉教しか書いてませんが、参考までに伝承として、決して有害ではないと思うので。
参照サイト:http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-death-apostles.html
聖書に記録されている唯一の使徒の死はヤコブ(使徒行伝12:2)。
ヘロデ王がヤコブを「剣で殺した」と書かれていますが、おそらく首をはねたので しょう。
使徒ペテロは、ローマでXの形の十 字架(逆さ十字)に逆さにはり付けられたというものです。(最も一般的に、使徒たちの死の記録として受け入れられている教会の伝承)
マタイは、エチオピアで刀傷によって殉教の死をとげました。
ヨハネは、ローマで迫害の波が起こったとき、煮え立った油の大釜の中で殉教するところでした。しかしながら、奇蹟的に命が助かりました。 その後ヨハネは、監獄の島パトモス島の炭鉱に島流しになりました。彼は、預言的な書、黙示録をパトモスで書きました。使徒ヨハネはのちに釈放され、現代トルコとして知られているところに戻りました。彼は老齢で亡くなりました。使徒の中で唯一、平和に亡くなった人物です。
エルサレム教会のリーダーだった、イエスの兄弟ヤコブ(正式に使徒ではない)は、キリストへの信仰を否定することを拒否したとき、宮の南東の小尖塔から突 き落とされました。彼が、その墜落でも死ななかったことを発見した敵たちは、ヤコブを棍棒で撲殺しました。この小尖塔は、サタンがイエスを誘惑したときに 見せた同じ小尖塔でした。
ナタナエルとしても知られていたバルトロマイは、アジアへの宣教師でした。 彼は、今日のトルコで証し、アルメニアで説教したことで、むちで打たれ皮膚がはがれて亡くなりました。
アンデレはX型の十字架につけられ、ギリシャで亡く なりました。
7人の兵士にひどくむち打たれたあと、彼らはアンデレの苦しみを長引かせるためにひもで彼の体を十字架にくくりつけました。彼が十字架に引か れて行ったとき、彼は次のようなことばをもって十字架にあいさつしたと彼の弟子たちは報告しています。「私は、この至福の時を長いこと待ち望んできた。十 字架は、キリストのからだがかけられたので、神聖なものとなったのだ。」彼は、彼を苦しめた人々に2日後に死ぬまで説教し続けました。
使徒トマスは、そこに教会を建てるために出かけた宣教旅行の間に、インドで槍で刺されました。
裏切り者イスカリオテ・ユダの代わりに使徒として選ばれたマッテヤは、石打ちに され、そのあと首を切られました。
使徒パウロは、ローマにおいて紀元後67年に、拷問のあと邪悪な皇帝ネロによって首をはねられました。他の使徒に関して も伝承がありますが、それらには、信頼できる歴史的、また伝承的なサポートがありません。
使徒たちがどのようにして亡くなったかはそんなに重要なことではありません。重要なのは、彼らはみんな信仰のために喜んで死んでいったという事実です。イエスがよみがえらなかったのなら、弟子たちはそのことを知っていたはずです。誰も、うそだと分かっていることのために死ぬ人はいません。すべての使徒たち が、キリストへの信仰を捨てることを拒んで、自ら進んで恐ろしいしかたで死んだという事実は、彼らが本当に復活したイエス・キリストを目撃したということ のすばらしい証拠なのです。
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これから先・・・おそらく時代は益々、悪い方向へと向かうでしょう。そんな時、使徒たちの勇気のほんのわずかでも与えられるのならと・・・そう願わずにはいられません。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネ 16:33
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
ヨハネ 12:24
なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。
あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、
(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。
さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。
神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。
ヘブル 11:36~40
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