「叱責」と「説得」
https://www.youtube.com/watch?v=6AZElHJSzBA&index=71&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p
https://www.youtube.com/watch?v=NwF-8LDZx-8&index=72&list=PLpcwK0VYlJeAEroKHy16Z_4Lp6C1iHp-p
本日の命題。
上記URLは、知る人ぞ知る??私の尊敬するアメリカン牧師、ジョン=コーソン師の黙示録12章の講解説教です。必見ですよ、100%完璧かどうかはわかりませんが、師の着眼点は鋭い!
和訳奉仕してくださっている姉妹に、天来の豊かな祝福がありますように。
と序論を展開しましたが、難解なる黙示録12章の聖書解釈は上記URLのユーチューブ動画を見てもらうとして、視点を変えて・・・その中で触れていた論点・・・
私も常々と言いますか、毎日のようにジレンマに陥る「罪の自覚」と「罪の赦し」について自分なりに感じたことなどを。
コーソン師は言います。
「叱責」いわゆる聖書的に言うならば「訴える者」となるでしょうか、これは悪霊から来ている。翻って、「説得」するもの・・・これは聖霊から来ている。
これには目から鱗でした。
キリスト者として受洗して、形の上ではいわゆる「新生」、言い換えるならば「Born again」して、晴れてキリストを信じ、救われる者となるわけですが、現実はと言うと・・・なかなかそうは問屋が卸さない --;
今回のエントリーは客観的というより、主観的要素が強いことをはじめに断っておきましょう。
パウロも言ってます。「義人はいない、一人もいない。」とローマ書の中で。
私などはその典型であり、叩けばいくらでも埃が出てくる、それは己自身がクリスチャンホームで生まれ育った環境ではないと言うのも関係するのかも?知れません・・・
学生時代、ある女性がいました。世間で言う「いいとこ育ちの典型的なお嬢様クリスチャン」・・・
私は感じましたよ・・・「私とは人種が違うな」と・・・
通学していた大学がミッション・スクールでしたので、それなりにクリスチャンはいました。その反面、「おいおい、お前、本当にクリスチャンかよ?嘘だろ?」という輩がいたのも事実ですが(笑)
自分自身で今までの生涯で後悔しても後悔しきれないことも多々やってきた。洗礼を受けた後においても、「いけないことだ、これはどう都合よく割り切っても罪だ」ということも、多々やってしまった・・・「ああ~、このことも天において記録として残るのだろうなあ・・・」と思いながらも、葛藤がありながらも、結果、肉の弱さに打ち克つことの出来ない自分がいた・・・というか、今もいる・・・現在進行形。
ところで、キリストを信じる以前はそれほど深く考えたこと、感じたことはなかったのですけど、キリストを信じてからと言うもの、いわゆる「罪」に関して敏感になったのか?
どうも「やっちまった後」、罪悪感だけが残り、その度に、旧約的に「燔祭の子羊」を生贄に心の中で捧げる行為をしてしまう自分がいる。「羊がぎょうさんいるいうても、足りないやないかい!あかん、あかんわ。破産してまうで~!」となってしまう。
これが、コーソン師の言うところの「叱責、訴える者」だと言うことなのですね。あくまで人間的視点なのですがね。
よって、キリストの十字架の贖いを自分では理解してわかっているつもりでも、サタンの叱責にはなかなか勝てない自分をそこに見出すのです。
コーソン師は「これはサタンから、悪霊陣営から来るものだ」と言います。異論ありませんね、頭ではわかっているが、エモーション(心、魂)が別物であるかのようについていかない。
ところが、聖霊は説得する側であると言います。主なるキリストは言ってくれる「私はもう忘れたよ。だから君もいつまでもウジウジしてないで前進しようよ」と・・・
「我々の戦いは血肉ではなく霊的な戦いである」とパウロは書簡の中で述べている。まったく異論のないところ。
世間一般では「気の持ちようだ」で片付けてしまうでしょうが、奥は深いと私は感じる。
よくよく考えてみれば、唯一なる父なる神との仲介者であるキリスト。
歴史上で言えば一大事であった大イベント、そう、
神は罪の根源、動機によって裁く方であって、傲慢、奢り高ぶりの罪は許されないが、人間的弱さから来る罪は許される。
父なる神がそのひとり子である御子イエスをローマ帝国時代、もっとも残酷であったと言われる十字架刑によってまで、我々を贖って下さった。その罪の赦しは絶対に等しいのだ。
もちろん、少しでもキリストに似た者になることを忘れてはならないけど、どんなにあがき努力しても、その水準になど我々人間で到達することなど100%不可能、キリストはあくまで手本であって基準ではないのですね、これが。
ただただ、御子なるイエスの十字架の前にひれ伏し、感謝するのみ。御子の十字架はそんな偏狭なものではないのだ、父なる神へと至る、唯一の道であるのだから。
「もう忘れたよ・・・友よ、ともに永遠の御国においてお供してはくれまいか・・・それまでは大変なこともあるかもしれないが、私のために出来る範囲でよい、救いを受けたからには地上において尽力を願いたいのだが。」と、これがいわゆる「説得」、聖霊の働きなのでしょうね・・・
実感するのは困難かもしれない、しかしこれが、聖書的であるのは間違いないところ、「罪の自覚と赦し」・・・全てはここから始まるのですね。
霊的ガードを今こそ大切に。
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