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2014年11月19日 (水)

失われたアークーⅡ~聖書考古学による裏付

まず初めに、昨日の記事を読んでない方はまず読んで先入観を払拭してからお願いします。特定教団のすべてを否定するのは間違いですので。

実は2006年12月18日付、「失われたアーク~モーセ契約の箱は発見されている!」という記事を、ブログを始めて4ヶ月ほど経った頃アップしたのですが、未だに人気記事ランキングベスト5に入っている常連記事でして、最近、某姉妹からアークに関するDVDをお借りし(この場を借りて篤く御礼申し上げます)、その補足裏付としてはこれ以上はないだろう?という強い援軍となっており、ユーチューブにもアップされていたのでラッキー!これを使わない手はないとなった次第であります。

まだ読んでない方 ↓

http://zaakai.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_3c11.html

失われたアーク~モーセ契約の箱は発見されている!

も合わせて読んでいただけるとよりわかり易いかと。

それでは本題へと。

まずはこちらの動画を見てからの方がより理解が進むでしょう。

ゴルゴダの丘の上には聖墳墓教会が建っている、主イエスの墓はここにある、また、磔刑に架かった真下は東方正教会のエリアであると勘違いして、また間違った教えを受けている方・・・結構いらっしゃると思われるので。

二つとも1時間ちょい、2時間と長いビデオですが、必見です。

エンターテインメントと違い真剣に見ると疲れるかもしれませんので、1時間位づつ、3回に分けてみるのもいいかもです。

それでは真打と行きましょう。

このビデオを見ると、旧約聖書(人間の罪の記録であり、医学で言うところの診断書)と新約聖書(その為の解決であるところの罪の赦しと救い、医学で言うところの処方箋)は一体であり、そこには見事なまでの整合性が見出され、批准されているということがわかると思います。

まさしく聖書は「イエス=キリスト」を証しする書であって、「御子の贖いの血」に拠らねば救われないのです。

ヨハネ伝19:30の「すべては終わった」と仰られ息を引き取られた、主なるイエス=ヤシュアがまさしくメシヤであったと御霊に感じられることでしょう。

特に46分40秒から始まる講演内でのビデオ・・・生前のロン=ワイアット氏がアーク上から採取したという血液の塊ですが(詳細はビデオを見てください)、エルサレムの研究所で分析してもらった結果、それは人間の血であるのは間違いないが、染色体が24個しかなかったそうです。ワタクシ、理数系は生物を含めパッパラパ~なのですが、46個あるそうですね --;?

ところが女性の染色体が23個(母マリヤの遺伝子でしょう)、そして男性の染色体であるyもしくはxのうちy染色体が1個で計24しかなかったそうです。

我々普通の人間は23+23で46になるそうです。私は父なる神の奇跡がなされた業であると同時に、神が人間の姿をして地上に来てくださったと信じて疑いません。まさしく「聖霊によりて宿り」です。

そして極め付けが、これは誰のものでしょうか?との問いに対し、ロン氏は・・・涙ぐみながら「救い主の血です」と告白するシーンは、何度見ても胸が熱くなり、涙なくしては見れませんね(ToT)/

ここで涙が流れるようであれば、間違いなく救いに与っていると思ってます、たぶん --;?、これは偽預言の類ではありませんので。

と、前置きが長くなりました。これまた必見、2時間と長いですがそれだけの価値が十分あります。

そして私の見解は今でも変わりません。失われたアークはイエス様が磔刑に架かった真下にある!それは神の摂理であり、出来過ぎた話でもなんでもない。

日本の剣山説を力説する宇野正美氏は、いいかげん持論を撤回すべきであると。この人素晴らしい働きもしてますが、おっちょこちょいでガセネタが多いのも事実。でも憎めないからまあいいとしてます。

今のエルサレムの情勢からして、ソロモンの第三神殿が具現化してくる頃、そう遠い未来ではないはずです・・・本物のアークがレビ族の末裔により地下より運び出されるのでしょうか・・・

注;多分にSDA教団の宣伝も兼ねているのではないの?と思われる箇所、また「今でもイエスは天において父に執り成しておられる」との発言・・・これは人間側からの見方であり、主の十字架の贖いの業は一度だけで完全無欠。これに付け加えるものは何もないはずです。ヘブル書9,10章を参照。

またウィリアム=ミラーの存在を無視するわけにもいかず・・・

是々非々で、その辺は割り引いて見てください。人間のやることに完全を求めるのは限界があるということで。良いものはいい、悪いものは悪いのスタンスで。

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宗教関連」カテゴリの記事

コメント

ザアカイさん

こんにちは。記事でご紹介頂きました、「某姉妹」です。
わざわざご丁寧にお礼のお言葉を頂きまして、恐縮です。
子羊通信では、このハンネで今後ともどうぞよろしくお願い致します。

ところでこの契約の箱・・本当にミステリーの中のミステリーですね。
これらの講義を担当された聖書考古学者、兼ロン・ワイアット氏の後継者(?)の
ロス・パターソン氏が仰っていたことなのですが、ロン氏の死後、イスラエル政府はゴルゴダの丘の下に埋まっているこのアーク(契約の箱)を取り出そうとしたらしいです。
ところが作業に関わった政府関係者6名が、現場で突然揃って謎の死を遂げた・・。
(この話を主人にした所、主人は知っていました。有名なエピソードなのかな?)
それ以来、今をもってアークは地下に置かれたまま。
神様の時を天使達に守られて、じっと待っているのでしょうね。

契約の箱とともに洞窟内に置かれていた他の数々の前バビロン時代の神殿備品の中で、「象牙のざくろ」という置物があり、それはロン氏が洞窟から取り出して、
現在はイスラエル博物館に展示されているそうです。
ちなみにこの象牙のざくろには古代ヘブル語で碑文が刻まれているそうです。

「ヤーウェの家に仕える祭司たちのための聖なる献金」
「・・・我々のこのざくろはエルサレムのソロモン王によって立てられた第一神殿からの唯一の遺物である」と。

一般公開されているなら、いつか本物を見てみたいものですが、
遠い将来イスラエルに旅行するより前に、イエス様の再臨が来てしまうかも?!


アンジェリックさん、投稿ありがとうございます、そして (;一_一)・・・なな、なんと!以前、何度か投稿いただいて、「なんかはじめましてではねえよなあ~?」とは感じてましたが・・・仮面舞踏会で仮面を脱ぎ捨てた正体が・・・そうでしたか<(_ _)>

さて、こちらもところで(笑)

>ロン氏の死後、イスラエル政府はゴルゴダの丘の下に埋まっているこのアーク(契約の箱)を取り出そうとしたらしいです。
ところが作業に関わった政府関係者6名が、現場で突然揃って謎の死を遂げた・・。
(この話を主人にした所、主人は知っていました。有名なエピソードなのかな?)

→あら~!私は初耳です。ワイアット氏の発掘調査に協力した現地の少年が契約の箱のありかを見つけた後、ワイアット氏の元に戻り、青ざめて「二度と行きたくない」と言ったというエピソードは聞いてますが。やはりこの世のもの?とは思えないものでも見たのでしょうか?

サムエル記上下を読むと、その扱い方を間違えると命取りであることがわかりますよね。特にサムエル下 6;6 のウザの話。これでまた一つ、聖書がフィクションではないと言う証明になりましたね。
何でもリーバイとかコーヘンとかの姓がレビ族の末裔らしく?今現在、エルサレムにおいて祭司としての訓練をラビから受けているとか?
もう完全に右派連中の頭の中は第三神殿の事で一杯なんでしょうね --;

私もエルサレムは一度でいいから行ってみたいですね。
いやいや、仰るようにその前に「主よ、来たりませ。マラナタ」を願います。

ザアカイさん

嫌われるの覚悟で書かせてください(笑)。
宗派、教派、教団というレベルの話とは全く関係なく、純粋に聖書の記述を基に何点か、問いかけという形で提示させてください。

1.もし本当に預言者エレミヤがバビロニヤ捕囚直前に契約の箱をどこかに隠し、その後ずっとどこにあるか誰にも知られてなかったとすると、70年後に捕囚から帰ってきた民が再建した神の宮の至聖所には、当時の律法による礼拝に絶対不可欠であった契約の箱が存在していなかったことになります。
 もし第二神殿に契約の箱がなかったとしたら、帰還後の時期に神に仕えたネヘミヤやエズラ、ハガイ、マラキなどが、律法に従って礼拝を捧げるように命じている言葉は決定的な点において矛盾していることにならないでしょうか。律法に従って行っていた一年に一回の贖罪のために、大祭司は実際どこへ生け贄の血を捧げていたのでしょうか。
 またイエス・キリストが地上において神の宮で礼拝に参加していたとき、契約の箱がないことを知っていて、それでもなおかつ礼拝を捧げていたのでしょうか。

2.黙示録11:19において、大患難の終わり、イエス・キリストが王として千年王国を建てるために地上に顕現する直前、使徒ヨハネは契約の箱が「天にある」のを見ました。この時期にはすでに地上において第三神殿は建設されているはずです。ヨハネが見た神の宮や契約の箱は単な幻視だったのでしょうか。

3.第一義的にはイエス・キリストによる恵みの時を、そして地上的にはキリストの千年王国の時期を預言しているエレミヤの言葉はどう解釈するべきでしょうか。
エレミヤ3:16 主は言われる、あなたがたが地に増して多くなるとき、その日には、人々はかさねて「主の契約の箱」と言わず、これを思い出さず、これを覚えず、これを尋ねず、これを作らない。

 他にも様々な疑問点が出てきますが、何よりも重要なことは、信仰者はすでに復活の霊による神の宮であり(1コリント6:19)、キリストの尊き血の注ぎを受け罪を赦され(Ⅰペテロ1:2)、その心の中には石の板ではなく、聖霊によって書かれた神の御言葉があり(エレミヤ31:33,34; 2コリント3:3)、エルサレムでもサマリヤでもなく、どこにいても霊と真理をもって父なる神に礼拝を捧げることができること(ヨハネ4:21-24)ではないでしょうか。

ミヤサカさん、どもです。

確かに100%証明されたわけではないのは私も認めております。
ゆえに、今後の展開を見ていきたいと思っております。答えは、真偽は近々出る事でしょう。

おっしゃることはわかります。ただ私のスタンスとしては、可能性がゼロでない限り、少なくとも50/50である限り、その可能性を見て行きたい、また、ユダヤ人が最後には救われると聖書にはありますので、そのためには、地上のアークは不可欠なのではないかな?終末の大艱難期はユダヤ人の救いのためであるとする説も100%否定できないと考えますゆえ。

ミヤサカさんほど聖書知識に長けているわけでもないので、わからないことはわからないままに結論を出さずにしておく、時と共にわかる時が来るかもしれないというのもわがポリシーです。

ミヤサカさんの指摘されたこと、わかります。
しかし、聖書はすべてを語っているわけではない、隠されている真理があるというのも、わがポリシーでしてね。

これらのことを踏まえ、以下苦しい答弁(笑)

1に関して。

そもそもヨベルの年でさえ、まともに今まで実施されずにあやふやであることもありますし、ましてやネヘミヤ達による第二神殿において回復が図られようとされたが、この時期はご存知の通り、ダニエルの70週が始まる特別の期間でもあったわけです。まことのメシヤが現れるまでの過渡期であったとも考えられます。アークがなかった事実も、時代背景その他から、何か神の計画があったのかもしれない。そしてメシヤの初臨があり、キリスト自身が本物の神の宮であったので、アークの必要はなかったと考えられなくもない?消えてしまったものは仕方がないと言う論理です。なぜ至聖所にアークがなくても神殿を建てよと言われたのか?私としては直接神に聞かねばわかりませんね。そういう意味では特別な期間だった可能性もゼロではない?

キリストが磔刑に架かった真下にアークがあったというのが真実だとします。これによって羊を屠って動物の血を捧げる必要がなくなったわけで、旧約の時代が終わりを告げ、ペンテコステから信仰義認による新約の時代が始まる幕開けとなった?という可能性も非聖書的だとは言い切れないかなと。

そして今は教会の恵みの時代、アークなど必要ない。しかしながらそれももうすぐ終わろうとしている昨今。終末の7年にソロモンの第三神殿が完成し、反キリストが立ち、前半の3年半はユダヤ人に動物の犠牲を捧げることを許すけれども、後半の大艱難時代には廃止すると聖書にはあります。ダニエルの終末時計は止まったままであった。私は今の時代まで神がアークを隠されてきた可能性を否定はしません・・・

ここで反対解釈をするならば、聖書のデュアリティーを考えるならば、反キリストがキリストの猿真似をする可能性を排除できないわけですよ。
ユダヤ人のメシヤのふりをする猿真似は似て非なるものとして、それを辞めさせ自分自身を拝ませる。ここが御自身の血でもって天に召されるまで父に従順だったイエス様ご自身と違うところですが、神の深遠なる摂理を感じなくもないわけです。そのためにアークが今まで隠されていた?今の時代における必要性を感じなくもないわけで。
これまた神ご自身に聞かねばわからないディープな真理であることでしょうが、人間による解釈などこのレベルであるのを前提に書きます。


第二神殿に既に幸い無事にアークがあったとするならば、こんな大事なことに関して聖書に記述がなかったのはなぜか?あえて書かなかったのか?それとも本当になかったのか?

少なくともバビロンによる侵攻においてアークがそのまま無事であったのか?疑問が残ります。アークがどうなったのかの記述も聖書には記されてない。
探れば探るほどわからないことだらけ。
ゆえにミステリーなのではないのかと。

2番については直接イエス様にでも聞かねばわかりませんねえ~?結論を急がず、わからない事はわからないとしか私ごときには言えませんね。
あくまで私の想像に過ぎませんが、天においては律法は必要ないだろうから、十戒の板の入った地上の契約の箱と天における契約の箱は最終的に差し替えられる可能性もゼロではない?とも --;?

3に関してはキリストが贖いの子羊として、すべてを成し遂げてくださったのだから、教会時代においては別に、アークは必要なないのではないでしょうかね?

キリストにより、信仰により贖われた我々、異邦人にとって、アークは過去の遺物、歴史的大発見であるとしても、ユダヤ人にとって、ましてやキリストこそメシヤであったと悔い改める手段として、その救いには必要不可欠なものなのかもしれない。

時間と資金とコネクションでもあれば、今すぐにでもエルサレムへ飛んで取材でも出来れば、もう少しまともな答弁が出来るかもしれませんが、これが私の限界のようです。

確かにミヤサカさんの聖書知識、考察力を持った方は私の知る限りそうそういません。
しかしながら、くどいようですが、聖書はすべてを具体的に語っているわけではなく、ゆえに解釈という単語が発生する。聖書のみから100%正確な答えを導き出せるとも私には思えないのです。
そういった意味では聖書考古学を否定するものではありませんし、かと言ってあくまでも聖書を絶対基準にすべきであるとは考えます。神学にしてもそうですが、聖書考古学も補完的な意味合いでは有意義ではないのでしょうか?

カルビニズムとアムミニズムではありませんが、結果だけ見れば同じでもその過程、その救いの方法は違ってしかるべきとも私は思っております。

いずれにせよ、当てにならない私のカンですが、そう遠くないうちに第三神殿が建立されれば、アークの存在も確かなことになろうかと。

私はその時まで最終的な結論は待ってみようと思ってます。
もし、自分が間違っていた時は、謙虚に自分の間違いを認め、悔い改めリスタートするだけですので。今までもそうでしたから。

どなたかが言ってました、「聖書は謎に満ちており、完全に理解することは不可能である。だからこそ研究する価値が大いにあるのだ」と。

私レベルではまだまだ、荒削りで駆け出しの鼻っ垂れです。
なお、これ以上突っ込まれても私はどこにでもいる自称?クリスチャンの一般市民なので答えようがないかもしれません、悪しからず。

PS:>何よりも重要なことは、信仰者はすでに復活の霊による神の宮であり(1コリント6:19)、キリストの尊き血の注ぎを受け罪を赦され(Ⅰペテロ1:2)、その心の中には石の板ではなく、聖霊によって書かれた神の御言葉があり(エレミヤ31:33,34; 2コリント3:3)、エルサレムでもサマリヤでもなく、どこにいても霊と真理をもって父なる神に礼拝を捧げることができること(ヨハネ4:21-24)ではないでしょうか。

→異論ありません。この記事により誤解を招いたかもしれませんが、これが我々の第一義とする信仰だと私も思います。

なにせ、サタニストによる陰謀論、聖書終末論から信仰に導かれた変わり者ゆえ、どうしても無視できない命題でしてね・・・

ザアカイさん
返答ありがとうございます。
私が住んいる国は、「目に見えるものに頼る宗教心のキリスト教的見本市」と表現できる国です。私のスタンスや視点は、そのような環境の中で信仰を守るために形成されているという自覚はあります。
このような観点もあるのか、と受け止めてもらえれば幸いです。

因みに誤解されているかもしれませんので書きますが、私は考古学、文学、芸術、音楽、科学など、よい面悪い面全部ふくめて私にインスピレーションをあたえてくれる神の賜物だと思っています。
ただブログにおいては、目的を限定しているので「きつい服」に思えるかもしれませんが。

こんばんは。
お二人の会話を興味深く読ませて頂きました。
とても勉強になりました。ありがとうございます。

ミヤサカさんの質問された1番について、ふっと私なりに思ったことがあります。
外野の一人ごとと思って、聞き流して下さい。

例えばですが、イスラエルの十支族が歴史の舞台から消えた後、彼らがどこへ行ったかは置いておいたとしても、それぞれの民が、旅の移動中、もしくは落ち着いた先でも、自戒の意を込めてヤーウェなる神様に、礼拝を捧げていたことは確かではないでしょうか。その際に契約の箱のレプリカを作っていたとしても、おかしくはないと思います。
(日本の風習で行なわれている御神輿なども、その型の例の一つかも知れませんね。)

よって現在、日本やエチオピア、また他の幾つかの国々でも、「契約の箱はあそこにある」「いや、ここだ」と言われている物は、かつてイスラエルの失われた十支族と呼ばれた者たちが、礼拝を捧げるために作った物だという考え方も出来るような気がするのです。

もしそうであるなら第二神殿においても、本物の契約の箱がなかったにせよ、
律法に従ってレプリカの上に生け贄の血を捧げていたという事も、有り得るかな?
・・・などと、勝手に想像してしまいました。
(あくまでも、個人的な想像です。)

アンジェリックさん
はじめまして。

>>自戒の意を込めてヤーウェなる神様に、礼拝を捧げていたことは確かではないでしょうか。

 むしろもし自分らの背教が原因で離散してしまったことを自覚し、悔い改め、「自戒の意を込めてヤーウェなる神様に礼拝を捧げていた」のなら、律法に背いて契約の箱のレプリカなど作ることなどあり得ないことだと思います。律法に書かれている神の箱に関する数々の戒めや、アロンの二人の子らが異火をもって主の前に行ったので一瞬にして焼き殺されたエピソード、主の箱を支えようとして箱に触れたので即座に裁かれたエピソードなどを知っているイスラエル人だったら誰も、契約の箱のレプリカの造るという重大なリスクをあえて負うことはなかったのではないでしょうか。
 何しろ契約の箱の管理を任命されていたケハテ族ですら、アロンとその子らがまず契約の箱を覆いで覆ってからでなければ触れることができず、もし直接見たり触れたりした場合には、死の宣告があったほどですから(民数4:15-20)。
 
 今現在、これだけ第三神殿建設とレビ人による祭儀の復興を熱望し、そのために万全に準備をしているほどのイスラエル人が、契約の箱に関してはレプリカを作っていないことが何よりの証拠ではないでしょうか。

 むしろこのような意識を持たない「クリスチャン」の間で、何が起きているか、以下のビデオを見れば理解できると思います。

https://www.youtube.com/watch?v=8kGus7kBPTk
https://www.youtube.com/watch?v=HUahIh0P0Pw

 なぜか判りませんが、ブラジルでは様々な「教会」がそれぞれレプリカを造り、その前で跪き、礼拝しているようです。サンパウロのUniversal Church of the Kingdom of God(Universal_Church_of_the_Kingdom_of_God)などは、その傾向の最たるもので、ソロモンの神殿のレプリカまで建て、契約の箱のレプリカを「特別な神の臨在の場」として使っています。

http://megabrasil.jp/20140804_12498/

 「目に見えるものに頼る霊性」に対する私の警鐘的観点が、決して極端な聖書主義から出てくる大袈裟な意見でないことを理解していただけると思います。

ミヤサカさん、アンジェリックさん、おはようございます。

貴重な動画、記事の紹介ありがとうございました。

すでに麦と毒麦の選別は始まっているようですね。
聖霊の第三の波系、偽予言(あえて予を使います)ばかりフォーカスしてましたが、こんなバカなことまでしていたとは・・・絶句。

以下の聖書箇所が脳裏をよぎりました。時代はここまで進んでいるのだなと。

>不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、 そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。

そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。

第二テサロニケ 2:9~15

しかしながら、私が何故このエントリーをアップしたか?
カトリック的偶像礼拝、ユダヤ教的律法主義への回帰、いわゆるパウロの言うところの異なった福音へと惑わす目的ではないということはご理解いただけると思います。

キリストの十字架による罪の贖いの業をさらに深く理解していただけたら、というのがその意図するところです。

ワイアット氏の思うところもそこにあったと私は信じるからです。
そういう意味ではワイアット氏の働きを決して否定しませんし、高く評価いたしますね。
確かにミヤサカさんの言うような諸刃の剣的要素がゼロだとは言いませんが、そのことが福音伝道になるか?躓きになるか?人それぞれかもしれません。

そもそもオーソドクスな福音を語ったところで、信じる人は信じるし、信じない人は頑なに信じませんから。この現実に対して異論はありませんよね?

これが我々人間の為すことの限界でしょう。
だから逆に私としては、今世の中で何が起きているのか?左サイドのリンクにも貼ってありますが、TSeekerさんじゃありませんが、知らないでいることが逆に危険なこともあると私は考えますのでね。

とり方が人それぞれ違ってしまうのは致し方のないところでしょう。
気をつけたいのは極端に走らないことであると自戒はしているつもりです。

最後になりますがもう一度、受け売りですが我がブログのポリシー。

「聖書はすべてを語っているわけではない。隠されている真理が間違いなくある。しかし、人間の救いのためには聖書一冊で充分である」

天における主イエスとガブリエルの会話(単なるエピソードですが真理を突いていてバカにできない)
ガブリエル;「イエス様、「救い」という重く重要なことを人間などに任せておいていいのでしょうか?」
主イエス:「ガブリエルよ、それしか方法がないのだよ・・・」

これを基本にしているつもり?ではあります。やっていることと違うかな?(笑)

ミヤサカさん、ザアカイさん

おはようございます。契約の箱はミステリーの中のミステリー。
一度語り出すと、やはり会話は盛り上がりますね。

私はミヤサカさんが仰ること、よく理解できているつもりでおりますし、
ここで反論も議論もするつもりはありません。
ただ、あくまでも私個人の想像の範囲で書いたことですので、個人の信仰とは
また別問題であることをご理解下さい。

>契約の箱のレプリカなど作ることなどあり得ないことだと思います。

ただ、これに関しても断言し切れるものなのか・・正直、分からないでいます。
偶像礼拝というのは異教の神、もしくは聖書が語る神以外のものを礼拝することであって、まことの神様を礼拝することに立ち返ったならば、たとえ本物の契約の箱ではないにせよ、主を礼拝するためにレプリカを作ったとしても、おかしくはないのではないか・・と、やはり思えてしまいます。
そうでなければ、離散した支族たちが、まことの神様に礼拝を捧げる時に
どうしていたのか、という疑問が残るからです。
(御神輿などの風習が残っていることも、その疑問に繋がっているのかも知れません。)

先日もフィリピンの巡礼者たちがエルサレムに「これが本物だ」と言って
契約の箱を戻しに来ましたが、クリスチャン達がレプリカを作ったり、神殿のレプリカまで建てて、そこを特別な場所として礼拝するのでは、かなり意味合いが
違うのではないか・・と思った次第です。
ただ、繰り返しますが、あくまでもこれは想像の範囲で言っていることで
私は何一つ断言するつもりはありません。

ザアカイさんの仰る通り、神様のご計画も御心もすべては明らかにはなっていません。聖化の途上にある未完成な私たちにすべてを明らかにされても、きっと
今の私たちでは主の御心を踏みにじってしまうからでしょう。

それでも真理を探求し、神様の御心を求めて従順に生きていけるようにと
その勇気と素直さを与えられるようにと、祈り続けたいと思います。

アンジェリックさん、新たなる見解、情報ありがとうございます。

神輿ね・・・これまた私は謎の中の謎として、結論保留、断言すべからずとしております --;
宇野正美氏の説もわかりますし、説得力もそれなりにある。かと言って証明するには必要充分ではない?

>聖化の途上にある未完成な私たちにすべてを明らかにされても、きっと今の私たちでは主の御心を踏みにじってしまうからでしょう。

→これは説得力ありますね。
ただでさえ、この世はサタンの楽園と化している今、あまりにもリスクが高いことでしょう・・・私レベルでさえそのくらい想像がつくのだから、全知全能の神であるなら尚更でしょうね。

さて、昼食にしますか。今日は誰もいないので、夕べのおかずの残りとキムチライスで(爆;)

アンジェリックさん

>>離散した支族たちが、まことの神様に礼拝を捧げる時に
どうしていたのか、という疑問が残るからです。

 神殿祭儀の可能性をバビロニア捕囚によって失ったレビ族祭司達は、聖書の研究を目的に捕囚の地で集うようになり、それがシナゴーグという礼拝形式の発端となりました。祭司エズラは、詩篇などの編集等含め、その成立に大きく貢献しました。
 そしてこのみ言葉を中心とした霊性は、初代キリスト教会の礼拝の基礎となりました。
 また当時のローマ帝国領地に散っていたユダヤ人らが、キリストの福音を受け入れた時、もともとエルサレム神殿祭儀から離れてシナゴーグ礼拝によって生活していたがゆえ、よりシンプルでラディカルな福音理解を得ることになりました。その例として、ステパノなどがいます。
 このような推移を考慮すると、「霊と真理によって礼拝する」者を求める父なる神は、捕囚や離散、神殿破壊など出来事を通して、御自身の計画を遂行されたと言えると思います。

 以上の推移と比較すると、ブラジルで起こっていることや、日本に伝わってきたとされる所謂ヤーウェ崇拝の断片的要素は、むしろ逆のベクトルをもっていると思えますが。

 そのほか書きたい要素はたくさんあるのですが、自分のところでいつか書きます。
 ザアカイさん、感謝です。

>ミヤサカさん
ミヤサカさんの書いて下さることは、知らないことばかり。
無知な私は「へ〜そうなんだ!」と、良い学びをさせて頂き感謝です。
それにしても本当に博識家なのですね。
お手数ですが、ミヤサカさんのブログのアドレスを教えて下さい。
続きを楽しみにしております。

>ザアカイさん
大和人の失われた十支族末裔説も、これまたミステリーの中のミステリーですね。
この前、主人と伊勢に行き、至るところでやはり聖書が示す色々な雛形を確認して、とても不思議な気持ちになりました。時がすべてを明らかにしてくれることでしょう。

大切なことは、とにかくあらゆる可能性に目を向けながらも、余白を残しておくことですね。

アンジェリックさん、実は左のサイドバーにミヤサカさんのブログのリンク、貼ってあるんですよ^^;
http://eastwindow18.hatenadiary.com/

実を言うとミヤサカさんとの出会いは、ユダヤ教に傾倒しすぎて律法主義に猪突猛進し、私に言わせれば自爆ですね。
ガラテヤ書とローマ書を理解できずに「異なった福音」をブログ上でまくし立てる人物がいましてね。かつて私もブログ上で何度かやり取りしたのですが、その豹変ぶりに驚き、袖を分かつことになった人物を通して知り合った経緯があるのです。

2000年近くも神によって守られてきた、フス、ウィクリフなどの殉教、ルターの勇気ある行動などそれこそ命がけ。それをどこ吹く風と、「ギリシャはローマのルーツだからギリシャ語自体サタン的だ。ヘブル語版新約聖書をメサニック=ジューの集団を通して最近知ったのでこれだけが本物だ!メシヤの名前はヤシュア=ハ=マシヤしか認めない、イエス、ジーザスの名によって祈ることはサタンに通じる。この終末の時代に神は本物の新約聖書を出現させた!」などと発狂したかのごとくでしたよ、そりゃもう・・・新約の教会時代をすべて否定するのか?オワタ・・・狂ってると私は思いましたね。

今も盛んに洗脳されたがごとくブログ書いているのでしょうか?私は縁切りしたので一切知りませんがね。

ミヤサカさんだったら、現況を知っているかもしれません。

>大切なことは、とにかくあらゆる可能性に目を向けながらも、余白を残しておくことですね。

→御意にm(__)m

PS:ミヤサカさんは私と違い、トンでも記事は書きませんよ(笑)

まぁ〜それはそれは・・極端な方もいるものですね。
お話を聞いた範囲だけでも、イエス様をはじっこに押しのけて、
自分ワールドで燃え盛っているのが伝わって来ます。

ザアカイさんがよくおっしゃるように、人間は完璧ではないのですから、
たとえ「これが真理に間違いない!」と思えることでも、完璧ではない自分の認識も、これまた完全ではないという謙虚さを忘れずにいないと、
大変な過ちを犯すことになりますよね。

どんなに正論を語っても、結局は真理はその方の生き様に現れるものだと思います。キリストの命の流れるところでは、やはり命を生み出し、喜びが溢れ、生ける水の川が流れているものです。
どんなにサタンが荒れ狂っても、それを止めたり、奪うことは出来ませんからね。

こうしたネット上だけでのやり取りだと、そのような日々の生き様までは見えませんから難しいところですが、それでも人格や人柄は、何気ない言葉に現れるものなのでしょう。私もキリストの香りを放つ言葉を発せられるように、
心に留めて書き込みをして行きたいと思います。
今後ともどうぞ、よろしくお願いします。

ザアカイさん

彼とは、私のブログのコメント欄で彼が絶交宣告をして以来、交わりの機会をもっていません。彼も長く外国、しかも南米のカトリック国にいたから、その動機を理解できないわけではありませんが、今は最も重要な土台からずれてしまっています。彼自身も言っていましたが、もはやキリスト教という境界を超えてしまっています。残念ですが。

 彼のケースだけではなく、過去自分のも含めて様々な信仰上・教義上の危険をみてきて、今のスタンスにいます。今は、自分がいる教団の教えや習慣の間違いも、聖書に基づいて以前より明確に理解していると思っています。

それは以前のような近視的・乱視的な生き方でなく、より鳥瞰的視点で、私のために命を捨ててくださったキリストに生きたい、という思いの故です。
今、あるイタリア人ジャーナリストが書いた本を読んでいます。真面目な本ですが、強烈な内容です。私なりに検証してからブログで紹介しようと思います。
 聖書を愛する人間が生きるのがどんどん難しくなっていますね。

そうでしたか。私もかなりカトリックアレルギーが強い人だなとは思っていたのでそのあたりは理解に努めていたのですがね・・・そういう点ではミヤサカさんもカトリックの総本山の国で生活しているわけですからね。
 
実は私も信仰持って間もない頃、師匠でもあった方で、聖霊の第三の波系、カトリックを中心とするエキュメニズムの罠を徹底的に教えてもらった方がいるのですが、「聖書の暗号」に傾倒した頃から豹変してしまいましてね。
これがまた自分の間違いを絶対に認めないプライドの塊みたいな方でして、自分は悪くない、聖書の暗号を解釈した人物が悪いと言う思考回路でして、それを信じ込んで紹介した自分にはまったく非はないと・・・

聖書の暗号は外れたのだからその結果を素直に認めりゃいいのに、一言謝罪して自分の非を認めりゃそれで済むのに、それでも固執する病的な頑なさ。

それどころか、これは聞いた話ですが、弟子訓練と称し「1日預言を10しなさい」とか言い出したらしく。
極めつけは元々、相手を裁くのが好きな人ではありましたが、「神の働き人(自分のことでしょうね?)を攻撃するものは神の怒りを招き裁かれる」などと言い出して、カルトの教祖もどきになってしまいましてね・・・

幸いどこにでもいる凡人ながら、「相手の力量、霊的状態及び性質」を見極める賜物だけは若干あるようで、悪影響を受けないうちにこちらから中途退学した経緯があります。

悲しいことですが、かつてはいい働きをしていた人が突如としてあることをきっかけに豹変する・・・決して他人事じゃありませんからね。

今の自分には間違いに気づいたときは、謙虚にかつ素直になり自分の非を認め、悔い改めやり直す。これを大事にしたいですね。凡人に出来ることの基本でしょうから。

いろいろとありがとうございました、御礼申し上げます。

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