2024年8月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

« 現代版獄中書簡~フリッツの手紙より | トップページ | キリストの誕生~ちょっと小話 »

2011年12月17日 (土)

ローマ書8章より

神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。
それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。

だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

ローマ書 8:29~39

またまた一週間ぶりの更新、何者かに背中を押されないと指が動かないわがままな人間ですのでご勘弁を<(_ _)>

この箇所は有名なところなので、ご存知の方も多いことと思います。私のポリシーとしましては、「信じるのも自由、信じないのも自由、すべては個々人の自由意志、強制は意味がない」というものなので、興味のない方はこのエントリー、スルーして下さってもけっこうです。

ただ、このことだけは覚えてください。人間の側で差し出された救いの御手を掴む掴まないは自由ですけど、主イエス=キリストはいつも御手を我々人間に差し出されているのだという事を。そこから先はくどいようですが、人間の自由意志。従うのも自由、従わないのも自由です。自由意志・・・それは神であれど、犯すことの出来ない絶対不可侵なものなのです。

つまり↓の通りです。ここはわたしの大好きな聖書箇所なんですよ。

エルサレムの娘たちよ、わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、あなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起こる時までは、ことさらに呼び起こすことも、さますこともしないように。

雅歌 2:7

しかしその一方で

わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。 わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。

雅歌 2:8~10

ここで言う「わが愛する者」とはイエス=キリストのことです。

と、序盤から脱線してしまいました、すみません。

さて、本論へと行きましょうか。

実は今日、ある方からメールをもらい、この箇所が閃いたのです。何だかんだと言いながらも、この「しょうもないブログ」、2006年の8月26日に立ち上げたから・・・約5年4ヶ月ほど続いているんですねえ~、そんな中で、様々な人間ドラマもありました。

罪が消えてなくなるということはなく、「わたしはあなたみたいなタイプは嫌いだ、もう二度と来るな、清々するわ~!」とプッツンした相手も数知れず、また、実の兄弟、家族、親戚並に、否、それ以上かもしれません。仲良くなれた相手も数知れず・・・そのような方々に出会えたのが、この期間のブログ活動の唯一の収穫かもしれません・・・私の顔面めがけてケリを入れてくる人ばかりではありません。しばらくコメない方もいますが、暖かい言葉、励ましの言葉をかけてくれた人を私は決して忘れません。

海外を含め、全国に散らばっているため、物質的な助け合いは限界があると思いますが、その「パンとぶどう酒(み言葉と聖霊のたとえ)」、霊的糧のネットワークは素晴らしいものが出来上がった、私はこれだけは自慢してもいいとさえ思ってます。

孤独な一匹狼のアウトローを自認していただけに、これは想定外でした。やはり人は一人でいるのは良くないのですね、聖書の創世記にあるとおりです。決してわたしなど、出来た人格者からは程遠く、カリスマ性があるわけでもない(涙;)、神のみ業としか思えません。

あとは少しも経済的にも祝されて、生活が楽になれば、言うことないのですがね(涙;)

具体例として、胸が熱くなったメール、手紙、投稿箇所なり、抜粋してみます。

>せっかくここまで苦しんで生きてきたんです。
ええ分かりますよ。ここ(地球)に居るの、しんどいよね、タマランよね、
ここまで来たんだから最後までお付き合いしましょうよ。

>東日本大震災でまる二日停電して、携帯も使えませんでしたけど
私の知らないところで、みんな掲示板で活発に情報交換して
身を案じてくれていたこと・・・私は一生忘れません
私は、あの板のみんなにキリストの内住を見た思いでした

>皆仲間だよ、遠慮なく書いてください。

>狂気に満ちた現代社会において、あらゆる痛みや苦悩の中で、私たちにとって必要な事は、私たちの歩みが嵐の渦中にあるにもかかわらず その真っ只中においても、神は人知れず静かに働かれるという事を知ることです。

“私たちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスの命が、この身に現れるためである。“2コリント4:8-10

しかし、私たちが心得るべきことは、自己を憐れむこと、苦悩、絶望に焦点を当てる事ではなくて、神が私たちのために、計画しておられる事を知ることなのです。

もちろん私たちはそれぞれに問題を抱えています。そして霊的に解決する、それらの問題を「主を賛美すること」によって葬り去ろうとする試み・・・残念ながら、そのことによって完全に消し去る事はできません。しかしこれだけは憶えて下さい・・・これらの事によって、神の全能なる力は、私たちの生命の中から素晴らしいものを、私たちを鍛える事によって、生み出してくださいます。私の言っている事がわかりますか?

あなたに仲間として、友と呼べる兄弟、姉妹がいつも一緒に歩んでくれますように。私は、笑いが主を栄光で輝かせ、疑いが起こった時でも信じ続けること、悲しい時の笑顔、あなたの命を完全なものにする愛、自分自身をよりよく知る勇気、すばらしき主を、よりよく知る信仰のために祈ります。~ by Fritz Springmeier 

もちろんその中心にいる方は、永遠なる大祭司、長子であり、来るべき唯一のメシヤ、王の中の王である主、イエス=キリストであるのは言うまでもありません。やはりイエス=キリストは素晴らしいですよ!

そうなのです。

>わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

とは、まさしく真理なのです。神はこのように、様々な方法で、時には「人を通して」語ってくださる時もあるのです!

このローマ書の箇所が語っている真髄が少しもわかった一日でした。

« 現代版獄中書簡~フリッツの手紙より | トップページ | キリストの誕生~ちょっと小話 »

主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事

コメント

訳により表現の相違はありますが、
ルカ伝やヨハネ伝では

「自分の命までも憎め」というイエス様の御言葉もあります。

素晴らしい言葉だと思っております。
勇気と励ましを頂いています。

また、表現的にもスゴいユーモアが有り、
神様の深い知恵も感じさせてくれる、素敵な言葉だと思います。

聖書の言葉は、この世の価値観とはあまりにもかけ離れているもの、皮肉たっぷりの箇所など、驚き、感嘆を持ってしか読めない箇所がたくさんありますね。

主の生誕の次第など、その典型のような気がします。

ザアカイさん、良かったですね^^
孤独の内(なか)と、現代の混乱の中で、ザアカイさんの「子羊通信」は、私にとって、心の導き、指針となり、慰めとなっています(^^)
最近、神様が私の外側、内側で豊かに働いておらるのを感じます。
ザアカイさん、私たちの神様に不可能はありません!
元気を出して下さい!
Our God is able!!
(スペル等、間違えているかも知れません^^;)

VICTORさん、いつもありがとうございます。
あはは、このようなブログでも、少しはお役に立っているようですね(笑)
おっしゃるとおり、聖書の神は、その辺の祠に住む、神社が焼けてしまったら行く場所のないヘッポコとは違いますからね!
これを悪霊という --;

今年もあとわずか。ここに来て、金正日死亡は大きいですが、油断せず、キリストのみ見上げ歩んでいきましょうかね。

私は自分は救われないのではないかという思いを持っていました。
でもこの言葉を読んではっとしました。
だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
なんと言えばいいのか分かりませんがなんだか救われた気がしたのです。
こんなどうしようもない罪人の私でも神が義とされるということが嬉しかったです。
また救われないのではないかと思ったらこの言葉を思い出そうと思います。
乱文ですいません。

りんさん、取るに足らないものですが、お手伝いできて感謝です。
我々はみんな、問題抱えながら生きてます。義人はいない、一人もいないとパウロがローマ書で言っている通りだと思います。

主イエスに連なっているならば、いつかは悪の道から断ち切ってくださると信じましょう!

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

>主イエス=キリストはいつも御手を我々人間に差し出されているのだという事を。

差し出された手を取る人はなんて幸いなことでしょうね。

主イエスの受難

彼を砕いて痛めることは
主のみこころであった。(イザヤ53・10)

全人類の罪は主イエスの上に降りかかった。

咎が私を圧倒しています。(詩篇65・3)

私は主の激しい怒りのむちを受けて
悩みに会った者。
主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、
御手をもって一日中、繰り返して私を攻めた。(哀歌3・1-3)

私を砕き、
御手を伸ばして私を絶つことが
神のおぼしめしであるなら、
私はなおも、それに慰めを得、
容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。(ヨブ6・9-10)

彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。(イザヤ53・5)

彼は自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て満足する。(イザヤ53・11)

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。(Ⅱコリント5・21)

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。
主こそ私たちの受ける分です。」と
私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。(哀歌3・23-24)

主イエスの激しい苦難は、咎を赦され、死んでいた私たちを生かし、
神の愛を知ることを赦され、
この世の砂漠に、渇いた砂漠に・・・
魂のオアシスを設けてくださり、
いつまでも流れ出る永遠の水を溢れさせてくださる。
主の水は、いつも心を新たに潤し、
不思議な平安と喜びで満たされる。
永遠の水、主の下さった恵み。ハレルヤ!


enjeruさん、いつもありがとうございます。

それにしても旧約聖書には、明らかに主の苦難、そして、そのことを通しての購いの完成の預言を、いたるところに見ることが出来ますね。

なんだかね・・・私など、ほんのちょっとしたことで不満を漏らしてしまいますが、旧約の時代だったら、間違いなく・・・荒野で野垂れ死にしていたことでしょう。

新約の時代に生まれて、執り成し手がいるということは、こんなにもありがたい恵みなんですね。

聖書のみ言葉、主の33年間の人としての歩み、
主イエスは、私たちの苦しみを全てご存知である事。
すべてを、良いものに変えてくださる事、
天の国での喜びあふれる、永遠の命をくださる事。。
ほんとうに、めぐみですよね^^
ヽ(´▽`)/
ザアカイさん、リラックスですよ〜  お薬が増えませんように。。
私の未熟な面や弱い部分を、補強、助けてくださる兄弟姉妹がいて
わたしも幸せです。 
『あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。
あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから…』ヘブル5:11-6:1
 
私はこの3年ほど!! 主の守りと、皆さんの力添えがあって、乳をのみ終わって、やっと離乳食を食べているかんじでしょうか。。  しかし、ザアカイさん、バルナバさん、enjeruさんなど、先輩と比べると。。やはり。義の教え(固い食物)には、まだ通じていないな。。と痛感します。 良いものとをまだ。。見分けられないといいますか。 その賜物がやっぱり無いかもしれないな。。と思います。
義よりも、いまは愛と憐れみ、謙遜の基礎訓練を受けている感じがします。(^-^;  古い、世のやり方や自己流でなくて、主の愛を学び直してます。

自分でブログをつくったりする事ができません。(;;;´Д`) そのために、多くの牧師さんや神学者の達の牧者の働きは持ちろん。。色々な種類の方をまとめられるザアカイさん、積極的に交わりの場を設けられる、るちゃんなどは、すごいな〜と思います。  ものすごい、犠牲を払ってくれていると。。感謝しています。
アンちゃんも、応援してくださっていますが、ザアカイさんなど、多くの 貴重な働きをされている
クリスチャンに引き続き守りがありますように。。。

サマちゃん、毎度さん。
なんのなんの!サマちゃんの成長の早さはみなが認めていることです。
それから何といいますか・・・人それぞれ、役回り、働きは違ってしかるべきで、それらがエボニー&アイボリーで素晴らしいハーモニーを奏でられればいいわけですから。

基礎訓練は大事ですよ。そしてこの基本を忘れて暴走することのなんと多いことか --;
まだまだ、ハンディキャップ・シングルへの道ははるか彼方~(涙;)

サマちゃんのような、愛、寛容、柔和の賜物を備えた人がいないと・・・おそらくこのブログとあの板は殺伐として、今頃崩壊していたことでしょう --;

私みたいなタイプばっかりだったら、誰も寄り付かない(ToT)
自分のいいところを伸ばして行ってください。あとはケースバイケースで、時と必要に応じて、主が何らかの形で備えをなしてくださると思いますから(^_^)v

初めまして。

>私たちが心得るべきことは、自己を憐れむこと、苦悩、絶望に焦点を当
>てる事ではなくて、神は人知れず静かに働かれるという事を知ることで
>す。
>神が私たちのために、計画しておられる事を知ることなのです。

そうありたい、と常に考えています。
ちょうど昨日、ご聖堂で思わずお祈りしていたことでした。

これらをどうやったら知ることができるのか・・・。
自分の内で「これが神の働かれた結果だろう」とか、「これが神のご計画に違いない」と判断してしまうわけにはいかない、と感じてしまうのです。

個人の人生においての神の働きについてだけでなく、昨今の世事についても。
例えば、金融危機も神のご計画?だとすると、デモ隊の人々や金融危機を回避しようとする行為とは、神のご計画に反する人々・事柄となってしまうのか。
それとも、それらの流れも当然、神のご計画のうちなのか。。。

全てが神の働き・ご計画であれば、我々には神が与えて下さったはずの自由意思などなく、完全な運命論のようになってしまいますよね。

幾人かの司祭職の方にご見解をお聞きしてみたりなどしましたが、はっきりご助言を頂けませんでした。

自分が迷っているのだとしても確かな目印をちゃんと見つけていれば、と思うのですが、謙遜の徳を請う身としては、神の働きやご計画について「知る」というより、「そうである可能性を考慮する」くらいしかできない気がしてしまっています…。
変なところで迷って立ち止まったままの子羊の気分です(;д;)

皆さんはどうお考えなのでしょう。

さらさん
はじめまして サマリア人ともうします。
司祭の方に相談されたという事で、カトリックに所属されるのでしょうか。
わたしは、この地上では 自由福音系の教会に所属していますが、
いち クリスチャンとして、ここではお話しさせていただいてます。

運命。。というよりも、私の好きなカトリックのシスターである
渡部和子さんは、神の 摂理 という風に仰っていました。
地上でおこる、金融危機や、さまざまな問題は、全て神の責任というよりも
神の恵みと守りから、はなれてしまったことからくる、罪の当然の結果と
私は感じています。

神は、私たちの霊を、十字架のあがないによって、救ってくださいましたが、
必要以上には介入されずに、私たちが。。罪の報いを受ける事を、
ある程度。。そこから学び、神に立ち返る機会を与えられる為に、
認められている。。のだと思います。
神が災いをもたらしているのではなくて、放蕩息子が苦労したように
人間は、いま神でなく悪魔の支配下、人間の支配下において、苦難を
強いられているのでしょう。

さらさんは、キリストの再臨をしんじていらっしゃいますか?
主は、既に天国への道という素晴らしいプレゼントを備えてくださっていますが、最終的な この地での罪の結果からの苦しみの解決法として、再臨という形で終わらせようとしています。
そして、主イエスの再臨のあと、神の支配のもと。。ほんとうの
幸せと平安を得られるのだと。。私は確信しています。ヽ(´▽`)/


サマリア人さん
どうもありがとうございます。

牧師様にも見解を伺ったことがあります。
聖職者の方は、神の摂理は人間の浅知恵ではわからないのだ、ということを必ずおっしゃいますね。

神の再臨によって、この世、というより人間性が向上する結果になるならば、そうなることを願ってやみません。
いつの世にも、そう願ってきたキリスト者がたくさんいたでしょうね…。

神は全知全能でおられるのに、何千年も、ただ我々を見ているだけなのだろうか。
これまで何千年とほとんど変化が見られないこの世の人間のサガや本質に対し、神はこれ以上何を期待し、待っているのでしょう。
それを、人類に対する神の愛の現れだ、とは考えづらいように思えてならないのです(ノω・、)

いくら人間社会の構造や体制が改善され整ったところで、人間そのものの本質が変わらないのであれば、この世の人の嘆きや悲しみを引き起こす事柄が決してなくならないような気がします。
人の世のありよう、人間というものの本質が根本から変わることはなさそうに思えるのです。

人類が神の恵みと守りから離れたために現世の状態があるとしたら、地上の大半の人間がキリスト者とならない限りは、本質的には何も変わらないままこの世の時が過ぎていくだけなのだろうか…。

とはいえ、過去には、布教を大義名分とした血なまぐさい宣教(侵略・植民地化)活動があったことを忘れてはいけないし、繰り返してはなりませんよね。

確かに、再臨のように世界的規模の劇的な出来事でも起こらない限り、人類の大半がキリスト者となる状況が実現するのは、まずもって難しそうです。

神の再臨、み国の到来の時に生き合わせる人々は幸いな人ですね。
(過去に生きて死んだ無数の名もない人々の人生は何だったのだろう…、とも思いめぐらせてしまいますが)

全知全能のはずの神は何をなさりたいのか。
たまに、神が存在するのかということについて疑念がよぎることもあります。
イエズスもいう主とは、心の平安を得ながら生きていくために人間の精神が自然と生みだした存在ではないかな、と。
今生きている世で確かに神の存在を感じ、信じて生きたいだけなのですが、度の過ぎた願いなのかな、と感じることも。

周囲の信徒さんやサマリア人さんのような人の確信は、素晴らしい恵みに思えます。

さらさん
この世の多くの問題や苦しみをみると、早く主の再臨が来て
全てを素晴らしい状態にしてほしい。。と思ってしまいますよね(;д;)

過去になくなられた方で、主イエスを信じている人は
天国で報いをうけていると思います。
その他のひとは。。黄泉(シュオル)におかれているといわれていますね。
慰めの場所と、苦しみの場所。。 そして再臨ののち、最後の審判のあとに
最終的に、悪魔と、命の書にないものは、地獄(ゲヘナ)に送られる。。
と考えられます。 詳しい事は。。神しかわかりませんが。
死後のことは、いろいろ教派や牧師さんによって、解釈も分かれますが。。私は
以上の、見解を信じています。(もちろん断定はしませんが、支持しています)
詳しくは、久保牧師が、キリスト教サイトでセカンドチャンス論について
話されています。

ただ、子羊通信でも、死後の見解(セカンドチャンス)に関しては意見はいろいろ別れています。 ので、一意見として。聞いてください。^^
どちらにせよ、神は不公平な方ではなく義で、愛あるお方ですから、正しいご判断をされるのでしょう。(*^-^)

人間は愚かな歴史を繰り返してきましたよね。。 でも、歴史から学ぶ事はなく、結局 自己中心的な思いにかられて、争って多くの犠牲を作るばかりです。
でも、多くの無神論のひとは、科学や人間の知恵がすべてと、いまだに
信じているのですよね。 全能の神がこの世界を創造したと、受け入れない
人々は。。沢山います。 ほかの人間が作った神々を信じている人もいます。

神が人間が努力して、限界まで発展する時間を十分に与えなかった。。とは文句や言い訳ができないくらい、ぎりぎりまで、待っているのだと思います。
もちろん、人間は時に無力なのも、限界があるのも、わかっている人も沢山いるのですが、 それでもかたくなに。。神に頼るという事ができない。 最後まで
自分の力だけに頼る人も多いというのも悲しい事実ですよね。
人間が、神を愛し、従順になるまで。。天の父は、耐えていらっしゃる事と
思います。
人々が、切に神の介入を望む事ができますように。ヽ(´▽`)/

多くのかたが、神と和解されて、天国や再臨後の新天新地での幸せな生活が出来るといいですね。

年末ちょっと仕事が忙しくて、クイックレスできずすみません。

さらさん、率直な魂の慟哭、正直で素直な見解ありがとうございました。
しかと受け止めさせていただきました<(_ _)>
私の頼りになる^^;霊的な娘?であるサマちゃんが、あらかた言いたい事書いてくださったので、特にありません。

理想と現実のジレンマ・・・この世にいる限りなくなることってないのでしょうね。

わかったふりして偉そうに語るつもりはありませんが、神は人類にとことんまで、納得するまでやりたい放題やらせるのだと思います。

そして必ず、ベストのタイミングで介入されると私は信じます。再臨の時はじめて人類の救済計画が完成するはずだと私は信じます。

それが

>神が私たちのために、計画しておられる事を知ることなのです。

になるのかもしれませんね。

私では到底及ばず、嘘つきになるので口にしませんが、わが師匠が言っておられました・・・↓

「神とキリストの計画のためならば、わが命などちり芥です。わが思いなどどうでもいいのです。」

私では・・・なかなか言えません --;

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ローマ書8章より:

« 現代版獄中書簡~フリッツの手紙より | トップページ | キリストの誕生~ちょっと小話 »