ヨハネ第一の手紙から~罪(原罪)
1:8もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
ヨハネ第一 1~8:10
3:9すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
ヨハネ第一 3:9
以前から疑問に感じていながら、わからなかったここ、ヨハネ第一の手紙のお互いに矛盾すると感じていた箇所。
本日、Behold Israel のユーチューブ=チャンネルのQ&Aシリーズで、マイク=ゴレイ、バリー=スタグナーのお二人の牧師の回答で疑問が氷解した。同じ疑問をもっていた方も絶対にいることと思うので書いておこうかと。
その前に私自身、「罪を犯したことのない人手を挙げて!」と言われても・・・天地がひっくり返っても挙手は出来ない!
ところが3章では「罪を犯すことが出来ない」とある・・・質問者も同じような疑問を持っていたことだろう。本当に新生しているのだろうかと?
そこで出てきたのが、原語であるギリシャ語をたどれと言うこと。
その納得する回答は、「罪を犯し続けることに罪悪感、良心の呵責を感じ、耐えられない」と言うような事でありました。
私的に言うならば、「もうやらない、これで終わり、本当に最後、残るのは罪悪感とむなしさだけ!」・・・と言いつつ
何度でも繰り返してしまうダメクリの自分・・・自分の努力では無理、主に時間をかけて少しずつでも変えてもらうしかない。
いわゆる原点回帰、原罪(crimeではなくsin)が、わからないと先へは進めないのですね。
しかし父なる神は感謝かな、主なるイエス=キリストを遣わしてくださり、罪の代価を支払って無罪放免としてくださった。
ここに神の愛を見ることが出来ますね。
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