しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
使徒 9:15~16
弟子たちを力づけ、信仰を持ちつづけるようにと奨励し、「わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」と語った。
同 14:22
その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。
同 23:11
昨日から無意識のうちに14章22節が脳裏をかすめ、芋づる式に計3箇所が出てまいりました。
はじめに断っておきますが、私のような木っ端、道端のゴミごときに、パウロのような働きが出来るわけもなく、伝道者でもなんでもなく石投げりゃ当たる、どこにでもいる、とりあえずキリスト者の末席に座布団一枚引いて座らせてもらっている一般市民であることを前提に書いていることをご了承ください。
人間はアダムのエデンの園ゆかりの原罪ゆえに、神の恩寵から離れてしまい、争い、災い、病気、そして肉的死、それをいい事に、そこをすかさずピンポイント攻撃してくるサタンの姦計及び謀略ゆえに悲しみの星・テラ=地球上で、人生を全うせねばならない存在となっております。
全能なる神は、人間に自由意志を与える限り、こうなる事はわかっておられたことでしょう。ただし、脅迫、強制を持ってしては、真実なる愛は機能しない。完全なる愛はお互いの自由の上に成り立たねばならない。これは神といえども介入できない領域である・・・何ともある意味、回りくどい複雑怪奇な構図であろうか。
そのような中で最近、半世紀近くというか・・・越えたね(歳サバよんじゃいけませんね(^^ゞ)、生きてきてつくづく考える事があるのです。
我々一般人にとっては、もっとも聖職者といえど同じ土俵であることもあるでしょうが、日常生活というのは訓練の場、主の元に帰るきっかけが与えられる、真理を知る機会が与えられる場なのではないのかと。ある人たちにとっては当たり前のこのことに、私を含め多くの人はなかなか気づかないのではないのかな?と思うのです。
生きてきた時代背景もあるのでしょうが、天真爛漫で“ある程度”人生が順風満帆だったのは若い頃だけでしたね・・・「独身貴族」という言葉、私の世代であれば覚えておられることでしょう。また自慢になりませんし、今時の学生に言ったらビール瓶で脳天かち割られるでしょうが・・・大学はレジャー=ランドに近かった --;
またあの頃は、トヨタ・ソアラを頂点とする、2枚ドアのスポーツクーペの新車を乗り回し(私はそこまでいかず、ホンダのプレリュードでしたが)、冬場は終末・・・間違えた --;、週末の連休ともなれば、仲のいい友達や会社の同僚と白馬、上越、蔵王、安比とスキー三昧。自分のことだけ考えていればよかった。もちろん、食いッぱぐれの心配も、将来への不安などない時代。
遊ぶカネがなけりゃ、クレジットカードのキャッシング、銀行カードローンで借りてまで遊んでました。そして十分、稼いで返せた時代。それが明日への活力になっていたのも事実。
それに加え、年老いた?今と違いストレスにも強く、跳ね返し、それに耐えられるだけの耐性がつくのを訓練として捉える事が出来たのですね。
今でも忘れません。
ある日、午後3時過ぎに、一時外回りから仮払金を出納に戻すのに帰店し、「ご苦労様です」と店内に入るといきなり支店長に --;
「おい、○○・・・この!バカヤロウ!!てめえ~、何やってんだよ!たった今、人事研修課から電話があったよ。新人研修レポート提出してねえだろ!あん?いつまでも甘ったれてふざけて、社会を舐めてんじゃねえよ!明日中に提出しろよ、このボケ!
そんな風だから仕事も出来ねえ、実績も上がらねえんだよ!」
と役席の方を含め、女子行員とみんな10名以上いる中で、怒鳴られた事が。
ま、私がやることやってなかったわけで、非があったのでただただ「すみませんでした」と平謝り(涙;)
それから再び外へと向かいましたが、「ちくしょう、あの支店長、何もみんなの前で赤っ恥かかせなくても良かったじゃねえかよ!」と怒りがこみ上げてきて・・・いつもトイレ休憩に使っている公園に行って、お客様サービス用の皿を2~3枚、コンクリート壁にぶん投げたりしたものでした(^^ゞ・・・
信じられるのは自分だけ。すべてが自己責任、己の力でこの世を泳ぎきってみせる~!などと突っ張っていたものでした。
ところが人間、変われば変わるものです。弱くなった・・・というよりも、弱さを嫌というほど知らしめられたと言うべきか。
己の限界、高い壁にぶち当たり、自分の無力さ、世界権力の裏構造を知り、この世の君(サタンを親分とする悪魔のヒエラルキーである世界のパワーエリートの富と権力)にはまるで歯が立たない・・・なんてちっぽけな存在なのか。
そんな時、見出した希望の光が全能なる神の御子、イエス=キリストだったのですね。絶対悪のデーモン連中を破砕し、我々を救い出してくださる唯一の希望であると。また回心し、信じた頃の心の中を優しく吹き抜けていく爽やかな風、黙って空を見上げると理由もなく涙が頬を伝う・・・これが「神にある平安なのだな」と感じたものです。
某牧師先生のメッセージを思い出しますね・・・
「救われたなら思う存分、遠慮なく神の恵みを受け取り、味わい喜んでください。その先には、必ずしも平坦な道が備えられているとは限りませんから」と。
はじめ、この意味がわかりませんでした・・・ある意味、繁栄の神学マンセー!状態に脳が侵されていたのですね --;
ところが今はどうでしょう?
まさしく使徒行伝にある、主がパウロに仰せになったこれらの言葉の意味・・・今なら嫌というほどわかるつもり?です。
>わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう
>わたしたちが神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない
>しっかりせよ
私はパウロじゃないのに(ToT)/、重い、この世の歩みのなんと重いことか。肩の荷が歳をとるごとに重くなる・・・
私と限らず、皆さん同じ思いの方は多いはずですよね?なぜこんなに振り払っても振り払っても火の粉が飛んでくるのだと。
まるでこれらの聖句は、自分に向けて言われているかのようです。
苦難の本番はこれからだと言うのに、既に青色吐息でヨレヨレの半病人で、地べた這いずり回っている状態(ToT)・・・どうしたものか・・・もう「命預けます」でいくしかないですね。
でもその時はその時で、苦しむのは嫌だから、「ひと思いにピンコロか即死で」などと思わないわけでもありませんが。なんと自分は贅沢でわがままな人間なのだとつくづく思います --;
しかしながらここまで生かされてきたのだから、この与えられたこの世での命・・・この物質世界でしか出来ない事に・・・有効に使いたいものです。
難い話は抜きにして。
そう、たとえば・・・矢吹ジョー、ヤマトの真田技師長、斉藤隊長、はたまたベルバラのオスカルのごとく。たぶん無理でしょうけど、うん絶対無理だと思いますけど・・・
たかがアニメとバカにするなかれ。
辛口のハード・ボイルドなのです、大人になり違った視点で見直して見ると、子供の頃にはわからなかった要素がてんこ盛りですから。
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