終末の先に見えるもの
誤解している方がいらっしゃるようなので弁明だけしておきます。
偽善者だと思われようと、詭弁を言っていると感じようとそれはどうぞご自由にお取り下さい。
言っておきますが、私はシリアで行われている虐殺行為を正当化し、喜んでいる変質者ではありません。むしろうんざりです。もう沢山だ!と申し上げたい。
また、アルジャジーラやCNN、BBCなど欧米の飼い犬メディアの一方的な報道ばかり見ていたのでは真実は見えてきません。
私では証明は出来ませんが、シリアでの虐殺死体は2003年にイラクで撮影されたものをBBCがでっち上げたものだと言うではありませんか。
シリア政権が言う「あれはイスラムテロリストの仕業だ」ということも十分ありえます。
そのイスラムテロリスト、シリアの反体制派の背後で誰が蠢いているのか?誰が指南役として、資金面、軍事面で援助をしているのか?誰がそのような世論を作り上げようとしているのか?
なぜ1年以上も経つのに、シリアがリビアのように体制崩壊へと至らないのか?
軍事力がリビアより強固であると言うのもあるでしょうが、それだけアサド政権を支持している国民も多いからだとは言えないでしょうか。
バッシャール=アサド大統領は元々、欧州へと医学を学ぶために留学し、眼科医を目指していた人物です。不幸にも長兄の交通事故死があったため、急遽、眼科医をあきらめ、政治の世界へと足を突っ込んだ人物です。父親時代からの取り巻き軍人連中の圧力というのもあろうかとは思いますけどね。
元々シリアとは安定した国でした。それがなぜあのようになってしまったか?私は市民革命を装ったリビア型の欧米諸国の間接的侵略だと見ております。
リビアは地政学的に言って中東の要衝ですし、その先に見ているのがイランでしょう。そしてそのまた先に見据えているのがロシアであろうかと理解しております。
私は民主主義を否定するものではありません。しかし、腐敗して腐臭がする民主主義ならば、名君による独裁の方がまだマシだという考えです。もちろん、アサド大統領が名君に分類されるかどうかはわかりません。しかし、部族社会の中東に西側の価値観を持ち込もうとしても無理があるのです。独裁でなくては統治できない国もあるのです。
この場合の民主主義とは、侵略を正当化するための手段、詭弁に過ぎないでしょう。
そして国家、その国家を操るパワーエリート連中とはなんと邪悪なことか。
西側諸国だろうが、ムスリム国家だろうが一般市民は総体的に善人でしょう。問題はその邪悪な権力の上にステルス爆撃機のように隠れているサタンの存在も無視できないことでしょう。否、むしろこれが見えてこないと真理に到達することは出来ないのではないでしょうか。
もしくは、イザヤ書17章のダマスコの託宣を取り上げたのが気に入らないのでしょうか?誰だって一つの国家が滅ぶのを喜ぶキチガイなんていません・・・ましてやそれが日本だとするならなおさらです。
でも聖書に書いてある限り無視できますか?出来ないでしょう?解釈が間違っているのならそれでよしです。
だから私は少し前のエントリーに書いたのです。善良なるシリア市民だけでも災いから逃れることが出来て助かって欲しいと。
私はイスラエルのやることは何でも許されると考えるほど、おろかな和製シオニストではありません!むしろエレミヤ書にある「ヤコブの苦難」を今一度体験せねば目が覚めないだろうという考えです。本当のメシヤが誰なのか・・・わからないと思う。
さて核心に迫っていきましょう。
今までの時代であれば、終末など考える必要などありませんでした。しかし地平線上にこれだけ多くの終末のしるしが見え隠れしている今の時代、無視できるでしょうか?好むと好まざるとに関わらず、キリスト者として見たくない、聞きたくないとするならば、むしろその方が問題ではないでしょうか?
なぜこんなに終末にこだわるのか?それはもう人間の力では、誰もが幸せに生活できる理想郷を作り上げることは出来ないと考えるからなのです。時代はそこまで押し迫っていると考えるからです。
グローバル金融、生産拠点の低賃金国家への終わりなきシフト、原発利権を手放さないために、これだけ原油価格が下がり、円高になっても高値で原油、天然ガスを買わされ、値下げ交渉すらしようとしない原発マフィア連中・・・
どれを取ってももう後がないではありませんか。資本主義は近いうちに崩壊しますよ、きっと。それ以上の統治体制などないでしょう。あるとすれば世界人間牧場システムだけです。
仮にかりそめの平和が訪れたとしましょう。しかしそれで問題が解決するとも思えません。必ずまた、欲に駆られたならず者が登場します。それは人類の歴史を見れば明らか。
バベルの塔は永遠に続くと考えるからです。
となると残された希望は何なのか?キリストの再臨、王の帰還、神による統治以外にないではないですか。
偽善者と言われるのを覚悟で書きます。私は仕事柄わかります。「他人が幸せになってくれないと、自分も幸せになれない。自分だけ良けりゃいいなどと言う価値観は絶対に存在できない」と。
その思うところは
「神の義がこの世に顕されますように
神の正しい裁きがすみやかになされますように」
これです。
そのためには忍耐を持って今しばし、待たねばならないでしょう。今だかつてない、これからもないだろう艱難辛苦を体験しなければならないかもしれない。
聖書にそう書かれている以上、じたばたして、美辞麗句並べたって仕方がないではないですか。違いますか?生みの苦しみを通らなければ、千年王国、新天新地は訪れないと書いてある以上それを感受するしかないではないですか。
その途中で肉の命尽きるならば、それもよし。キリストの統治による神の国が到来するするならばこんな命の一つくらい安いもんです。
あるブログにいいこと書いてありました。
「待つことなしに、神の答えを得ることは出来ない」と・・・
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