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2013年4月15日 (月)

イエス=キリストは日本語表記なのだ

ええ~、なぜこのようなエントリーを書く気になったかといいますと、イエス=キリストとは、バビロン起源の異教の神の名前だという記事を見つけたからです。
2000年近くもサタンに騙されてきたのだと。

ここは冷静になって、とりあえずは調べねばならないと思わされました。
私としては、サタンと言えども神の許しの範囲内でしか活動できない、すべてを司っているのは全知全能の神である。聖書には誤訳、意訳があるのは認めるが、いくらなんでもここまではお許しにならないだろう、と考えたからです。

さらに続けて「ギリシャ語新約聖書は当てにならない、毒だらけだ」と言いますが、私はそうは思いません。確かに聖書はすべてを語ってはいません・・・しかし人間の救いのためにはこれ一冊で必要十分なわけです。キリストの福音は十分伝わります。これが何よりの証拠ではないですか。

そしたらヤフー知恵袋にありましたよ。
私はギリシャ語まったく知りませんのでネット上から引用させてもらいます。

ギリシャ語で イエス キリスト って何て読む?
my_mgf_0602さん

ギリシャ語で イエス キリストって何て読む?

ベストアンサーに選ばれた回答miestastaniさん

全二者はどちらもおかしいです。クライストなんてのは英語です。
ギリシャ文字 ? とローマ字 s を混同していけません。
アクセント記号がないと、ギリシャ語の単語表記としては間違いです。
 

アクセント付きギリシャ文字は、きちんとギリシャ語キーボードから入力するか、文字コード表などのユニコードメニューから直接貼り付けるかしなければ、正しいギリシャ語表記はできません。JIS入力の日本語変換では入力できません。

イエス・キリストのギリシャ語表記は、古典ギリシャ語・新約ギリシャ語表記では、

  Ἰησοῦς Χριστός

現代ギリシャ語表記では、定冠詞がついて

 ο Ιησούς Χριστός 

発音は、時代によって変わります。
古典期BC5世紀以前の古代ギリシャ語では、「イエーソウス・クリストス」、
キリストが生きていた紀元1世紀ごろの発音では、「イイスス・クリストス」、
現代ギリシャ語では、定冠詞も発音して、「オイースス・フリストス」、
エラスムスの提唱した古典ギリシャ語の慣用発音では、「イエースース・フリストス」。
 

どれもアクセントは語末音節「スス、スース、ソウス」「トス」の部分にあります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251853382

* 現代ギリシャ語ではしっかり定冠詞も発音するとのことです。

いくらなんでもギリシャ語自体を「悪魔由来の言語」とするには無理がありますよね?ギリシャ人が全員地獄行きだとは私には間違っても思えませんので。

続いて同じくヤフー知恵袋から

ヘブライ語での現地名は「ヨシュア」です。ヨシュアの原語での意味は、神の救い(神は救う)です。 

当時の東方ディアスポラ(現イラク地域などイスラエルからみて東側のヘブライ人コミュニティ)で話されていたアラム語では、イェシュア となります。初期キリスト教社会の共通語は、西方ディアスポラ地域(エジプトなどイスラエル周辺の地中海沿岸部)の事実上の共通語であるギリシャ語となり、新約聖書の原典もギリシャ語で聖典化されています。こういった中、ヨシュアはギリシャ語化し イェスース となって、これをベースに多数の言語に変形してゆきました。例えば、英語では Jesus(ジーザス)ですが、日本語ではイエスです。日本語の方が、ギリシャ語に近いように思われます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311465743

アラム語も私、知りませんのでイエシュアと言う発音が正しいとします。主イエスはアラム語も話されました。アラム語表記もけしからん!ヘブライ語表記しか認めないとでも言うのでしょうか?

何でもヘブライ語で正確に発音するならば

ヤシュア=ハ=マシヤ 

と発音するそうですが、何も私たちは日本人、日本語発音で十分ではないでしょうか?ましてや日本語には定冠詞などという概念は薄いですし。
チャールズをフランス語でシャルル、ドイツ語でカールと表記するのに何の問題があるでしょう?
そう批判する人は、イエス=キリストの御名、ジーザス=クライスト(個人的には英語なので間に The を入れれば突っ込まれる必要が無かったとも思いますけど)の御名によって素晴らしい働きをしている器をどう説明するのでしょうか?世界にはそれこそ、異邦人の中にはゴロゴロいます。
ということは、歴史上、古今東西、キリストの名によって働いてきた方々はみなサタンの御名によって福音を宣べ伝えてきた偽者だとでも言うのでしょうか?騙されてきたクリスチャンはみな地獄行きだとでも言うのでしょうか?

大事なのは

「我々は、私たちの罪のために十字架に架かって下さり、罪を贖ってくださった。そのことによって天の父なる神の前に大胆に出ることが出来るようになった。その方を知っている。」

これで十分でしょう・・・もちろん、警告、批判は必要でしょう。しかし必要以上に批判的になり、律法主義に陥り、他人の悪口、批判ばかりして極端に走り過ぎると、かえって過ちに陥る事があるようです。私はそのようなサウル王タイプの方の門下で、一時期、学んだことがあるから良くわかります。残念ながらその方は、「聖書の暗号」にこだわりすぎて自爆してしまいました。

ネガティブな面ばかり追いかけて(私も気をつけねばと思ってますけど --;)、キリストにある愛、喜び、恵み、感謝を忘れるべきではありません。十字架により罪許されているはずです。そしてそれは、一度限りであり、パーフェクト。付け加えるものなど何もないはずです。
人間はどうしても極端に走りやすいように出来ているようです。だから新約聖書においてもパウロ書簡の中に、よく理解しないと頭の中がフリーズして戸惑ってしまう、行いを強調した異質な「ヤコブ書」が入っている気がしてなりません。

また特に、ローマ書、ガラテヤ書などはユダヤ人にとっては破り捨てて、焚書にしたいような内容でしょう、裏切り者パウロを呪い糾弾して。

わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。
ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。
福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。

第一コリント 9:19~23

すべての人に対しては、すべての人のようになった。― とのことです。
ここもディアスポラのユダヤ人限定の箇所、メサニックジュー限定と解釈すべきなのでしょうか?私にはそうは思えません。メサニックジュー的というより、マラノ的な匂いがプンプンします。うがった見方をするならば異邦人に絶望感を与える、傲慢なる選民思想で洗脳する意図を持った悪意すら感じます。
また、ローマ帝国の百卒長には素晴らしい信仰を持った人がいたはずです。百卒長すべてがユダヤ人との混血だとでも言うのでしょうか?ギリシャ人、イタリア人は全員、ギリシャ=ローマ文化のルーツがバビロン起源だから地獄行きだとでも言うのでしょうか?あまりにも極端すぎます。

そもそも、マラノとメサニックジューの見分け方ほど難しいものはありません。アメリカの神学校の多くもこれで、内部から破壊されました。自称、メサニック=ジューの教えだからといって鵜呑みにするのは危険です。彼らは巧妙に真実の中に嘘を混ぜ込みますゆえ。

今は惑わしが強烈にはびこる時代です、確かにユダヤ人は人類の長子で、最終的にイエスをキリストと認めるのでしょうが、神は差別無く全人類を愛しておられると信じます。なぜなら人間はすべて神の被造物なのですから。

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コメント

ま!?千年統治までに、次の事が修正されることは以前にも書きました。
1 現行の1225クリスマスは、マリア受胎記念日と名称変更されて、ゼカリヤ書に予告されているように主の降誕記念のクリスマス、は秋の仮庵(かりいお)の初日九月末から十月はじめ頃に変更されます。
2 復活祭はEasterという異教からの起源な名称を取りやめ、原点回帰、主の復活の勝利を祝います。

3 今までたくさんの秘密、隠されていた教えが明らかにされます。

たとえば…イスラムの教えのアッラーとは、ハガルに現れた主イエス御自身だったこととか…仏教の阿弥陀とは永遠の生命、永遠の光なる主イエスであり、アマテラスとはキリストのこと、曼陀羅の大日如来とはヤハウェ神のこと…仏教はキリスト教のパクリだと明らかにされること等々

4 その他いろいろ

だから…あんまし気にしないよ♪終わりよけりゃそれでヨシダ

>終わりよけりゃそれでヨシダ

→違いないですわね、そりゃそうだわね。

なんだかね・・・この命題はず~っと、スルーしてたつもりなんだけど、数ヶ月経ってもモヤモヤが晴れずにいてね。
うまく検索がヒットして、書かずにはいられなかったわけでござんす・・・何を隠そう、私も複雑な心境なのですよ。

イエス=キリストの名が特に福音や聖書に興味を抱いている人にとって、「躓きの石」となるのだけは忍びなかったのでね。

時間や空間に限定されない永遠の霊なる神が、被造物なる人間と霊的交わりをもちたいという願いによって、人間の内に霊を授けたという根源的な啓示を忘れてしまうと、人間の知性を土台にした認識によって善悪を判断する傲慢の罪に陥ってしまいます。
イエス・キリストが勝利を得る者に約束している御自身の「新しい名」(黙示録3:12)は、愚かな議論やうるさくまとわりつく罪からの最終的な解放を約束する、全てのキリスト者の希望です。

ミヤサカさん、たぶん?あのミヤサカさんでしょう(笑)

自分の庭なので遠慮せずに書いちゃいますが、あの方・・・自称、メサニック・ジューと関わって以来、信仰が変質してしまった気がするのです。それまではいい記事も書いていたのでリンク貼っておいたのですが、あれ以来、何も知らない人があのブログにジャンプして「躓き」となるのが恐くなり、リンクを外した経緯があるのです。
教唆犯にはなりたくなかったもので・・・残念でしたがね。

私もユダヤ的律法主義には、一度、苦い思いをしているのである程度はわかるつもりです。趣味で豚肉、えび、うなぎ食べないのは勝手ですけど。
そして律法主義的教会で躓かせられる人が多いのにも驚きを隠せません。そのことに関してもパウロがローマ書 9:30~33に書いているのですけどね。

短文ながら内容の濃い投稿ありがとうございました。

あのミヤサカです。

リンクを外された理由に共感します。

使徒15:10によれば、あの教えは「神を試みる」ものです。熱心であることが、戒めによる罪の欺きを源としている典型的な例だと思います。

ガラテヤの手紙を鏡とし、自分の信仰の立ち位置を省みるいい機会でした。

主イエス・キリストの再臨を共に待ちましょう。

やはりそうでしたか。
使徒行伝の上記の箇所もベストチョイスですね。
新約聖書においてのパウロの働きはやはり素晴らしいものがありますね。パウロなくしては語れません。

その時が来ればすべてが明らかになるでしょうから、謙虚な姿勢で(これがまた難しいのですけど)、時には立ち止まりながらも歩んで生きたいものです。
ありがとうございました。

感動しました。

木蓮さん、いつもありがとうございます。
ここは素直にありがたく受け取っておきますね、感謝。

あの方がサイトで取り上げ、批判している数々の背教的現象も、あの方が力説している神やキリストの名、律法に関する教えも、結局のところ根源が同じであるという事実は、一人ひとりのキリスト者が非常に真剣に向き合わなければならないことだと思います。
バビロニアだのローマだのそれ程遠い起源の問題ではなく、我々の内にある「肉」の問題です。
全ては今の時代における「十字架の福音」の喪失が原因なのだと思います。
キリスト者がそれを語らなくなった、否それ以前にその福音に「殺され、生かされ、生きなくなくなった」からでしょう。
何かに囚われて十字架の力から離れているのでないか、さらに真摯に向き合っていこう、隣人と共有しなければ、と祈るこの頃です。

異論ありません。

今なお、主イエスは両手と足の甲に、王となった今でも十字架刑の跡を残されている、私はこのスーパーサイエンス的証を信じますね。
文章で説得されたのではなく、魂に訴えられたからであって、そこに理路整然とした理屈はいらないわけです。

そしてコルトン君はアメリカ人だから、Jesus と主を呼んだはずです。そして私は日本語でイエスと呼びます。それで通じる、何の問題もない。いや、あるはずもなく、ユダヤ人に媚びへつらい、他人を裁く事に問題があるはずです。

スーパーサイエンス的証どころか、黙示録5:6には、「わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た」とあります。ヨハネは天上の栄光のうちに「ほふられたとみえる子羊」の幻の啓示を受けています。
へブル9:14によると、御子の十字架の相は、天地創造の前の永遠の相だと理解できます。だからこそ、数々の御子の十字架の死の預言が創世記からはじめ、旧約の中にはっきりと啓示されていたのだと思います。

そうですね。御子の霊によって「アバ、父よ」と幼子のように祈れる、その恵みに感謝します。
三位一体を信じない人には、許せないことでしょうけれど。


皆さん、毎日聖書の詩編91編を祈りの気持ちで朗読されてください。騙されたと思って実行するとその効能は、たいへん素晴らしいことを約束いたします。
霊肉共に守られ、日々を健やかに過ごすことが出来ます。先日も、ウッカリ交通量の多い幹線道路を横断中突然、大きな車輌が右方向手前約数メートルで急停車
わたしもウッカリして左右確認して横断するのを怠けたのもあるのですが…それにしても、運転席の男性が真っ青な顔しながら慌てていたのがよくわかりました。彼は見切り運転で信号機が黄色だけれど停止しないで直進したのだと思います。で、わたしが青信号になって警戒せずに渡ってきたものだから慌てて急停車、ギリギリ何とかまさに危機一髪!?って…

一部始終をみていたオジサンが飛んできて、よく轢かれませんでしたね!大丈夫でしたか?と…

み使いの守り!?がなければ今頃わたしは、身障者になっていたか!?お先に天国へ旅立っていたことでしょう。

それにしても交通事故で死んだら痛いでしょうね…この前、お台場の日航hotelで結婚式を挙げた姪がさぞや悲しむことを回避できたのは…やはり神さまの憐れみではないでしょうか!?ああ、わたしは生かされているんだと…

こんなわたしですが、まだ地上で死んだはならない理由があるのかしら?つくづく自己を顧みた
出来事でした。


嘘偽りのない実話です。


感謝


お二方、いつも投稿ありがとうございます。

それにしても風さん、何はともあれ良かったですな、感謝。

阿修羅掲示板に、311がアシュケナジーユダヤのイルミナティフリーメーソンヤミ組織の仕業だと暴露されていますね!
なんと、タルムード信者デーブスペクターが、吠えまくるYouTubeが晒されていて笑ってしまいました。
あと、ゴールデンウィーク期間にアイツラなんか企んでいるようですので皆さん引き続き警戒怠りなく、お祈りください。

アシュケナジーユダヤ、タルムード悪魔サタン信者の下請けが創価学会統一協会とハッキリ暴露されたので、さあタイヘンだわ、ネットでドンドン拡散中です。ザマアミロードですわ♪

皆さん、交通事故にお気をつけ遊ばせ、
詩編91はよく効きますよ、マジで

あと、護身に最適なのは…ポリスマグナムF-605 606 です。女性にはリップスティックsizeもあります。

脚に隠した小型拳銃デリンジャーでパーン!より現実的ですわよ♪

ね、ルパン

リチャード・コシミズ氏の持論と一致しますね。
私もおそらく、そうだろうと思ってます。

ユダヤ人をひとくくりに、どうこう論じるのはナンセンスですが、「福音のユダヤ性の回復」などと、要吟味項目もあるしで、各方面に工作員が配備されている模様。

ここでも、使徒行伝、ローマ書、ガラテヤ書の意義を再認識し、パウロの働きを今一度肝に銘ずべき。
もちろん保守、リベラルとも行き過ぎた極論、曲解はご法度ですが。
そうじゃないと原理主義カルト、リベラルカルトになっちまう --;

不思議な地震です。
鳥島近海の深さ450キロ、去年元旦に起こった鳥島震源地震から一年+111日、これって何か暗号messageでしょうか!?

本当に地震が日本と限らず多いですな・・・
新HN、はて?なんという名に?

へぇ?意外と近くでもやっていたんですね、アレ!?聖霊ナンとか
今diamond1キャラだと百万はしないけど、良質なモノだと…アレ!?だけど、普通は五十万円ぐらいはするよ。ジルコニアだとハンズで二百円ぐらいかしらね♪

とにかく宝石は投機の対象にはなりにくい、なぜなら安定性がないから、幾らでも価値が変動するし、業者が信用のない悪質な者だと、騙される可能性大

カメリアダイヤモンドってのが其れ。奥山先生も仰っていましたが、ダイヤモンドは永遠にキャンペーンは、原発キャンペーンとおなじヤミ組織からのアレ!?なんですってさ。ダイヤモンドの形状もイルミナティの三角形から起源な話だし、昔は婚約指輪は高価な真珠が定番、聖書の主の喩え話と一致していますね!なんでも1世紀当時の相場では、特別に高価な真珠は、1デナリ×何万倍なんですってさ。ちなみに1デナリとは労働者の一日の賃金、今なら一万円としても何億円の価値あり、

天国の救いはそれ以上に価値ありって話よ。

で、マリアさまが東方の三人のマギから頂いた、金なんだけど、推定でも1億円にはなるんだって荻原氏が仰っておりました、ついでに
乳香が推定やはり1億円、没薬がちょっと低めに数百万円とか、マリアさま一家聖家族は貧しくなかったのら♪

でも主が成人するまで寡婦になったマリアさまと主と子どもたちを養うことはできたのではないでしょうか!?

数億円の資産一家だったのだから…

たぶん、ジュンイチ献金しているのかな?

聖書には書いてませんけど、伝承によると養父ヨセフは主が公生涯に入る直前に亡くなったそうですね。

今まで考えた事なかった --;

昔昔、久保キリスト教掲示板にて
聖書に出てきますお金のいろいろを雑談した時に、
オギッチョさんが、東方の三人のマギから頂いたアレ!?どうしたんだろう?って話題から
だいたいaboutで、金の塊が五キロ、当時のrateを様々に計算してざっと、三千万円から1億ぐらいかな?
乳香がちと高価で、1キロだと、1億円
没薬が格安、1キロで二百万円ぐらいを

合計で二億円と二百万円ぐらいをか、低く見積もってもざっと1億円はいくとみました。

聖家族がエジプトに避難して、金はともかく、乳香没薬を当時の相場で銀に替えたと思われます。

数年間を何とか過ごし、ナザレに帰還してから、ヨセフが堅実に働いたとして、残りの資産 たぶん数千万は、イザという時のアレ!?に蓄えたのではないでしょうか?

イエスが12才までは父は健在だったと聖書にありますので、伝承から推論して三十の公生涯前にはヨセフは早逝されたと思われます。暮らしは貧しい…と一般に思われていますが、数千万を30年余で食い潰したでしょうか!?わかりませんが、確かに家計的にはかなり助かる額ではないでしょうか?わたし思うンですが、主の喩え話の銀貨を探して家の中を掃除して見つける話は、母マリアの実話ではないでしょうか?

30年の経過で、三人のマギから頂いた財産も残り少なくなって、換金した銀貨を、大事に大事にしまっていたのではないでしょうか!?あくまでも推論ですが…

タイムイズマネー


生きるってお金かかりますよね…まして子どもに幾らかかるか!?ザアカイさんは偉いです!!わたしやモトイさんみたいな独身者は、ホントある意味楽チンなんですよね、親のことはいろいろあるけど少なくても子どもがいないのは…楽チンです。お金もかからないし

育児、学校、就職、結婚、そして出産の繰り返しが延々と続いていく、そしてお金がかかるのです…

こうした当たり前な、人の道から外れてしまった私たち、軌道修整の為にも早くラプチャーされて心機一転したいです!!

年収四百万円の人は、十年で四千万円、五十年で二億円 なんと、聖家族はいきなり生涯収入を神さまから三人のマギを通じて与えられていたのです!!


恵みの意味を理解できる良いアレ!?ではないでしょうか。

つまり、私たちは貧しくても恵まれていても、神さまから頂いたモノを感謝して満足すれば良いことを、ね


Well done atricle that. I'll make sure to use it wisely.

確かに生きてくのにはカネがかかりますね。
まるで億からの借金抱えて生まれてきたようなものだわね --;

私などまだ一人だからいいけど、うちの親の時代ならともかく、子供3人も今の世の中教育している人・・・アンビリーバボーです。

与えられる中で感謝してやっていく、これしかなさそうです。

旧態已然の肉体を養うには、たいへんな出費がかさみます。オギャアと生まれて、戸籍に入れて人類の一人に登録された途端に…ドタバタドタドタバタバタ

幼児期は、
小学中学高校短大まで、両親の恩にホント感謝です。

当たり前ではない、中には生まれた途端 親に棄てられ、同情するならカネをくれって人生を歩む人たちもいる訳なんだよ。

学校卒業して一応一回は社会に順応しなくちゃ就職で研修、一週間でヤメテ地方に帰った友がいたわ…
なんとか、右も左も判らずに一年をやり過ごし、飲めない酒にも少し慣れた頃に、体調崩してリタイア。あとは転職繰り返しの数年間。周りを見渡したら、あらまみんな同じような行程を歩んでホッと安心していたら、アッというまに四重過ぎよ、教会からはリストラ言い渡されたり
かなり波乱にとんだ人生?最近ようやく

オチついて…いる訳ないよね♪


早く旧るい肉体を脱ぎ棄てたい、だんだん老化していく自身を自覚


このまま老いていくだけなら、絶望。

しかし、希望を見出だしわたしはクリスチャン。

ま、自己防衛と自己保全の為に、少しばかりの保険と数百万円があれば、あとは野となれヤマトなれなるようにしか為らない〜って悟ったこのごろでした。


Thank You!

ま、この世の人生は訓練の場なんでしょうなあ~。
逆に言うと、蹴り入れられて、コークススリューパンチでKO寸前まで追い込まれないと、なかなか自我を捨てられない・・・というか --;
今でもどっこい生きてる無くならない・・・

その時点で選択肢は多々あったわけだけど、幸いにもキリストが見えたのはまさしく奇跡だったのかも?

ピリピ3:9~11でパウロはキリスト者の人生の目的を書き記しています。特に10節にある「(キリストの)苦難にあずかって、その死のさまと等しくなり」という箇所は、全ての「繁栄の福音」的価値観や律法主義的虚栄を裸にする強烈な力を持っていると思います。
同じ霊によって、モーセはキリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えた(へブル11:26)とあります。
「キリストの苦難」「キリストの死の様」「キリストのそしり」を自分の永遠の富と思えることは、この世で奮闘している全てのキリスト者に対する本当に大きな慰めだと思います。
そういう自分も、苦しむ前には頭でしか理解できなかったことですが、、、。
感謝です。

>「キリストの苦難」「キリストの死の様」「キリストのそしり」を自分の永遠の富と思えることは、この世で奮闘している全てのキリスト者に対する本当に大きな慰めだと思います。

→確かにその通りですね。
ましてやこのような時代を生きていると信仰がなければやっていけません。希望があるからやってられる。
素晴らしい投稿ありがとうございました。

やはり 議論になっていますね 僕は ヨシュア記の世シュアとエズラ ネヘミヤ の エシュア (イエシュア)は違う名前になっていることです
ヨシュアはキリストの雛形ですが名前を変えるのはメシヤでありことを隠す意図があるのでは と思います。 名前の重要性は皆さんご存知のとおりです
しかしイエシュアで駄目なのかといえば私にはわかりません
信仰のあるものは救われるかと思いますが本当の名前を尊重するのはいいことではと思います。
しかhしながら罰当たりさんの 律法に関しての話は極端かと思います

新約でもイエス とヘブル書使途 ヨシュアは違う名前で書いてあります。
私はメシヤの真実の名前を隠す意図があるのではと思います。
次に律法についてですが 原典の英語訳で読んでみましたが 戒めと言う言葉はトラーになっています。キリストは律法を尊重していましたし守っておられました弟子はみな律法を尊重していますが 異邦人に負担をかけるなと言っています新しいぶどう酒古いぶどう酒なのでしょう
聖書を何回も通読しましたが ユダヤ人として救われることと異邦人としてすくわれるのでは 違いがあるのではと思います。いずれにせよキリストの救いと聖霊と言う者が必要なのです。
ユダヤ人が律法を守れとユダヤ人に言うのは正当ですが異邦人に向かって律法を守れと言うのは 古いぶどう酒を新しい皮袋になってしまうのではと思います。律法 主義 ではいけませんが
救いと義は律法ではありませんが 律法を疎んじる文章はみあたりません。律法には永遠の御心がはいっています。

しかおさん、投稿ありがとうございます。
お書きいただいたこと、納得です。
主の来臨の時、真実がわかるのではないかなと思っております。
すべてを正しく100%正確に知る事が出来ればいいのですが、我々では不可能ですので。己の限界を知るだけでも謙虚になれますからね。


ヨハネ19:7には、イエスが祭司長や律法学者によって死罪に定められたその理由が書かれています。自分を神の子としたのだから、「律法によれば」死に当たる、と。「人間でありながら、自分を神とする冒涜」を犯したから、死に値する、ということです(ヨハネ10:33)。ユダヤ人達は他に断罪する理由を探したけれど見つからなかった、とあります(マルコ14:55)。
イエスは自分ではそのような存在でもないのに、傲慢になっていたのでしょうか。もしろ神の御姿であったのに自分を無とし、自分を卑しくし、人間と同じようになられた、とピリピには書かれています。

律法を人間に与えたのは神ご自身です。そして神の子の啓示は同じ律法によって十字架の死をもたらしました。これは私たち罪びとは、律法の行いによっては決して神の子として受け入れられることはないことを示しているのです。

「的を外している」のは律法ではなく、律法を自分の義を建てるために利用としている人間の傲慢な罪です。

ガラテヤ3:13,14を読むと、神の永遠の計画における「律法が与えられた根源的な理由」と、「なぜ神の子は石打ちの刑ではなく十字架の刑によって死なれたのか」が明確に啓示されています。
この箇所を理解すると、なぜパウロが律法に関する論争を「無益でむだなもの」としているかがはっきりします。

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何とはかり知りがたいでしょう。ローマ11:33

主よ、十字架の福音の光で私たちを照らしてください!

マタイ7:22,23には、イエス・キリストが裁きの日に「主よ、主よ。あなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追いだし、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか」と叫ぶ大勢の者に対して、「私はあなたがたのことを全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。」と宣告すると書かれています。

彼らはキリストの名を正しく発音出来なかったから退けられるのでしょうか。それとも「キリストの名を知る」「キリストの名によって生きる」「キリストの名によって働く」とはもっと深い意味があるのでしょうか。

復活の朝の主イエスとマグダラのマリアとの霊的交わり。ただ「マリア」「ラボニ」と言うだけ(ヨハネ20:16)。でもそんな真の交わりを求めていきたい、と切に願います。

謙虚はいい言葉です 心に刻んでおくようにします。私のブログですがあれは警告ブログですのではっきりいわなければ何もはっきりしないので えげつない 印象を持たれるかもしれませんが 論争ではなく 聖書の深い話が好きな男です。
今回の記事で イエシュア と イエスで ギリシャ語 アラム語で検索すれは
イエシュア と イエスが出てくるのは普通のことと思いますが もう少し
はっきりとした根拠をご存知の方がおられましたら 教えていただきたいです。
例の人の主将のアタラージャ氏のメッセージを英語訳にして時々読んでいますが
律法の事意外はほぼ的を得ているといえます。
彼のメッセージはメサニック宛なのであればある程度納得がいきます。
があの方は ほかの方にまで適応されているのは意味がよくわかりません。
いずれにせよはっきりしている方なので間違いであればいずれ気ずかれるのではとおもっています。鵜呑みにして他人と同調して意見を述べる人たちよりましかと思います。
パウロはローマ書の中で罪のことについてアダムの原罪的な事と 律法による罪と両方について述べています。
ここでは律法による罪の事をかきますが。
キリストを私たちの罪の購いと言いますが律法における罪によって死という罪を身代わりになり引き受けれたのですから
そこに律法の意味が解っていなければ 何の罪の購いなのか 理解していない事になるのではないでしょうか もちろん理解だけではなく解っていなければ意味がありませんが ここを精神論だけで 購いの事を理解するのは短絡的ではないかと思います。
もちろん 理解するだけで解っていないな と思う私は謙虚という言葉が必要かと思います。

ミヤサカさん、しかおさん、ディープなコメントありがとうございました。
しかしブログやっていて感じますが、日本人クリスチャンは数こそ少ないですが、ハイレベルな方が多いですね。
勉強になります。

私は回心当初、原罪と律法による罪を理知的に分けた解釈をしていました。ある伝道者の教えに影響されていたと思います。
現在は色々な経験を通して、もう少し深いところで罪に関して実感を持っています。パウロは使徒として大いなる働きをしながら自らを「罪びとのかしら」と告白していますが、キリスト者の成熟のプロセスとして備えられている恵みなのでしょう。あの「自分に吐き気を感じ、歯ぎしりする」状態は、頭ではわかっていてもうんざりするものですが。ただただ、十字架の贖いに感謝するのみです。

第一テモテ1:3-11には、神の栄光の福音の目的、つまり信仰による神の救いの計画の実現に関連して、律法の正しい用い方が明記されています。これはガラテヤ3:22-24を補足する重要な箇所だと思います。

エペソ3:10にあるように、キリストの体を通して神がその豊かな知恵を示される、そんな交わりができればいいですね。


アーメンです。

先ほど ここで話題になっているイエス と ヤシュアについて 深く調べました 意外と聖書の中だけで解決しました。
が改めておどろきました
KING JAMES 英語名では ヨシュアがJoshuaイエシュアjeshua
と別人になっています。なんと 旧約でヨシュアは大祭司ヨシュアとヌンの子ヨシュアだけです ただし1つだけ例外がありますサムエル記上 ベテシメシびとヨシュアです ですから イエシュア とヨシュア(ヤシュア)は別人です。 
がイエス(イエシュア)がメシアの名前とすると(旧約のメシアの雛形)ヨシュアと別名という結論になります。 私はヨシュア=メシア の名であるはずと思います。

ヨハネ
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来<るならば、その人を受けいれるのであろう。

父の名とはyahweh ヤーウェー救いという名前 ヤシュア
イエシュア とは別人ですつまり 他の人の名前なのです。

しかお様へ
論理のプロセスが私には解り難いのですが。
済みません。

「私は父の名によってきた、、、」
完璧な回答ですね。

ミヤサカ さん
簡単にいうとヨシュア と イエス の名前が違うというのが問題だということです。ヨシュアは約束の地に導いたキリストの雛形です。
がキリストの名前が イエス イエシュア になっているということです。

イエス イエシュアは エシュアという名前で 歴代史 エズラ ネヘミヤに出てきます。jeshuaです

ヨシュアのつずりは Joshua で イエシュアとは別人になります。

ヨシュアは ヤホシュアで ヤーウェーの救いという名前になります。
イエシュアには父の名前が含まれていないということです。

主イエスは祈りの中でこう祈っています。「わたしは、あなたが世から選んでわたしに賜わった人々に、み名をあらわしました。」(ヨハネ17:6)
 
当然これらの人々の中には、12弟子や使徒パウロを含め、信仰によって救われたその他の大勢のユダヤ人たちがまず含まれています。これらのユダヤ人信者は旧約聖書に啓示されている神の名を知らなかったのでしょうか。もちろん、神聖な名のゆえに軽々しく唱えなかった、というのは現実だったのでしょう。その前提があったとしても、彼らは神の名がYHWHであったことは知っていました。しかし神のひとり子からみれば、彼らは父なる神を知らなかったのです。だからこそ「御名をあらわしました」と祈ったのです。

しかし主イエスはどのように父の御名を現したのでしょうか。ヘブライ語による正確な表記と正確な発音を人々に教えたのでしょうか。そうではなく、御子自身を世にあらわすことによって、父の御名をあらわしたのです。だからこそ「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14:9)と言われたのです。

出エジ23:21には、神はご自身の御使い(受肉前の御子の啓示)に対して、「わたしの名が彼のうちにある」とモーセに語っています。そうです。御子の内にこそ「満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」、御子を信じる私たちも「キリストにあって、それに満たされている」のです。(コロサイ2:9,10)

全てのキリスト者がキリストの御名を栄光を帰すように召命を受けていますが、その務めは「ヘブライ語で正しく発音できる」ということよりもはるかに尊く、はるかに責任あることです。パウロでさえ告白しています。
「いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか」と。
私たちの力では、愚かなことに囚われて自分の名を高め、その代りに御名を汚すだけでしょう。しかしそんな私たちさえも、恵みによってこの世から選び出し、ご自身の栄光の御名を日々あらわしてくださる。そのようないつくしみ深い主イエス・キリストの御名が崇められますように。

ミヤサカさんへ 
イエス と ヨシュア の名前は違っていても差し支えないという結論ですね? 信仰があれば 名前は関係ないと おっしゃる のですね
その見方は精神論ですこれを解決すべきではないと思います。
事実真実が重要なのではと思います。 名前がどうなのか
絶対的な答えが必要なのではないでしょうか?
 信仰があれば名前がどちらでもというのは 相対的な見方なのではと思うのです。
あきらかに jeshua Joshua は聖書のなかでも別人です。

しかお様へ
引用しました聖句をよく読んでいただくと理解していただけると思いますが、私が伝えたかったことはどちらかと言いますと、「イエスの名前を正確に知っていたとしても、真実の人格的交わりがなければ意味がない、御心に従わなければ価値がない」ということです。前提は「名前が間違っていても」ではなく、「名前を正確に知っていても」です。信仰の質を問題にしているのであって、名前に関する知識の質を問うているのではありません。説明不足で済みません。
実際、ヘブライ語やアラム語で発音することは信仰のない人でもできるでしょうが、十字架の友としてイエスに従っていくことは信仰なくしてはできないことです。

この観点をどのような意味合いで精神論だと仰っているのかわかりませんが、主イエスまた聖書の論理であると思っていますので、どのような分類でも構わないと思っています。

絶対的答えというのは、難しい問題です。もし神がそのようなものを御名に求めているならば、おそらく聖書の原文をヘブライ語以外の言語に翻訳して伝えるという手段は認めなかったのではないでしょうか。
被造物の秩序に似て、厳密さと許容性また多様性が素晴らしい霊的調和をもたらしていると思いますが、いかがでしょうか。

私が出張るとややこしくなると思い黙ってましたが、

「ヘブル語読みだとヨシュア(ヤシュア)である」

これを知っていればいいのではないでしょうか?
日本語で誰でもわかるのはイエス=キリスト。この名で証しするのがいちばん効果的でメリットがあると思います。ジーザス、ヨシュアより伝道効果があるのは間違いないはずです。

再臨の時に全てが明らかになると考えます。
その時こそ、受肉してこの世に来た人としてのこの世の名ではなく、本当の神の御子として、King of Kings としての聖なる名が示されると思うのです。
それがひょっとしたら?ヨシュアかもしれません。それであればそれでいいと思います。

むしろ、この記事を書くきっかけとなった
「イエス、ジーザスと異教の神の名を唱えるから教会がおかしくなる」とする発言の方が問題です。小さき者を躓かせてどうするんですか。硬い食物を食べる事の出来る人もいれば、乳飲み子だっているのですから。
今はラオでキヤの教会の時代、おかしな教会が雨後のタケノコのように増えても不思議でも何でもありません。

「ヨシュア」の名で証しする偽善者だっているわけですからね。
そもそもアブラハム以前、バベルの塔の時代に言葉はすでに乱れていたわけですしね。

この点ではニュートラルな視点で、ミヤサカさんの

>絶対的答えというのは、難しい問題です。もし神がそのようなものを御名に求めているならば、おそらく聖書の原文をヘブライ語以外の言語に翻訳して伝えるという手段は認めなかったのではないでしょうか。

に一票入れさせていただきます。これが人間としての限界であって、他に方法がなければ仕方がありません。それがたとえ、不完全であってもです。もっとも人間のやること自体、不完全ですけどね。

行き過ぎた自惚れにも近い「選民思想」「ユダヤ・コンプレックス」こそ問題なのではないでしょうか?
それと、オーソドクス=ジューこそ、ユダヤ人の中での救いの対象の最大の者となるはずです。
彼らは敵ではありません、シオニストと一緒にしてはいけません。もちろん毒麦も混じっている事でしょうが。
ただ時が来るまで目が曇っていて本当のメシヤが見えないだけだと思います。
それこそ「ヨシュア」の名で、大いにメサニックの方たちは、同胞に本物のメシヤを説けばいいのでは?

みなさんも言われるとおりです。
読んでいると自分と違う考えを持った人の意見はかなり勉強になります

確かに名前だけでは意味がありません。
名前が正確でもおかしな人たちは必ずいます。
名前が違うからおかしくなるという事もありません。
今更暴露してもつまずきがおこるだけです。

しかし名前がそれでいいのか いけないのかは こちら側で決めるものではないのでは と思うのです。

主が言われているとおりにすべきではと思います。

聖書はキリストの名前を重要視している

雛形でありながら名前が違うことに違和感がある。明らかに書き換えられています。

発音のちがいではなく明らかに別人の名前である。人をつまずかせる必要はありませんがハイレベルのクリスチャンがそれでいいのかと思うのです。


名前のせいではありませんが キリスト教会自体がマラノ化しているのではないか 聖書の中には書いてあります。かなり乗っ取られています。最近は信仰と思い込みの区別がついていません。そのような教会に求道者を導いてもつぶされる事が多い。

オーソドックスジューが言おうがキリスト教が述べようが真理であれば何の問題もない


それこそ「ヨシュア」の名で、大いにメサニックの方たちは、同胞に本物のメシヤを説けばいいのでは?

揚げ足取りで悪いですが 最初からヨシュアが本物とご存知なのでは?

しかおさんの真実を探求する姿勢には敬意を表します。

>しかし名前がそれでいいのか いけないのかは こちら側で決めるものではないのでは と思うのです。
主が言われているとおりにすべきではと思います。

→異論ありません。主ご自身から直接、日本語でわかるように教えてもらう事が出来れば何の問題もないのですが、ちょっと私では無理なようです・・・
これからもよろしくお願いします。

ええ~、それから。

本音を言わせてもらえば、はじめから「ヨシュア」オンリーで統一してあれば、何の問題もなかったのは事実でしょう。
だからと言って、イエス、ジーザスではダメなのか?と言うとこれまた断言できない。私ではわかりません・・・
しかし、ジーザス、イエスの名での伝道が許されて来たのですから、一刀両断にダメだと結論付けるのも早計だと思うのです。
それらの伝道者すべてが異端であったとは思えませんし。

全世界にどれだけ言語があるのかわかりませんけど、人間としての方法、限界も認めたいところです。

難易度の高い命題はそのままにしておく。そのうちわかる時が来るかもしれない。と言うのがわがポリシーなゆえ、勘弁願います。

ありがとうございます
思っていたのはそのうち苦し紛れに 反論してきて 妙な事を言い出して 本音が聞けるだろうと思っていましたが 
きっちりと 自分の意見を言っていただいて感謝します。
自分にはそんな寛大さはないので 勉強になりました。

いずれにせよ 妙な世の中です。
確かに 名前をいまさらかえることは つまずき になります
しかしながら 本来は 違う名前を 宛てるほうが つまずきなのですが
どうとも できない というのが 今のところの 変な 状態なのでしょう
おそらく パウロとペテロも同じようなことを言っていたのではないかと思います。
伝道者 という立場からみるのと 牧者 という立場からみるのとでは かわるところなのかもしれません

いえいえ、ワタクシ、相手の力量を見極める賜物だけはあるようなので。
ミヤサカさんにせよ、しかおさんにせよ、かなりのものですから。

ふと、かつて師匠から聞いたエピソードを思い出しました。大好きなところなので、このブログでも何度か引用しているのですけど。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天界におけるイエスとミカエルとの会話

ミカエル:「イエス様、このような大事な事を人間などに任せておいていいのでしょうか?」

イエス;「ミカエルよ、他に方法がないのだよ・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちなみに、しかおさんもご存知のE氏ではありません。

>しかし名前がそれでいいのか いけないのかは こちら側で決めるものではないのでは と思うのです。
主が言われているとおりにすべきではと思います。

ギリシャ人へ福音を伝えるために召された伝道者としてのパウロ、そして自ら開拓した群れを思い数々の手紙を書き送った牧会者としてのパウロが、聖霊の霊感を受けて「救い主の名はヘブライ語発音でヨシュアです。ギリシャ語やラテン語化した名前は異端です」と宣べ伝えていたら、現代でも問題なく「ヨシュア」だけだったでしょう。ただ聖霊はそのように導かなかった。

神の子の罪状が、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語の3か国語で書かれるような当時の複雑な状況で、そのような厳密性を要求しなかった神の意思を深慮すべきでしょう。
「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」とガリラヤの元漁師達に語った方は、限定しようという意思があったら明確に語っていたと思います。全世界のあらゆる言語圏に住む異邦人を救うために、恵みの時として聖霊を地上につかわされた方が、今まで2千年間「異端的」宣教が行われるのをじっと黙認されていたのでしょうか。それとも本当は異邦人の救いなんてどうでもよく、パウロが言う「割礼派」の教えに従うごくわずかな人々で神の国が満たされればいいと思っているのでしょうか。(黙示録に出てくる天上のイメージとかなり異なりますね。)

しかしもっと深い問題は、「明らかに書き換えられています」という箇所に現れていると思います。勿論、しかおさん自身を批判するつもりはないですし、おそらくどなたかの意見に影響されているのではないかと推測していますが、自由主義神学がもたらした弊害が確かにここにも表れています。
聖書が霊感によって書かれていることに猜疑心を持ってしまいますと、あらゆるのもが相対的で不確定になってしまいます。しかおさんが切に求めている「絶対的な答え」など論理的にありえない世界に導かれていってしまいます(誰が絶対と決めるのでしょうか。聖書の神でしょうか。その聖書が書き換えられているとしたら。心の中の神の声でしょうか。しかしそれを絶対化することはできません。) しかおさんの「主が言われている通り」という意見も、全て土台を失ってしまいます。

エデンにおける蛇の狡猾さを思い起してください。神の言葉に対する猜疑心を生み出し、神がまるで「一番重要なものを知っていながら隠している、それを与えないようにしている。この実を食べれば神のようになれる」とエバに思わせるように巧みに思考操作しました。そしてアダムとエバを生ける神との交わりから引き離したのです。彼らは、エデンという神自身が設定した、非常に寛容でかつ秩序と調和をもった環境で、自由に生きていたにも関わらず、です。

私たちは御言葉に生かされている、という真実を心に刻み込んで交わりを深めていきたいですね。

追記として、ヨーロッパに随分長く住んでいる一人の個人的な経験から意見言わせてもらいます。

今まで本当に色々な国のキリスト者と交わりの時を与えられました。ヨーロッパ諸国だけではなく(これだけで非常に複雑多彩ですが)、ジプシー系の人々、アラブ系アフリカ人、中央アフリカの人々、中東、東南アジア、中国、オーストラリア、アメリカ、ラテン・アメリカ(これまた複雑多彩です!)、などなど。言葉は思うように通じない、文化・習慣・外見などすべてが異なる相手とでも、実際「キリストの名による霊の交わり」は、現実としてあるのです。否、むしろこの交わりの方こそ、取り繕える言葉や社会習慣的な態度における交流よりも、リアリティーを持っているという確信を持っています。

ザアカイ様、お宅の「縁側」で長々と議論してしまって、ご迷惑おかけいたしました。

>「キリストの名による霊の交わり」

→行き着く先は確かに、ここに収斂すると私も思います。多少のスタンスの違いは仕方のないことでしょう。

あまり波風立てたくはなかったのですが、胸の痞えが取れず随分と迷いましたが、パウロの働きを否定しかねない信仰のスタンスに我慢できず(御名の問題だけでなくて)、一石を投じたくアップした次第です。

おかげで有意義な意見交換が出来たので、結果オーライだったかなと感じております。
見解の相違はあれ、お二人とも真摯に対応してくださったので、迷惑どころか感謝しております。

ミヤサカさん ぼくはヨシュアがJoshuaイエシュアjeshua
という名前がはっきり違う名前であると言ってエビデンスをし、めしています。 精神論は抜きにして エビデンスを提示いただきましたら
納得するのですが

クリスチャンの交わりのことと 名前のことと 何のかかわりもありません

しかお様
>新約でもイエス とヘブル書使途 ヨシュアは違う名前で書いてあります。

SBL版ギリシャ語聖書によりますと、使徒7:45で「ヨシュア」と訳されている原語と、同じステファノの言葉として使徒7:59で「イエス」と訳されている原語は全く同一です。

同様にへブル4:8において「ヨシュア」と訳されているギリシャ語原語と、同じ章の14節で「イエス」と訳されている原語は、ギリシャ語文法上独特の語尾変化はありますが、基本的に同じ単語です。

異なる人物を指しているので、当然翻訳者は文脈に従って異なる名前に訳しています。

この点においては客観的真実を追及できると思います。一つ一つクリアにしていけば、より核心的なことに集中できるのではと思い、あえて書いてみました。

SBL版ギリシャ語聖書によりますと、使徒7:45で「ヨシュア」と訳されている原語と、同じステファノの言葉として使徒7:59で「イエス」と訳されている原語は全く同一です。
は イエスで統一されているのでしょうかそれともヨシュアで統一されていますか?教えていただければありがたいです

Iêsouで、新約聖書において同じ語尾形だけでも307回つかわれています。
文脈上「ヨシュア」と訳されているこの箇所以外は、すべて「イエス」と訳されています。

ちなみに旧約聖書をギリシャ語で翻訳した70人訳(ギリシャ語しか話せないユダヤ人が使っていた聖書。ルカやパウロも旧約の引用の時に使っていました。)では、「ヨシュア記」のヨシュアは「Iêsou」で書かれています。

ヨシュア記のIêsou と エズラ2:36は エシュア はおなじですか?

70人訳では「Iêsou」で同じです。

今、ネット上でかなり使い易いソフトが無料で手に入りますので、ありがたいです。是非直接確認していただけたら、と思います。

Interlinear Scripture Analyzerはとても重宝しています。

日本語のソフトは一度、結構な値段を出して買ったのですが、結局PCを64ビットバージョンにしたらインストールできなくなってしまい使っていません。

どなたかいいスタディーソフトご存知ですか。

king jamesではそれぞれ エズラ2:36は エシュア は違っています
新約の4つは全部ジーザスになっています。

ミヤサカさんへ 使途 バルイエス  バラバイエスも同じ表記ですか?
外出中なので帰宅後 ヘブライ語→英語訳を調べてみます。

基本的に言語で検証しなければ意味がないと思いますが。

ギリシャ語原語の「Iêsou」が、翻訳すればJesusとなり、イエスとなり、Gesuとなったりするわけですから、翻訳語である英語で検証しても今回の問題の解決にはならないのではないでしょうか。

正直に言いますと、しかおさんの論点がいまいち理解できません。

>クリスチャンの交わりのことと 名前のことと 何のかかわりもありません

大いにかかわりがあるからこそザアカイさんは記事を書いたのではありませんか。名前に確執するがゆえに躓きを与える危険がある、という危機感に押された記事を書いた、と理解していますが。

例えば、母国語が異なる色々な国のキリスト者との交わりで、もししかおさんが「ヨシュアの名を使わなければ異端だ」(極端な例で済みません。わかりやすいようにと思ってです)と言い出したら、キリストにある交わりをそのまま保てるでしょうか。

ザアカイさんがコメントしたように、問題は名前自体にはなく、確執するその姿勢です。

またもう一点、かかわりを書きます。さらに重要なことです。

しかおさんは個人的に祈られるときに、現在どの名を使って主と話されていますか。主は答えられますか。またこの名前の問題を意識し始める前には、どの名で主を呼び求めていましたか。主は答えられていましたか。

また、時には言葉にならない、本当に切なるうめきで主の前にいるだけの時もありますよね。その時も主は答えてくださいますよね。

「精神論」として片づけてしまうには、あまりにも深く、豊かな恵みです。人間のちっぽけな観念で量り、「自己満足的絶対観」で限定できるほど、ありふれたものではないでしょう。

こちらが 翻訳をだすまで まてないのでしょうか 
そちらが好戦的なのががっかりしました
ギリシャ語は原典でなく翻訳なのではないですか
意味がないと人の話を聞かないで 阻害しているのはあなたのほうです
名前は聖書では重要視されているのは明らかです。
名前がどうでもいいなら千石イエスでもかまいません
わたしが どこに異端だといっていますか 私はイエシュアでいいのかヨシュアでなければ わからない といっているのです
よく読んでみてください。
物事を理解せず安易にものを言われるのは失礼なことです。
やはりキリスト教途はこんなものかとがっかりしました。

私はあの罰当たりとは関係のない人物です
同一視するのはやめてください
私は本物の信仰しかのこらないと言っているのです
あなたのように物事を聞かないでさいしょから決め付けお前はこうだというようなクリスチャンは多く
言葉の上での愛だとか何とか言う偽善者と違いますか?
やはり かかわるのは無理なようですね
どこに そのような寛大さがあるのでしょうか
争いたいのはそちらのようですね

自分に不利な証拠をだされてこまるので そのように先走るのでしょう
人をやり込めたいだけとしかとれません
ミヤサカ教の結論はよく理解できました

例えば、母国語が異なる色々な国のキリスト者との交わりで、もししかおさんが「ヨシュアの名を使わなければ異端だ」(極端な例で済みません。わかりやすいようにと思ってです)と言い出したら、キリストにある交わりをそのまま保てるでしょうか。

そうであれば最初からおまえは異端だといって話も聞かないでしょう

物事の本質を見極めたいと思って書いているのがわからないあなたに
聖書の何が理解できるのでしょうか 

人の鼻話をまったく偏見でしか見ていないのがありありとわかります。

推測による意見、論理の飛躍、極論が多いですね。

面と向かって言えないような表現は建設的ではないですよ。お互い知り合いではないのですし、文章でしか判断できないわけですから。

ただ議論することは大事なことです。他人だけではなく、自分もすることができますから。

私なりにエビデンスや聖書的な判断は提供したつもりです。ご自分で確証することはできますので、頑張ってください。

しかおさん、ここまで。
いくらやっても平行線です。これ以上はナンセンス、もうやめようではありませんか。

ひと言だけ言わせてください。はっきり書きます。
あなたもご存知のエレミヤ氏、当初あれだけの素晴らしい働きをしていた器がなぜあのようになってしまったか考えた事がありますか?

「聖書の暗号」で躓いたのは単なる一つのきっかけ。なるべくしてなったと私は思ってます。

あの「病的なまでの頑なさ、聞く耳持たない独善的な自我の塊」が最大の敗因だったのですよ。
あなたにも少なからずその悪影響が及んでいるように感じました。
お願いですから同じ轍を踏まないで下さい。

バランスは大事ですよね?
これは自戒も込めて書いているのですが、ネガティブな事ばかりフォーカスしていると、自分では気がつかないうちに神の愛を忘れ、他人を裁くことしかできなくなってしまう。サタンのように自分を神の地位まで挙げようとしている事に気づかなくなってしまうのですよ。それがわかったから、私は早いうちにエレミヤ氏から離れた。目指すべき信仰の方向が違うのがわかったからです。

これ以上、感情的な暴言は慎んでください。相手がチンピラのような人ならそれもいいでしょう。しかしミヤサカさんは違いました。あれだけ真摯に丁寧に答えてくれる人そうそういませんよ、もっともあれだけのハイレベルな知識と信仰、鳥瞰的視野の持ち主だからでしょうが。
ちょっとあなたを買いかぶりすぎていたようでした、残念です。

わかってくれなければそれでもかまいません。しかしここは私のフィールド、同じブロガーなら私の言いたい事わかりますよね?
どうニュートラルに見てもミヤサカさんに分があります。間違った事は言ってない、そしてあなたに欠けている謙虚さをお持ちの方です。

あとは自分のブログでやってください、以上です。

ザアカイさん、申し訳ありません。

しかおさんも、気分悪くしてしまったようで済みません。

きっと実際に顔合わせて、一緒に聖書開いて話したら色々面白いことを共有できるのでしょうね。しかおさんも真理を探究しているのだから。

でも真理探究で最初から最後まで根気よく導いてくださる真の「友」は、神学書でもなく、預言者や牧師、教師でもなく、祈りうちにおられる聖霊です。
ヨハネ14:26;16:13,14
感謝です。

しょうがありませんよ。何度となく経験してきたことです、残念ですけど。

「教会とは聖書知識を競い合うところではない、神の御前にどれだけへりくだれるかを競い合うところです」

わが判断で10カウント鳴らさせてもらいました。

最近、イスラム教徒のモロッコ人と真理について意見交換をしているのですが、彼の立場から聖書を読むと、やはり細々と納得いかない点や不合理で理解できない点がたくさんあるわけです。

それに対して説明したり反論したりするわけですが、結局たどりついた核心的で決定的な点は、やはりキリストの十字架の死でした。これは彼にとって圧倒的に受け入れ難い事実なわけです。実際、コーランはそれを否定しているからです。

「どうしてメシアが十字架で殺されてしまうほど弱いのだ」、「神が父ならばなぜそれに対して助けなかったのだ」だと(どんなキリスト者だって、こんな問いかけされたら、胸一杯になって身震いしますよね)。

この点は、聖書に隠さず書かれている人間の弱さ、ロト(イスラム教徒にとっては偉大なる預言者の一人だそうです)の近親相姦、サムソンの愚行、ダヴィデの姦淫、などと同様、コーランを信じる彼にとって大きな「躓き」なわけです。

なぜこのことを書いたかと言いますと、真理を求めるなら必ず聖霊は私たちを十字架に導いてくださる、ということをあらためて経験したからです。聖書の研究は一人ひとりのキリスト者に与えられている喜びであり責任だと思いますが、全てはこの核心的な点に導かれるためだと信じています。
人間の誇りがひた隠したがり、しかし聖書が大胆に書き記している人間の罪、弱さ、恥、邪悪さが、十字架の御子の死で集約されている。

「われらの神、主にくらぶべき者はだれか。」
[唯一の神」という表現を「一人しかいない神」という実存的な意味だけで使っていましたが、「比較の対象が全くいない」「人間の想像や推論で語れない特殊な存在」という意味もあるのか、とハッと示されました。「ひとり子」というタイトルも同様です。

確かに名前だけでもこれだけ議論されて人物は他にいませんよね。

ありがとうございました。

ミヤサカさん、いつも貴重な話ありがとうございます。日本にいるとまず経験できないことです。

そうですね、原点はキリストの十字架による贖い=愛と赦し、これがわからないと先へと進めませんよね。そこから復活、再臨となるわけですし。

ユダヤ教、イスラム教には仲介者、ネゴシエーター、執り成し手、という概念はありませんし、メシヤとは12イマーム派の「マフディ」のようなイメージが強いのでしょうか?
奥が深く、人間の知恵だけで理解しようとすると、どこかで行き詰りますね。

彼は非常に熱心なイスラム教徒ですが、珍しくオープンで、お互い聖書とコーランを開いて話しています(このようなことは滅多にありません)。

聖書のキリスト観からすると、彼のもつメシアの概念は非常に理念的で(彼の観点からすると聖書のキリスト観がそのようにみえるようですが)、やはり人格的交わりがないことが原因に思われる疎隔した存在という印象です。

‐モーゼやダヴィデ、イザヤなどと同じ預言者のひとりである。
‐神の子でもないし、神と同じではありえない。
‐その誕生は奇蹟的なものだが、その本質は天使と処女マリアとの性的関係によるものである。
‐数々の素晴らしい奇蹟を行い、神の教えを説いた。
‐十字架に架けられる前に本人そっくりな人物と入れ替わり、イエスは十字架の上では死ななかった。
‐その後、エリヤのように天へ引き上げられた。
‐やがてこの世を裁くために現れる。

彼のメシア観は簡単に書くとこのような感じです。この最終的に啓示されると信じているメシアが、昇天したユダヤ人としてイエスと同一人物であるかはまだ確認していませんが、おそらく異なるのではないかと推測します。

こうやって見ると、イスラム教にもやがて現れる反キリストを受け入れるベースはしっかりあるなという印象です。

個人的には、パイクがマッツィーニへの手紙の中で書いた最終戦争の計画が進行中と思っています。その計画に直接巻き込まれているイスラム教徒達にも真理を語らなければいけない、と思っています。

神の知恵が必要です。

う~む・・・やはりイスラム教徒(ユダヤ教徒もそうでしょうか)には、「復活」によって死に打ち克つと言う概念はあり得ないのでしょうかね?死=敗北と写るのでしょうか?
まるで幼少の時見ていたウルトラマンがゼットンに敗れて、「嘘だ!ウルトラマンが負けるわけがない、こんなの絶対に認めない!」とする完全無欠のヒーロー感に、どことなく似ているような・・・わからなくはありませんけど。
今でこそ確信をもてますが、もし自分が主の時代にパレスチナの地に生を受けていたとしたら・・・果たして、イエスをメシヤであると見抜けたかどうか・・・正直言いまして、自信がありません・・・

>こうやって見ると、イスラム教にもやがて現れる反キリストを受け入れるベースはしっかりあるなという印象です。

→同意いたします。
改めて聖書は旧約と新約で一冊なのだなと実感します。

人類の罪を取り除く「過ぎ越しの子羊」であるイエスを理解する事から始めないといけないようですね。すべてはそれからですかね・・・

ウルトラマンですか、、、。面白いですね。

でも確かに理念的な存在としては共通性ありますね。

対極の存在を力で負かして排除して正義を確立する、という構造も、特定の宗教に限らず、共産主義など人間の理想をベースにした正義観の副産物として共通性ありますね。

こんなこと書いたらまた議論になってしまいますね。


私が出てくる幕ではありませんが、出てきてしまいました。
しかお様は真実を追求しているからこそ、ゆずれないラインがあって、結果として強い言い方でのコミュニケーションになってしまったのでしょう。自分にも覚えがありますし、理解できるところです。
私はしかお様のブログも罰当たり氏のブログも読ませていただいています。それでちょっと検索したら、Jesus のギリシャ語の意味は hail Zeus だ、 という記事がいくつかひっかかりました。
私などにはっきりわかるものでもありませんが、ヨシュアで統一しなかったあたり、やはり神の名を隠そうとする勢力がいることを思います。

結局どうしてよいかわからない、ということになってしまいますね。クリスマスの扱いと似たものを少し感じます。

マグダレナ様
あえて聖書の記述に基づいてコメントさせていただきます。

使徒パウロが少なくともヘブライ語とギリシャ語に精通していたことは、使徒行伝を読むと理解できます。アンティオキア、小アジア、ギリシャ、マルタ島、イタリアのローマに至るまで、神の計画により授けられていた語学能力を用いて福音を語っていました。

そのパウロがギリシャ文化の中心地であったアテネの広場でおこなった伝道の記述に注目してください。

使徒17:18 また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。

ギリシャ人の哲学者たちと議論するほどですから、彼の語学能力は相当だったと推測できます。ここにはパウロがイエスを宣べ伝えていた、と明確に書いてあります。

もし「Iêsou」というギリシャ語の名前に、「Hail Zeus」という意味がこめられていたとしたら、パウロの言葉を聞いたアテネのギリシャ人たちは、「異国の神々を伝えようとしているらしい」と判断したでしょうか。ご存じの通り、Zeusはギリシャの神々の中でも一番偉大な神だと信じられていたのですから、異国の神々の名前だとは思わなかったはずです。

「hail Zeus」 新約聖書のおいて」「Hail」に該当するあいさつの言葉は、5か所で使われています(マタイ26:49、27:29、マルコ15:18、ルカ1:28、ヨハネ19:3)。原語はχαίρω chairō です。
Ζεύς zeusは、インド・ヨーロッパ語のDi̯ēusから派生したものです。

「chairō」と「zeus」の組み合わせがどのような変化で「Iêsou」となるのでしょうか。

どのような意見に対しても徹底的な検証が必要ですね。ベレヤの人々がパウロの語ることに対して行ったように(使徒17:11 あの使徒パウロの説教に対してです!!!)。 

今度、時間があったらクオリアと言語の関係について書いてみます。

ミヤサカ様
返信をありがとうございます。またもう少し調べてみます。ちなみにhail zeusについては、私が賛同したわけではなく、そういう記事もあった、というだけです。ここの流れで記載するのはふさわしくなかったですね。誤解を与えてしまいすみません。
ただ、パウロが伝道している時には聖書は存在しなかったわけです。あくまで、聖書が本として成立する際に、この名前に置き換えられた可能性について言及しているのです。パウロがJesusとギリシャ語で口にしたということにはなりません。

(これから寝なくてはなりませんので、もしお返事をいただけてもすぐに確認ができません)

急いではいませんので、ゆっくり休んでください。

パウロが伝道する以前からギリシャ語圏のユダヤ人の間では、ギリシャ語旧約聖書七十人訳が読まれていました。ですから「Iêsou」がギリシャ語で聖書を読むユダヤ人の間で普及していたことになります。

またピリピでの伝道から、彼の名がつく福音書と使徒行伝を書いたルカがパウロの宣教チームに参加しています。そのルカが、「Iêsou」の御名によって占いの霊をパウロが追い出したことを証言しています。ちなみに使徒行伝はパウロが生存中に、パウロの監修によって書かれた考えられています。

またパウロはガラテヤの手紙以外は、口述筆記という手法で数々の手紙を書きました(ローマ16:22)。現代のようにキーボードを打って印刷するという簡易なものではなく、筆記者との非常に時間の書かかる共同作業でした。

「書き換えられた」という意見が、どの過程においてなされたと考えているかわかりませんが、当時地中海沿岸で広く普及していた七十人訳の写本(その数はヘブライ語の写本より多いほどです)のすべてに手が加えられたと考えるのは、いささか無理があると思います。

私はこの世の君の策略があることを信じますが、それ以上に主なる神の主権を信じております。特に贖いの計画に関しては、天地創造の前から定められたものです。神は計画されたことをイエス・キリストによって実行されています。そのぶれがない、最も重要なことにさらに意識を集中していきましょう。再臨はさらに近づいているのですから。
へブル10:23-25

「私はこの世の君の策略があることを信じますが、それ以上に主なる神の主権を信じております。」

全く異論がありません。そのとおりだと思います。
ですからどうするべきかと頭をひねるわけです。イエスの名でこれまでも多くの人々が許しを味わい、救われ、変えられてきた事実があるわけです。
しかし本当の名前を知ったなら、どうしたらよいかと。

私は、救われるためには聖書ひとつで事足りることを信じています。ほかに専門知識を駆使していろいろ調べなければならない救いではないと思います。ですからその救いが損なわれるような聖書の改竄は、神がゆるされるわけがないと。
一方でやはり名前については、しかおさんと同じような気持ちも持っているのです。(すみません、また出かけます)
一方で名前の食い違いについても、

ああああ、すみません。さきほどのコメントの最後に余計なものがくっついてしまいました。

なんか安心しました。
地上にいる間は、今使っている名前で呼び求め続けても全く大丈夫ですよ。
「神さま」でも「主よ」でも、言葉では言い表せない切なるうめきでも、全世界のあらゆる言語を使って呼んだとしても、答えてくださる方だから。

御子は永遠のことば、LOGOS、すべての言語の根源であり、霊的本質です。

黙示録3:12の麗しい約束を心に刻んで、最終的な勝利を得られるようにお互い励まし合っていきましょう。

黙示録19:11-16を読んでみてください。

開かれた天から勝利の白い馬に乗って現れるイエス・キリストは、「忠実または真実」と呼ばれ、「神のことば」と呼ばれ、その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた、とあります。しかも彼の頭には多くの王冠があり、ご自身のほかはだれも知らない名が書かれていた、と書いてあります。

先ほどの黙示録3:12の聖句と一緒に考えると、これ以上何を望めばいいのだろう、というぐらいの啓示ではありませんか。

ミヤサカ様
お返事ありがとうございました。まだまだ聖霊に助けをいただかないと消化できなそうです。

黙示録のことば、「初めの愛」というのが自分にとってとても大きな言葉です。主から目を離さないようにしないと、簡単にここから離れてしまう恐れがあることがよくわかりました。

遠い記憶
子供の時、自分が悪いことして見つかって、それでも素直に認める勇気がなく隠れていたら、母親が私の代わりに泣きながら土下座して謝ったことがありました。いい意味で気高い女性だったから、その様を隠れて見ていて泣き出してしまいました。後で母親が無言で抱きしめてくれた時、心の中では「お母さん、ごめんなさい。ごめんなさい」と叫んでいましたが、口から出てくるのはうめき声だけだったことを思い出しました。

父親の抱きしめられた放蕩息子もそんな感じだったのかな、と勝手に想像しています。

大人になって自分が子供をもつようになっても、同じようなことを天の父と主イエスの前で時々やってしまいます。

御子が自分の代わりに十字架の上で死んでくださった、という十字架の言を「首に結び、心の板に書き」続けていきたいですね。
箴言3:3
いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。

ミヤサカさん、投稿ありがとうございます。
読んでいてしんみりと・・・

ヨセフ、モーセなど、キリストの雛形は旧約聖書に見る事が出来ますが、最大かつ並ぶものはない執り成し手は、イエス=キリストただ一人ですね。

毎日ブログ読ませていただいております。

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