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2015年6月 5日 (金)

ボールは投げられている

本日の祈りの中でふと気づかされたことのお分ちです。ま、別に目新しいものでもなく、当たり前のことなのですけど。

キーワードは「救いという名のボール」です。

既に2000年近く前に、主なるイエス=キリストの十字架上での贖罪により、「完了した」という過去完了形をもって、我々、人類の罪は贖われ、主も「あなたの罪を思い返すことはない」と、罪の清算は終わっているわけです。

しかしながら、私の理解では、主がその御手を差し出してくれた、「救い」という名のボールを我々に投げかけて下さった・・・というもの。

その差し出された手を握るか拒否するか、はたまた投げられたボールをキャッチするかどうかは、個々人の自由裁量に委ねられている。
なぜなら、我々人間には従うのも従わないのも自由である、これは全能の神であっても介入できない「人間に任された自由意志」の存在。こればかりは神といえどどうすることも出来ない。
しかしながら私は思う・・・一方的な恵みを伴った投げられたボールを一度キャッチしたならば、絶対に手放してはいけない、そう思うのです。

最近、IMMの金山と言う牧師が、神社仏閣に油を撒いてカルト問題化してますが、「霊的戦い」の本質はそうではなく、ここにあると私は思うのです・・・及ばずながらも、我々も「荒野の試み」の戦いに勝利しなければならない。

失地回復の戦いでしたか?ヘンリー=グルーパー師も盛んに唱えてますが、どうも最近、あの方に対しても疑念が湧かなくもない・・・私の見立てなのでアテになりませんがね。
ただこれだけは言えますね、カリスマ派には要注意、要吟味で安易に傾倒すべきではないと。もちろん、すべてとは言いませんがね。

たとえば日本で言うならば、大手町に鎮座する「平将門の首塚」、「銭荒い弁天」なども完全に悪霊のアジトでしょうね。
これは我が師匠の受け売りですが「人間サイドからわざわざ攻撃する必要はない。何かしらの理由があってその存在が時満ちるまで許されているのでしょう。わざわざこちらから出向いて戦いを挑む必要などありません。神にお任せしましょう。」
というメッセージを、今でも鮮明に脳裏にインプットされています。

また、軽々しく預言などという言葉を使うべきではない、預言者に与えられた過酷なミッションを思うに、現代の自称預言者たちは、神を侮り、舐めているとしか思えません。神に対する怖れの念が感じられないのです。ヨエル書に書かれている預言の成就はまだとしか私には思えない。

さて、お得意のパターンでまたまたテーマから脱線してしまいました --;

ところで「救いが無効と化す」という論点をよく耳にします。これに関しては神学論争の的となるだろうし、私自身、よくわかりませんし、深入りするつもりもありませんが、キリストの救いの本質を察するに当たり、個人的にはこれはないと思う。
一度救われたならば、その救いは例外はあるにせよ、時満ちるまで原則有効なのでしょう。それは、単に本人自身が救われたと思い込んでいたに過ぎないのではないでしょうか?

時はまさに、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章の時代に完全に片足突っ込んだなと私は感じております。
時間でたとえるならば、知っている人は知っているユーチューバー=エバンジェリストのツワモノ、アニータ=フェンデス女史が言う、11:59分とまでは私は実感ありませんが^^;・・・11:56~57分くらいにはなっているかと --;

戦争と戦争の噂、経済崩壊、世界各地で頻度を増す大地震、火山の噴火、韓国でのコロナウィルス騒ぎ、おそらく失敗したのでしょうがエボラ出血熱、アメリカでの鳥フル騒動などのパンデミック・リスク、黙示録のいわゆる「4騎士」の幻影もちらほらと見え隠れしてきたような時代背景。
これで反キリストの正体とエルサレムの神殿の丘のベールが剥がされればあとは時間の問題でしょう。

今こそ、投げられたボールをしっかりとキャッチして、どうあっても離してはならない時期であると感じます。主の慈しみと憐れみが溢れんばかりに豊かに注がれますように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 21節

わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

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コメント

お久しぶりです。いつも色々考えさせられる記事をありがとうございます。韓国もFEMA発令、キャンプかという見方もでてきました。すべてのメディアが大騒ぎ。今日の通読はイスラエルの民が自ら王を求める場面でした。それに対する神の警告。人間は同じ過ちを繰り返し、神の愛に背いていく、といった構図、現在の世の事が頭の中で重なりました。そろそろ敵キリストが現れるでしょう。最後まで信仰に生きたいものです。

エキンスさん、こちらこそご無沙汰しております。
いつも鋭いところ突いてきますね。
時代は変わっても、人間の本質というのは変わらないと言うことなのでしょうね --;

>最後まで信仰に生きたいものです

→アーメンです。
それではまた。

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