詩篇22篇より
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。
われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
詩篇 22:1~5
この詩篇22篇の箇所は、主イエスご自身が十字架上で発した言葉~わが神、わが神、何ゆえわたしを捨てられるのですか~、またローマ兵のしたことを預言した箇所として有名です。
しかし~と続きますが、残念ながら今の私では・・・頭では理解できても、実感として湧いてきません・・・しょせん己などこのレベルなんだわねえ~
時代がこうだからか?もっとも人類の歴史を動かしてきたのは、サタンとイルミナティ連中なのだから、時期からしても当然こういう時代になるのですが、なぜか?洗礼を受けてからというもの、ブログを始めてからと言うもの、わたしの人生は・・・
わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
で足踏み状態、滞っている・・・前へ進めない。
あの爽やかな風が心の中を吹きぬけ、この世のものとは決して思えない、生きてきて体験した事のないやすらぎを感じ、この世のことがちっぽけに見え、静かに空を見上げると涙がわけも泣く頬を伝う。これは理屈じゃない、体験した人ならわかります。
残念ながら、キリストに帰依した時のこの清々しさも・・・今は悲しいかな、どこかへ消えてしまった。
しかし!と私も及ばぬながらひとこと書かせていただくならば・・・
私は、我々の罪を贖って、十字架上で精算してくださり、復活して昇天し、再臨のタイミングを計っておられるKing of Kings を知っていると言う事でしょうか。
ヨシュア、イエシュア、イエス、ジーザス・・・最近、ヤシュアが正しいという説を聞いておりますが、私などでは本当のことはわかりません。
ただ、必要以上に律法主義に走らず、御霊自らが己の霊に語りかけてくれればそれでいいと考えますゆえ。その方を知っているというだけでいいです。
実際に、もっともらしくヘブル語を駆使し、旧約に比重をおき、見事に自爆した、自称ユダヤ系偽預言者もいることですし。
私は使徒行伝、ガラテヤ書の意義を重視したい。
わが神、わが主はただお一人、父なる神と人間との仲介者、イエス・キリスト。
少なくとも私にとっては、それでわかるし十分です。
最近、英語版のユーチューブビデオ(いいとこ突いていると感じるのですが、アメリカにはシオニストかぶれの牧師が多いのが玉に瑕、別の見方をするなら自己保身のため?あまりにもヤバ過ぎるから?)も良く見るので、ジーザス・クライストにも何ら抵抗ない。時として、理屈じゃなく感覚を大事にしたいので。私が間違っているかもしれませんが。
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昨日
最初は三十分、朝の祈りをしました。そのあと、讃美歌のアレに合わせて歌いました。なんだかんだで合計1時間半約九十分祈れました。
爽やかな風
最後にローマ八章を祈りの気持ちで朗読してフィニッシュ、目から涙が溢れました。
時間をとって祈るのは如何でしょうか?
騙されたと思って祈りましょう。
投稿: レイ | 2012年11月27日 (火) 13時26分
またまたスパムに入ってたので出しました。
祈りは大切ですね。
調子悪くても、可能な限り祈るようにしてます。
投稿: zaakai | 2012年11月27日 (火) 15時57分
ザアカイさん、お久しぶりです。カトリックにいながら、正統派クリスチャンの道を追求する異端児(?)エリヤです。今回の記事の内容は、とても他人事とは思えない節がありましたのでコメントさせて頂きます。『足踏み状態、滞っている・・・前へ進めない』この感覚は、多少シリアスなクリスチャンなら誰でも持っている感覚なのではと思います。なんせ、イエスさまですら、預言の成就の為とは言え、そして父なる神を信じているとは言え、最後の時正にそう感じて「わが神、わが神、何ゆえわたしを捨てられるのですか」と仰ったのですから。
そして、ザアカイさんの次の言葉『あの爽やかな風が心の中を吹きぬけ、この世のものとは決して思えない、生きてきて体験した事のないやすらぎを感じ・・・残念ながら、キリストに帰依した時のこの清々しさも・・・今は悲しいかな、どこかへ消えてしまった。』というところ、私も多分ほぼ同じ感覚を持っています。ではこの状況をどう考えたら良いのか?
ちょうど最近そのヒントになりそうな英語のクリスチャンサイトを見ていたのを思い出しましたので、以下にそこに書いてあった内容を翻訳し載せてみます。
OSAS(一度救いを受けたなら、それ以降無条件でいつも救われてゆくという考え方/また、私は時々教会にも通ってるんだからちゃんと天国に行けるという考え方。)の間違い
マタイ福音書 7章22~23節:
かの日には、大勢の者がわたしに、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。
『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」
*これらの大勢の者というのは、教会に集う人々として普通の “敬虔な” 行動をしていた人達の事です。しかし、その言われるままの習慣的行動が、実は貴方を主から引き離しているという事が多々あります。ですから一度主を知り救われたという事が、永遠の救いにそのまま繋がる訳ではありません。
コリント人への手紙 第一 9章27節:
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
*この箇所は、使徒パウロが自らの永遠の救いについて思いを巡らせながら書いた言葉です。勿論、パウロも一度主からの救いを受けていましたが、他を導きまた自らも律する事で永遠の救いへの道を示しています。
フィリピの信徒への手紙 2章12節:
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
*一度救いを受けたなら、それ以降無条件でいつも救われるのだったら、何故 “恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努め” なくてはいけないのでしょう。
ペトロの手紙 第一 4章18節:
「正しい人がやっと救われるのなら、/不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
*これは常識で考えても想像のつく話ですね。
マタイ福音書 7章13~14節:
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
*これも、多くの “一度救いを受けた人々” がそれ以降、そのまま救われてゆくという考え方と矛盾します。
ここでは、僅かのものだけが救済を受ける事が描かれています。
上記の御言葉はどれも、“一度救いを受けたなら、それ以降無条件でいつも救われてゆく”
とは言っていません。と言うより、上記の御言葉は全てそれと逆の事を告げています。
ですから逆に、ザアカイさんや私やその他大勢のクリスチャンが、救いと平安の充足感にひたりきって順風満帆に前進を謳歌しながら過ごせる方があり得ないのではないかと私は感じます。そして、その葛藤的心理状態の中でも証しを求めずひたすら主を信じきる事(勿論至難の業ですが)をできるかどうかが、クリスチャンとして正に神から問われているのではと感じます。
勿論、私もザアカイさん同様これを頭では分かっていても、何か困難にぶつかると、すぐ肉の気分に左右されたりしてしまうのですが、、、
ちなみに、イエスさまの呼び方に関してですが、私はヤウシュアという説を聞いています。
私にもどれが正しいのか分かりませんが、イエスさまの名前は呪文ではないので、イエスさまの名前よりまずその教えを正確に理解する事がまず大事かと思います。
投稿: エリヤ | 2012年11月27日 (火) 17時28分
エリヤさん、ディープなコメントありがとうございました。長文ですが、中味が深く真剣に読んじゃいました、感謝。
本当にカトリックの方じゃないみたいですね(笑)
確かに欧米でも、日本の仏教徒のような統計を取るならば、果たして何パーセントくらいになるでしょうね?
とは言え私も・・・決して他人のこと言えたものじゃないということをイヤと言うほど、知らしめられてます・・・
投稿: zaakai | 2012年11月27日 (火) 21時32分