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2013年7月 9日 (火)

終末預言の直近考察

2013/7/10~UP DATE

訂正~

ええ~、昨日書いたイザヤ28:9~10の箇所・・・私のフライングの可能性アリ。
この箇所の解釈に関し、メールを含めお二人からご指摘を受けました。
前後関係をよく読まずに書いてしまった私も軽率でしたので、要吟味と判断した次第、削除いたします<(_ _)>

聖書のその箇所だけではなく、他の箇所と総合して解釈せよは間違いではないにせよ、一つの箇所だけ取り出して前後関係を無視するのも良くありません、基本を忘れてました。

これは別扱いとして、以下はそれなりに的を外してないと判断しますのでそのまま掲載します、訂正とお詫びまで。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は簡単に行こうと思います。後はご自身で聖書を調べ、点と線をつなげてみてください。

イザヤ 17:1~3

イザヤ 19:1~6

ダニエル 11:40~43

(ちなみに44~45が成就するにはまだ時間がかかると思われる)

今現在、シリア、エジプト(モルシ派(ムスリム同胞団)の反革命運動が始り不安定化してきて、益々先が読めない状態になりつつあります)が、イザヤ書の預言どおりにことが進んでおります。

様々な識者が、様々な持論を展開しておりますが予断を許さぬ状態。2000年以上前の聖書預言、これがいわゆる「アラブの春」を預言していたように思え、上記箇所と見事にコラボするわけなのです。

いずれ近いうちに、イスラエルということはアメリカもでしょう。絡んでくる事間違いないでしょう。

そして、そのあとロシアが動いてくるように思われます。

エドワード=スノーデンの動向も要チェックですかね。

経済面を見るならば、いわゆる「新興国」から資金が引き上げられて、欧米日でバブル状態なわけで・・・こちらも危険な状態です。

株式市場より、債券市場(こちらは株式市場に比べ地味)にフォーカスか。

すべてにアメリカが絡んでます。だからアメリカを無視して終末を語るなど愚の骨頂だと言っているわけです。

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黙示録、聖書預言」カテゴリの記事

コメント

ザアカイ様
冒頭のイザヤの聖句に関して、一言だけ言わせてください。
どの方の著書か知りませんが、ちょっと解釈に無理があるかもしれません。
28:14にあるように、この言葉は「エルサレムにいるこの民を治めるあざける人々」、特に「濃い酒に酔っ払っている祭司や預言者」(7節)のあざけりを、主なる神が預言者イザヤの口を通し、皮肉を使いながら戒めているものです。
これらの人々は、主に対する畏れや愛もないまま、御言葉をまるで「教訓や戒めの際限のない繰り返し」として扱い、また「色々な所から寄せ集めた自分に都合の良い解釈」をして民に語っていたからです。

パウロがテモテに語っている、「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう」(Ⅱテモテ4:3,4)は、ニュアンスは微妙に異なりますが、聖書に対する表面的な態度という点では、共通するものがあると思います。

オセヤ6:1-3なども、その直後にある主なる神の答えを無視して、都合のよい様に説教につかわれたりします。

「われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである」(イザヤ28:15)。
人間の欲にとってポジティブな部分だけ引用し、ネガティブなメッセージは語らない繁栄の福音の説教者たちのことを想い出しませんか。多くに人々が、彼らが差し出す「濃い酒」に「酔っ払って」しまっています。

いやあ~、ミヤサカさん、面目ないです。
反論の余地なしです。

実は私も1章から読み返してみて、フライングの可能性を自分なりに疑ってました。

今朝方、懇意にしている某兄弟からもメールがあり指摘を受けたばかりでして、とりあえず訂正せねばならんかな?と考えていた次第です。
これで踏ん切りがつきました、面倒かけました。

ということで、Aさん、訂正しておきました --;
ミヤサカさんの解釈も参考になろうかと。

こちらこそ気が利かなくてすみませんでした。
メールのほうがよかったかもしれませんね。

章や節の区別は便利ですが、通読は基本ですね。

いや、多くのコメントを読んでくれている読者のためにも、コメント欄で良かったと思いますよ。
私も含め、みなさん勉強になったと思います。

それとまたまた訂正 --;
>1章から読み返してみて

1節からの間違いでした<(_ _)>

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

台風が渦を巻いて
強風が吹くとき、
力強い御手が中心を取り巻いている。

神の真理に反逆する人たちの上に
神の怒りの力が留まっている。
迫り来る主の日が近いとき、
真理の神へ
立ち返る必要を
主は呻きをもって告げておられるかのよう。

どうか一人でも多くの人が
真理の神、イエス・キリストを
救い主として受け入れて
神の御怒りからのがれられますように。

見よ。主の暴風、――憤り。――
うずを巻く暴風が起こり、
悪者の頭上にうずを巻く。
主の怒りは、
御心の思うところを行なって、成し遂げるまで、
去ることはない。
終わりの日に、
あなたがたはそれを明らかに悟ろう。
(エレミヤ23・19-20)

enjeruさん、こんにちは

何となく、おぼろげながらですが、少しずつ黙示のベールが剥がれて来ている気がしなくもありません。

恐怖におののくより、本当の意味での贖いの時が近いと思って、まだまだ忍耐が必要とされるでしょうが、日々歩みたいものですね。

ザアカイさん、皆さん、こんにちは。

暑い日が続きますが、皆さんの健康が守られますように。

御霊は、日々罪を犯す者の心に働いて
主の元に引き戻してくださいますね。
御霊は、魂の呻きを天に届けて、とりなしの祈りをしてくださいます。
御霊は、必要な御言葉を与えて下さり、
霊の糧を与えて、満たしてくださいます。
どうしようもない呻きを御霊の祈りの乗せてイエスのもとへ。

ちりにも等しいものが、不遜にも大きなことを
語って主の御心を悲しませてしまいました。
日々、悔い改めの毎日です。

皆さまの上に主イエスの愛と憐れみと平安が満ち溢れますように。

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、
奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を
受けたのです。
私たちは御霊によって「アバ、父。」と呼びます。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、
私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
(ローマ8・15-16)

確かに暑いです・・・とは言え、当地は沿岸沿いなので33℃くらいだから、なんとか・・・県内でも内陸部は38℃とか上がっているようです --;

悔い改めの毎日は私も同じです^^;
そのための執り成し手、もう一人の助け主の存在だから感謝ですね。

 題:イエスの弟子への「権威落とし行為」。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスと弟子たちは、一緒の行動をしているが、その行動は、
イエスがイニシアティブをとり、弟子たちが従うという、ブッ
ダの様な行動パターンをイメージすると大間違いとなる。
 その様な状況とかけ離れた状態となっている。
 故に、旅に行った時に、気が合っていれば、楽しく、また、
嬉しいものですが、イエスたちの行動は、まったく、この逆。
 駆け引きと修羅の世界です。
 まず、弟子たちが、『イエスと対等の意識』にある事。
 キリスト教聖書には、「(弟子の)ペトロが、イエスを叱っ
た」という記述がある。その時、イエスは怒って、ペトロを「
サタン(悪魔)」と怒鳴りつけたという。
 この様な記述は、ここだけではない。
 例えば、「イエスは、静かな所には神が居る」と思うのか、
イエスは静かな方へ行く。
 すると、弟子たちのリーダー格の「シモン(ペトロ)」が、
イエスを呼びに行って、「みんなが探してますよ」とイエスに
言い、弟子たちが、イエスの後に、常について、尊敬するイエ
スの一挙手一投足の行為を見守り・学ぼうという姿は『まった
く見られない』。常に従うという状況では、まったくない。
 あたかも「イエスさん、こっちこっち、みんなが探してます
よ」という感じである。
 また、だから、イエスは、弟子たちに自分の気持ちを説明し
なければならない状況に追い込まれる。
 イエスは言う「私は宣教の目的のために出て来たんだから」
と、わざわざ、誰でも知っている、当り前の大目的を言わざる
を得ない状況になっている。宣教目的の人たちにとって『低レ
ベルの状況』となっている。
 そして、イエスは言う「だから、近くの他の町や村に行こう
」と。イエスには完全にイニシアティブは無い。
 「行くよ」ではない。
 この時、弟子のシモンは、本当は、「一つの場所」に留まり
たかった。
 聖書に、このシモンの批判の気持ちが、間接的に書かれてい
る。「シモンのイエスに対する批判が込められている」と聖書
研究者の言葉もある。
 また、キリスト教聖書には、「イエスは宣教した」「宣教し
た」と書かれているが、肝心のイエスの宣教の言葉は、まった
くと言っていいほど書かれてない。
 少なくとも、「書くに価しない」とか、「特別書く必要はな
い」という状態なのだろう。
 『肝心な宣教』などしていないのではないか?得意な疑似「
心療内科モドキ」の行為だけなのではないか。宣教思想・哲学
の宗教的宣教の面は見られない状態。悪霊追い出しだけではな
いのか?
 ここは、「後の一番弟子のシモン・ペトロの権威を、イエス
が否定している」ところだと書く聖書研究者もいる。 
. 
(追記)・・そして、次の話・・・
 イエスは、「心を病んだ方たち」を病人と見る事が出来なか
った。
 やはり、古代に生きる人だった。
 古代人は、自分の認識を越える事ごとを,「『悪霊』のなせる
災(わざわい)い」と見た。
 知識が認識レベルを越えると、すぐ、「その様に見るのは、
現代と違うので、やむを得ない所でもある」が。
 イエスも、この例外では無かった。
 イエスは、この「心を病んだ方たち」の治療行為をした。
 現代の精神的な医師の治療行為の様な事をしたのだろう。
 科学的にも、ある程度のステータスのある人が、行為を行な
っただけでも、「ある程度の精神的治療効果はある」と認めら
れている。イエスの行為は、それに相当する行為だったのだろ
う。その点、イエスは、宗教的な特別な行為をしていた訳では
ない。
 会えて、キリスト教が、宗教的なことだとするなら、未開地
の「アニミズム」と同じ類いである。
 未開地のシャーマンが、気を病んだ方に種々の事を行ない、
癒(いや)し、治(なお)す行為と同じだ。
 キリスト教は、その様な宗教とも言える。
 キリスト教は、この類いの宗教であるが、この「悪霊」に、
人格を持たせ、いじくり回す。シャーマン世界の宗教とまった
く同じ。
 キリスト教は言う、「イエスは、悪霊にものを言う事を赦(
ゆる)さなかった」とか。
 「悪霊は、イエスを知っていたから、静かにしていた」とか
・・と。
 そして、キリスト教は、悪霊を信徒の『脅し』に使い、悪霊
にイエスを「神の聖者」と呼ばせ、悪霊を畏(おそ)れる信徒
に、イエスへの帰依を強いたり、思わせたりする。
 キリスト教は悪霊の人格を設定し、信徒にその対応を迫(せ
ま)る宗教。信徒は、その面でも「心を刷(す)り減らす」。
 ○○すると、悪霊が××するから・云々(うんぬん)の宗教。
 この様な宗教で人類が救済される訳がない。また、皆様が幸
せになれる訳がない。
    (詳しくは、以下のブログに)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
URL: http://moppo28.blog.so-net.ne.jp

ザアカイさん
おつかれさまです。

テモテ第一の4章の1節
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

教会や、クリスチャンにつまずいても、イエス様につまずかなければ。。
でも、イエス様につまずいてしまうと厳しいですね。

マタイ11章4〜6
盲人は見え,足なえは歩き,らい病人はきよまり,耳しいは聞こえ,死人は生きか
えり,貧しい人々は福音を聞かされている。
わたしにつまずかない者は,さいわいである

こめちゃんへ
いつもよりさらに心が騒いでいますね。

あなたの記事を読むたびに、エゼキエル34章に書かれている踏みつけられた草を食べ、濁んだ水を飲まされていた羊を想い出します。

でも、もしあなたが望むなら、あなたの目の前には生ける水の川が滔々と流れ、広大な緑の牧場が広がっています(詩編23)。

「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(ヨハネ4:10)。

心の平安が与えられるといいですね。

サマちゃん、ミヤサカさん、いつもフォローありがとうございます。

特に今回はツッコミどころ満載なのですが、書くことはしません。
ネガコメとして削除する事もしません。

この困難な世において、希望が見出せますように。

こめちゃんさん
あなたが実際に教会に行かれて、
キリスト教や教会に失望されたのか。。
それとも、ただ宗教(特にキリスト教)に
嫌悪感があるのか判りません。

ザアカイさんがおっしゃるように
あなたの聖書への解釈は
誤解が沢山あります。

聖書をおもちですか?
それとも色々な聖書にたいする
推論をしているサイトの一部をよんで
そのような考えをだされたのでしょうか。

偏見や憎しみは、多くの場合。。無知や誤解からうまれます。

私は一信徒ではありますが、
可能な範囲で、あなたのもつ疑問に対して
お話ししたいと思います。

マルコの福音書12章26節
または出エジプト記にもある
<アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神(イスラエルの神)>
というのは、日本の多神教のような山の神、川の神という
意味ではありません。 
彼らの神であり、私たちの神は、ヤーヴェお一人です。

天使のような、霊の存在になるというのは、
神になる事ではありません。
(霊の存在になるというのは、仏教でいう仏になる、拝む対象になるというものとは違います。
仏教や他の観念(自分の今までの視点、知恵だけ)で聖書をよむと、誤解をされてしまいます。)

マルコ12章29節
イスラエルよ聞け、われらの神である主は、唯一の主である。

<唯一の主>とあります、多神教とは書いてありません。
イエスやユダヤ人は多神教を信じていたのではないです。
もちろんユダヤ人(イスラエルの民)のなかには異教に
流れた人もいます。 異教の神を信じる事を、霊的な意味で姦淫とも呼びます。 

聖書を、一部だけ取り出して、解釈をしてしまうと問題があります。

使徒達や弟子達が、主を救い主と信じていても、それでもイエス様が
つかまったときに離れていったりしたり、
復活をすぐに信じられなかったのは。。
それは、<聖霊>がまだ下ってなかったからです。

旧約までは、預言者を送り預言者に特別な神の霊(聖霊のようなもの)を
送られていました。 
十字架の罪の赦し、復活も大切ですが。。
<聖霊の働き>これをぬきにしては、クリスチャンの信仰を
理解する事は出来ません。

イエス様の最初の来臨、地にこられて十字架の血によって、すでに
<霊の救い>を完了されています。
罪からの救い、天国への道を備える事。。が最初の来臨の目的です。

このことは、ユダヤ人達や、使徒達でさえもすぐに理解をする事ができませんでした。
人間の視点で、ローマ人からの救いのために、イエス様がユダヤ人の王様になるという風に
勘違いをしたのです。(自分の都合にあった神や救い主を求めたという事です。
人がつくる神や宗教と、真理の違いはここです。)

一部の人が、キリスト教が後付けだと解釈するのは
霊、聖霊にかんして、理解してない、または霊の働きを信じていないからです。
(旧約聖書も、新約聖書も、神の霊感によってかかれています。
作者マルコではないのです。<筆記者>です。)

パウロは使徒達と違い、人の形を取ったイエス様とはあっていませんでしたが
聖霊によって、イエス様を知覚していました。
聖書全体(旧約聖書もふくめ)がイエス様の事を語っています。
1世紀当時の、人であるイエス様の3年半の伝道のときの言葉だけが重要なのではありません。
(もちろん、様々な言葉、たとえ話、山上の説教などはすばらしいものです。)

ヨハネ 20章26〜29
<トマスは答えてイエスに言った。『私の主。 私の神。』 イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』>

使徒達のように、接していなくても、聖書と律法に精通していたパウロが
<聖霊>をえて、イエス様を理解し愛していたと私は信じます。

コリント第一 12章3節
<ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、
「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」
と言うことはできません
霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」>

イエス様が天に昇られてから、助けてとして聖霊が送られた事
これを抜きには。。使徒達のその後の、死をも恐れぬ福音宣教は
理解は出来ないです。

最後に、この言葉を贈ります。

エゼキエル書 8章30〜32
それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。・・神である主の御告げ。 悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。

あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。
イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。
わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改めて、生きよ。

サマちゃん、GJ!

久々に本領発揮ですね(^^♪
ええ~、ただエゼキエル書の18:30~32ですよね、1が抜けちゃったようで^^;

こめちゃんの記事には、必ず「真を求めて 皆様と共に幸せになりたい」というメインモットーが掲げられていますが、彼の主張の内容と合わせて考えると、とても意味深いと思います。

 夫婦の関係で特に見られる現象ですが、最初の情熱が冷めると、今度はお互い相手の粗が見えてきて、相手を自分の思うように「修正」しようとしたり、それがうまくいかないと相手を否定したりして、自分の立場を正当化します。一種の自己防衛でもあると思います。

 心の中では真にオープンな関係に憧れ、幸せな関係を求めているにもかかわらず、色々な行き違いや誤解、失望が重なり、いつのまにか大きな壁ができてしまいます。どんな幸せそうな夫婦でも、必ずこのような傾向を持っているのではないでしょうか。むしろ本当に幸せな人間関係は、「相手を否定することによって自己の存在の正当化を図る」、その弱さを自覚した上で、共に歩み寄ろう、共に生きようととする過程にあるのではないか、と思います。

 誰かを否定したり、犠牲にしたりしなければ得られない「幸せ」や「正しさ」って、根本的にとても残酷ではないでしょうか。これは、クリスチャンの自負心にとっても、大いなる警告だと思います。罪なき御子は、罪びとを「義」とするために、自らの命を犠牲にしてくださったのだから。

ザアカイさん
フォローありがとうございます。
8章でなくて18章でした 1をけしてしまった。。(^-^;)

返答は求められてのないかもしれませんが、
どこか誤解をされてしまっているのではないか、
真理を捜して、迷っていらっしゃるのでは?と
おもい、おせっかいな事をしました。

私自身も、正式に信仰を持つまで(聖霊をいただくまで)
聖書を何度も(新約聖書)よんでいたものの
ここにきて、ザアカイさん、エンジェルさんやわたぴ〜さんなど
牧師さんや兄弟姉妹の詳しいブログをよむまでは
<聖霊>のことを理解してませんでした。

神の存在をしんじたり、聖書の教えが正しいだろうと思っていても
自力だけでは、理解が出来ない。
神との個人的な信頼関係が。。成長しない。
疑問や不安、不信だらけでした。
そのために、神との関係を正式にもつこと<教会に行き洗礼を受ける事>を躊躇してました。

キリストに倣うように成長する事は、<聖霊>の助けなしに
自力、努力でするには苦しいものですし、不可能に感じてしまいます。

自己流のしかたで、信仰を持とうとすると、どこかバランスを崩して
しまいます。
まず、基本<型>を少し固めてから、聖霊の助けによって
自分と神との関係を深めないと。どこか偏ってしまう、
片手落ちになる。。そう感じました。

聖霊は、個人コーチ、メンター、サポーター。。慰め人のようですね。
どこか、母親のような、強くかつ控えめな。。母性を感じさせます。

小石和泉牧師の説教でもありましたので
はっておきますね^^
聖霊と母性
http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2013msg/130512.html

ミヤサカさん

ブログ、非常に興味深く拝見させていただいてます。m(_ _)m

ミヤサカさんの言葉をきいていて
良きサマリア人のたとえと共に、エペソの言葉を思い出しました。
エペソ5章8〜14
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
・光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、
むしろ、それを明るみに出しなさい。
なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、
光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

私たちは、ときに霊的にねむっていたり、まどろんでいたり
自己正当化または、自己否定(他者否定)のわなに陥ってしまいます。

主に自分の傷をみせ、こころの闇、汚い部分もだして
(恥ずかしいとおもいつつ)癒していただく事が大切ですね。

光に出す事。。主との親子関係、夫婦の関係のように。。
近しい関係において、格好つける事は出来ませんので。。
自分の闇の部分も隠し通せず、光の前にさらけ出される事があります。

神はすでに私たちの罪と弱さ、至らなさを全て赦してくださっている、
義とされているので、恐れる必要はない。その事に感謝します。

サマリヤ人様
じつにいいネームですね。色々心に浮かんできます。

クリスチャンがこの世で唯一安全な場所は、キリストの傷の中だと思います。そこに留まるときだけ、神が望むように隣人と接することができるのではないかと。
本当にすごい戦いですけれど、主が戦って下さると信じて、前進するしかないですね。

しかしなんですね、ネットって諸刃の剣なのはわかってましたが、使い方によってはこうしてドイツから、イタリアからと、ネットワークが広がっていきますから、そうそうヨーロッパ組はあとポーランドにお一人^^;

これから先、きっと役に立つ時が来ると私は信じます。

サマリヤさんはドイツ在住ですか。

いい感じの展開ですね。
主の再臨を前に、この交わりを大事にしていきたいと心から願います。

ルターの翻訳したドイツ語聖書が、とても素晴らしい翻訳だと、ドイツ人の兄弟に聞いたことがあります。

イタリア語のDiodati訳も1600年代初頭のもので、今でも愛されています。

色々共有できたらいいですね。

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