旧約聖書と新約聖書は双方合わせて「いわゆる」=「聖書」なのです
まず初めに思わず反応した情報を二つほど。今の時点でどうこう言うつもりはなし。
Ⅰ トランプ大統領がメキシコ国境の壁問題を巡り、民主党と対立。非常事態宣言へと。
Ⅱ あのネオコンの重鎮、元米アメリカ国連大使、現在、米大統領補佐官のフィクサーと言っていいのかと?ジョン=ボルトンがベネズエラ情勢において、世界各国に脅しをかけていますね・・・「米の言う事を聞かないと痛い目に合うぞとばかりに。」万国共通ではありますが、特にアメリカの上層部はサタニストの巣窟と言っても過言ではないでしょう。思わず「あなた何様のつもり?」と。個人的にはこの人物大嫌いです!まさしく世界最大の暴力団国家ですよ、別名ジャイアン国家?(笑)
これらの件については、現在、様子を見なければ何とも言えませんので、情報のみの提供レベルで勘弁願いたいところです。
どうも最近、掲示板の方に引っ張り出されてるわけではないのですが、ブログがおろそかになっている状況・・・と言いますか、ピン・ポイントをターゲットにして可能な限り(限りなく不可能に近いのが現実ですが)、大げさな煽り記事?フェイク=インフォメーションの代名詞と化してしまったメイン・ストリーム:メディア情報・・・を慎重過ぎるくらい吟味していると、何も書けなくなっている現状・・・これが当たらずも遠からずの私の今の状況であります。
よって、どうも・・・ブログ記事が書けないでいる?のが正直なところです・・・
と前置きはこの辺にしておいて、まずは信仰の基本を確認するのに持って来いの動画から。
異論なしです。
さて、個人差はあれど、一歩前へ進んで本題へと。
誤解を恐れずに厳密に色分けするならば、新約の始まり=教会時代はペンテコステの「使徒行伝」からであって、4福音書は旧約聖書の範疇と言っても間違いないでしょう。まさしく旧約時代のクライマックスです。主イエスも旧約からの引用が多々ありますし、そもそもあの時代、新約聖書はまだ存在しなかった・・・ --;
旧約を知らずして、新約を消化するにはあまりにも無謀と言うか、限りなく不可能に近い。
旧約聖書の特徴を挙げるとすれば、旧約の主役であるイスラエルの民は人類の縮図であり、罪の記録、医学的見地で言えば診断書・・・けっして人間の目から見ても、褒められ、手本とするべきものじゃない・・・そう言う意味では読むのが辛い、嫌いという想いも、ピュアで敬虔であればある人ほどそうであるのだろうと察します。
私も決して他人のことを言えたものじゃありませんが、ユダヤ人の英雄、ダビデ王でさえ、必要とあらば、赤裸々にその恥部を曝け出されます。なにも民族の英雄の恥まで書くことないとも思いますが、それが聖書なのですね。ちなみに私は大好きな人物ですけどね。
要するに、原罪を持った人間はどうしようもない、人間に対して徹底的に絶望することが、スタート地点に立つことになるのかなと。
その解決手段が新約聖書なのです。診断書に対し、言うなれば処方箋=イエス・キリストの十字架上での贖いの死により罪赦された、さらに3日目の甦り=復活、昇天。人間としての生誕(初臨)、これは成就しました。「救い主」と信じるならば救われる。そして、やがてそう遠くないであろう未来に再臨し、「本当の意味での救いが完成すること」を、私は信じます。
「信仰義認」により罪赦された、及び律法から解放された。ガラテヤ書を読めば明らかですが、我々は、キリストを心から信じることにより、救いに与り、罪及び律法から解放され自由の身となれるのです。
そして旧約聖書のもう一つの無視出来ない側面、特色として挙げられるのが、メシヤ生誕(救い主の登場;初臨)の預言書的色彩があります。聖書は、旧約、新約を通し、イエスを証しする書物と言っても過言ではないでしょう。
ちょっと長いですがルカ伝から引用。
ルカ伝 24:13~27
24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
24:17イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。 24:18そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。 24:19「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、 24:20祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。 24:22ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、 24:23イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 24:24それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
24:25そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。 24:26キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。 24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
どうでしょう、モーセの石版が二枚であったように、聖書は旧約と新約で一冊なのですね。もちろんここ↑で言っている聖書全体とは、旧約聖書です、くどいですが、まだ新約聖書は完成しておりませんので。(AD100年ごろ、ちなみに旧約聖書がBC400年ごろ)
特にイザヤ書などはメシヤ生誕の初臨的預言箇所が多く見受けられますよね。
そして旧約聖書の中には「主の使い」として、受肉前のイエス様らしき人物の登場箇所があちこちに見受けられます。
またノアの箱舟、ヨセフ、イサク、王としてのダビデなど、その予表とも言える箇所もあちこちに。
今の時代、新約聖書の黙示録を読むことも大事だと思いますが、旧約のダニエル書、エゼキエル書、ゼカリヤ書などもユダヤ的ですが、と言うか、だからこそ、終末預言の書として間違いないでしょう。
結果として、置換神学を用いて、救いはユダヤ人から取り除かれ、異邦人に移行した。クリスチャンこそ新約のイスラエルだと説く人がいますが、これはこれで異論ありません。イエスを信じる信仰によって、アブラハムの祝福は異邦人にも広がったわけですから。
そもそも2000年近く世界を流浪の民としてさまよった歴史を持つユダヤ民族、混血しているのがあたり前だろうし、そもそも純血のユダヤ人などいるのでしょうかねえ~?
否、ラハブ、ルツの時点でそもそも混血しているではないですか?
だがしかし・・・神は決してユダヤ人を見捨ててなどいません。ダニエル書、ゼカリヤ書を読めばわかるように、ユダヤ人は反キリストをメシヤだと信じてしまった過失に気づき、騙された~(メサニック=ジュー的見解かもしれませんが、ユダヤ教徒にとってメシヤは、人間なのだそうだ?)、そしてイエスこそ来るべきメシヤであったのだとハルマゲドン近くの土壇場までには気付いて、悔い改めレムナント・ユダヤ人は救われると私は信じます。
真実ですが、よくユダヤ人と言うと、ユダヤ国際金融財閥のフリーメーソン・イルミナティの世界の政治、経済、軍事、情報テクノロジーを動かす大富豪、NWOの重鎮を連想しますが、このような悪魔に魂を売ったユダヤ人がすべてではなく、それこそ1%と99%の世界なわけなのですよ。もっともユダヤ人とは限りませんがね。
このように見て来ると、聖書は創世記から始まり、黙示録で終わるまで、見事なくらいに調和が取れていて、神による人類救済計画は、ユダヤ人を通して、我々異邦人に及び、最後には「病的な頑なさ」、「悪女の深情け」の代名詞?であるかのようなユダヤ人へとターン・バックして、これまた見事な流れとなっているのですね、聖書と言う書物は・・・
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