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2011年11月 7日 (月)

昨日は聖餐式でした

わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。だから、ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。
だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。

第一コリント 11:23~28

たまにはタイプの違った信仰に関する記事を書いてみるのもいいでしょう。
正直なところ、書かないというより、書けない(涙;)

昨日の教会でのメッセージ。牧師先生、いいこと語ってくれたので。上記の箇所をすべて網羅してくださいました。
知らない人もいるかもしれないので簡単に書きますが、プロテスタントの聖礼典には洗礼(バプテスマ)と聖餐の二つがあります。
カトリックは --;?・・・懺悔=告解もはいるんだろか?秘蹟とか言ってもっと多いようですが、知らないのでまあ、いいでしょう^^;、知る必要もないですし。聖餐は「聖体拝領」とか言うようですね。

この人だ~れ?♪誰でしょね~(^^♪♪ と顔写真見せられて・・・サタン、じゃなかった --;
ベネディクト16世教皇様ではありませんか!と答えられればそれで十分です(あまり刺激するのはよくありませんね --;、ジョークが通じないと困るし)

以下のような気づきを与えられたので記事にしてみようかと。私なりにアレンジして、肉付けしてありますのでそのつもりで読んでください。

ある教会で聖餐式の時、パンを吐き出した信徒がいたんだそうです(驚;)
その理由というのが、「私の信仰では聖餐に与る資格がないから」
と言うものらしかった。
そこで牧師先生は問いました、「この人の信仰は正しいでしょうか?」と。
答えは当然、この信徒の聖餐に対する理解は間違いです。

そうです、へりくだる(謙虚さを知る)事と必要以上の自己卑下は違いますからね。
キリストは手本であって、基準ではありません。何万年かかろうと、到底及ぶものではありませんから。

我々人間では、どんなにがんばり、努力したところで、神の清さには当然及ぶものではなく、自力で救われることはありません。よって、私は次元上昇、アセンション、魂の浄化、進化なるニューエイジ的考えはまったく持ち合わせていません。それどころか、サタンによる巧妙なる惑わしであると思ってます。
我々は聖書から学び、エデンの園でサタンの誘惑に乗ってしまったエバの轍を踏むべきではありません。

神は人間がどうにもならないので、見るに見かねて、哀れに思い、御子なる主イエスをメシヤとして、生贄の傷一つない子羊として、地上に遣わされました。

それは、ヘブル書にもあるように、たった一度だけご自身を犠牲として捧げられ、我々の罪を贖い、仲介者として神との和解を講じてくださり、その尊い犠牲の血潮により、我々は罪赦される存在となりました。これは既に「やってしまった」ことであり、「完了している」過去完了形なわけです。
そこには何一つ加えるものはない。まったく持って完璧、主イエスにしかできなかったパーフェクトな業であったのです。「たとえ死んでも生きる」の真髄がここにあります。

罪の贖い、復活、再臨という三点セットですね。

こちらから、差し出されたキリストの手を握るならば、罪赦される者となれるのです。
それが新約=主イエスの契約の血、キリストご自身が言われた「わたしの血による新しい契約」なわけです。これがわからないと、どんなに終末論、陰謀論を語ろうとナンセンスとなります。だって、待っているのは滅びなのですから。

要するに

罪の赦し
=第一の天(物質的な地)、第二の天(物質的な宇宙)、第三の天(黄泉を含めた霊界)という全宇宙に対する赦しの宣言であったわけです!ハレルヤ~以外のどんな言葉があるでしょうか?

それを記念として、常に信仰の根幹として執り行うのが聖餐のパンとぶどう酒なわけです。
よって、私は「過ぎ越しの日」にやるのが最も聖書的ではあるだろう、と考えてましたが、特にこだわる必要はないと考えが変わりました。恵みなのだから、極端な話、毎週礼拝のたびにやったっていいのではないでしょうか。ちなみにうちは毎月第一日曜日にやってますがね。実際、教会によってまちまちのようです。

どうです?主イエスこそがキリスト(メシヤ)であると信じるだけでいい。特別な修行など要りません。ただただ、一方的な神の恵みをありがたく頂戴しようではありませんか!!

くどいようですが、最後にもう一度言います。魂の進化により人間は超人、神人になるなどと言うサタンの毒水を飲まされ安心している場合ではありません。時は確実に迫っている、救いはキリストの名以外にはあり得ません。
「超人思想」を説いたニーチェの最後は発狂でした。
そうじゃないと、終末論を語り、陰謀論を研究して暴こうと、そこには虚しさが残るだけですから。

人間とはある意味「神を捜し求める旅」をこの世でしているようなものです。
「空の空、空の空、いっさいは空である」で終わらないために。

主イエスはいつでも我々の心に語りかけてくださってます。「早く降りてきなさい。今日私はあなたの心に泊るから」と。

わが愛する者の声が聞える。見よ、彼は山をとび、丘をおどり越えて来る。
わが愛する者はかもしかのごとく、若い雄じかのようです。見よ、彼はわたしたちの壁のうしろに立ち、窓からのぞき、格子からうかがっている。
わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。

雅歌 2:8~10

わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。
よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。

イザヤ 65:1~2

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主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事

コメント

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

最後の晩餐。
主イエスが受難を受けられる前、
弟子たちとした最後の食事――過越しの食事。

主の赦しの犠牲を象徴するパンとぶどう酒。
赦しのゆえに――流された血、裂かれた肉。
キリスト者がその恵みをいつも覚えているように
ずっと聖霊によって執り行われてきた聖餐式。

その食事は天国に繋がっている。

「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ14・15)

神は天でキリスト者のために宴会を催される。

あの方は私を酒宴の席に伴われました。
私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。(雅歌2・4)

地上で弟子たちと共に食事をされた主イエス。
深い愛をもって共に天国で食事をしてくださる主イエス。

万軍の主はこの山の上で万民のために、
あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、
髄の多いあぶらみと
よくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、
万民の上をおおっている顔おおいと、
万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、
永久に死を滅ぼされる。
神である主はすべての顔から涙をぬぐい、
ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。(イザヤ25・6-8)

主の栄光の中で共に食事をする喜びはいかばかり・・・。
嘆きも労苦も涙も過ぎ去り、満たされた祝福に心は躍る。

あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、
天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓につきます。(マタイ8・11)

わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、
わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。(マタイ26・29)

>あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、
天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓につきます。(マタイ8・11)

>わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、
わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。(マタイ26・29)

enjeruさん、本当にこの事が成就するのが待ち遠しいですね。
顔見知りもいれば、会った事はないけど、知っている人もいるでしょうね。
また、「はじめまして」という方もいるでしょうね^^;

早く来ないかなあ~、マラナタ。

ザアカイさーん(*^_^*)

聖餐の記事ですね~、お珍しい・・^^
それにしても、口から吐き出すくらいなら最初から食べなきゃいいのに、と思ってしまいましたァ。(笑)

けど、この人の気持ちもわからないでもないです。
Ⅰコリント11:22~
「もしふさわしくないままでパンを食べ主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが吟味して・・・みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。
そのために、あなたがたの中に、弱いものや病人が多くなり、死んだ者が大勢います。」

救いの恵みは、感謝して素直に受けるべきだけど、誰かを憎んだままとか赦さない心を持ったままでは聖餐を受けられないですね。
死人まで出ているとは!!
なかなか、ここまで続けて読まれないから、るちゃんは最近まで気が付きませんでしたよ・・

M牧師のとこの聖餐式は、飲み食いの前に、自分を吟味して、赦していない人がいたら、その場で赦す、とかやってるようです。

思えば、以前るちゃんは親を超憎んだままパン食べてたし~ブドウジュース飲んでたし~

だから、肉体的にいつも不健康だったのかな・・・(怖)


聖餐式のパンとブドウ。。いや 本当に冗談抜きに
きちんと悔い改めと許し(ゆるしたいという気持ちを願って)を祈ってから
、こころして食べた方が良さそうですね。 TT

そういえば、今更わかったのですが アセンションって
もともとの意味は、キリストの昇天の意味だったのですね。
ラテン語だったのか〜 それをニューエイジが次元上昇という意味として
捉えているのですね。
まったく〜 どこまで、偽物好きのサタンなのか。。。(`ε´)

ニューエイジの信奉者の方達は、サタンが偽りもの、神の神事なるものの偽物を
つくるのが好きな反抗者と、知っているのですかね。 というより
悪の存在を信じていないのでしょうか。

>聖餐の記事ですね~、お珍しい・・^^

→^^;・・・二ヶ月に一本くらい?福音系の記事もアップするんですよ。ただ --;
どうも本業?とは違うので、記事をまとめるのが難しい(^^ゞ

>なかなか、ここまで続けて読まれないから、るちゃんは最近まで気が付きませんでしたよ・・

→教会ではなかなかここまでは語らないけど、これも真理ですね。それにしてもコリントの教会って、想像以上に、聖書に書いてある以上に、かなり問題ありだったようですね --;

そう言えば、カトリックの「聖体拝領」ですが、パンを手でもらわず口で犬みたいにもらうようですね。すべての教会でやっているのかどうかは知りませんがね。

何でもこれまた私の得意分野なんですけど(笑)、カトリックでは「パン、ぶどう酒化体説」を取っているようで、神父が祝福すると、文・字・通・り・・・キリストの肉と血に変化するというオカルト信仰を本気で信じているそうです。
カニバリズム=食人族かい(T_T)/、と思わず突っ込みいれたくなります(-_-;)

そしてなぜ、手での聖体拝領を禁じたかというと、欧米ではミサにサタニストが紛れ込むそうで、そのパンを持ち帰り、黒ミサの儀式でそのパンを引きちぎったりして卑しめるんだそうです --;

>みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分を裁くことになります。

をまさに地で行く、いや逝く行為ですわね。

F・スプリングマイヤーの研究レポートだから、信憑性は高いのではないかな?
私は納得してしまいました、そうでなきゃなんで?そのように小バカにされるような真似までさせられ、聖餐に与らねばならんのかと --;

あら、サマちゃん、行き違い。

> アセンションってもともとの意味は、キリストの昇天の意味だったのですね。
ラテン語だったのか〜 それをニューエイジが次元上昇という意味として捉えているのですね。
まったく〜 どこまで、偽物好きのサタンなのか

→あら、そうでしたか。教えてくださりありがとうございます。似てるとは思ってたんですけどね --;
でもそこには、「罪を認め悔い改める」という行為がないので、偽モノだなとは思ってましたがね^^;
聖書を知れば、それがいかにサタン的であるかわかるのですけどねえ~

どうしても人間って生き物は、なかなか自分を低くしてへりくだるという事がお嫌いなようで --;
自分もそうだったからよくわかる(涙;)

書き忘れました。公平を期すために、またフリッツの名誉のために言っておきますが、情報ソースはカトリック信徒からの内部告発だそうです。

私の役回りは「汚れ役のドブさらい」であることは重々承知してますです、ハイ^^;

>カトリックの「聖体拝領」ですが、パンを手でもらわず口で犬みたいにもらうようですね。

今では手で受け取ることもできますが、長い長い論争が続いています。「手による聖体拝領」でぐぐってみてください。黒ミサ説は知らなかったです。聖なる体に手で触れるのは無礼だからという説しか知らなかったです。ちなみに手で聖体拝領をする場合にも礼儀作法があります。

で、現代の神父がどうするかというと、手に持って信者の出方を待ちます。手を差し出したら手に置き、口を開けて上を向いたら舌に置きます。

ある程度の規模になると、神父一人では さばききれないので、神父の横に 助祭と一般信徒(聖体奉仕者と呼ばれることもある)が並んでパンを配ります。でも化体説↓

>神父が祝福すると、文・字・通・り・・・キリストの肉と血に変化する

を信じている信者は神父の列にしか並ばないので、助祭と聖体奉仕者の列は人がいないのに、神父の所だけ長ーい列になります。

パンをワイン(葡萄ジュース)に浸さず、カップから飲む時は、一つのカップを皆ですするのを嫌がってパンだけもらってワインは素通りする人もいます。

アメリカの教会では、そのまま席に戻らず帰ってしまう人がかなりの数います。ツワモノは、聖体拝領の時間にふらりと入ってきてパンを受け取ったその足でドアから出ていきます。でもその人にしてみれば、神父が祝福したパンを体内に入れれば(お守りをもらえれば)安心なのです。普段は教会に行かないけれど、夢見が悪い時に悪魔祓いに聖体拝領に行く人もいます。

このようにカトリックの聖体には「お守り」「お祓い」的な要素が多分に含まれています。使われるのはIHSと刻まれた真ん丸のパンです。IHS はイエスという名前の最初の三文字をギリシャ語表記したとバチカンは言うのですが、ギリシャ神話のイシス(女神。聖母。ローマで崇拝された)・その子ホルス(太陽神)・セブ(=ゲブ 大地神)を表しているのではないかと言われ、カトリック教会のIHSロゴは太陽の光のような装飾がなされていることが多いです。

aguaさん、本場からのレポートありがとうございます。
それにしても詳しいですね・・・おそれいりました。

>ツワモノは、聖体拝領の時間にふらりと入ってきてパンを受け取ったその足でドアから出ていきます。

→はは~ん・・・この中にトンでもない輩が紛れ込んでる可能性がありそうですね --;

>このようにカトリックの聖体には「お守り」「お祓い」的な要素が多分に含まれています。

→なんだか日本の神道と似ているところがありますね --;

>口を開けて上を向いたら舌に置きます。

→ --;
やはり私ではカトリックのミサに出席するのは無理かも?


ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

子羊の御怒りの時。
すなわち患難時代・・・。

それは、義人アベルの血(創世記4章)からこのかた、
神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、
地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。
まことに、あなたがたに告げます。
これらの報いはみな、この時代の上に来ます。(マタイ23・35-36)

義なる神、主イエス。
神の忍耐が終わるとき、子羊の怒りの時が始まる。

だれが御怒りの力を知っているでしょう。
だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。
その恐れにふさわしく。(詩篇90・11)

反キリストの登場・・・。
彼は、子羊の怒りの実現に用いられる器。

主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、
悪者さえもわざわいの日のために造られた。(箴言16・4)

子羊の怒りが地上で繰り広げられる時、誰がそれに耐えられるでしょう。
天変地異、激しい災害、反キリスト、偽預言者。
すべて用いられて子羊の怒りが地に実現する。

罪人たちはシオンでわななき、
神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。
「私たちのうち、
だれが焼き尽くす火に耐えられよう。
私たちのうち、
だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」(イザヤ33・14)

主イエスの救いは、恵みの時の神の子を神の御怒りから守って下さる。
主は最後の忍耐を持って人の救いを待っておられる。

私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、
それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。(Ⅱペテロ1・16)

聖書の預言は必ず実現し、主イエス・キリストが真実の神、唯一の生きた神であることを
必ず知る日が来ることでしょう。その日は近い。

神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、
主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
(Ⅰテサロニケ5・9)

enjeruさん、いつも書き込みありがとうございます。

なんだか世の中極まりつつある感がします。
本日2011/11/11に怪しげな儀式がギザのピラミッドで行われるかもしれないとかで、11日いっぱいエジプトの考古学庁が閉鎖するとか。
いくらなんでもまさか?ここまでやるとは思いませんでした・・・

またロシアの打ち上げた火星探査衛星ロケットが失敗に終わり、今月中に地球に落下するとか。
その中に中国製探査機が内蔵されていて、有毒物質を含んでいるとか。

なんだかね・・・預言の成就がもうそこまで来ている気がします。

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

栄光の輝きの中。
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
その栄光は全地に満つ。」(イザヤ6・3)
天使の賛美の歌声に包まれて、
地に下られた方。
肉の衣を着た中に神がいた。
その名はイエス。
肉の衣は、みすぼらしい貧しき者。
その内に宿る神の偉大な力。
見通す目、見通す心、開かれた耳。
全知全能の力がそこにある。
人々の病の叫びを聞き、その痛みを憐れみ、癒す力。
罪の深みに陥った人の罪を赦し、立たせる力。
悪霊を押し出し、神を賛美させる力。
死人を生き返らせる力。
空腹な群集の腹を満たす力。
暴風を静める力。
偉大な力を持たれた神の子イエス。
イエスの心は、さ迷う人々の姿に涙す。
なぜなら神は愛だから。
その偉大な力を用いず、十字架の待つゴルゴダに向かわれた。
一足、一足、よろめきながら運ぶ十字架の激しい重み。
罪の重み。人類の咎の重み。
偉大な力を無にしてへりくだられて
愛の主は、身代わりの刑罰を受けられた。
大勢の神の子を得るために。

彼は、自分のいのちの
激しい苦しみのあとを見て、満足する。(イザヤ53・11)
彼は多くの人の罪を負い、
そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53・12)

多くの人が主イエスを仰ぎ見て救われますように。

聖書はこう言っています。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10・11)

enjeruさん、いつも投稿ありがとうございます。

どうもここのところ、霊的にあまり調子がいいとは言えず・・・
どうも気づきが与えられず、閃きが・・・ない。
よって更新が滞ってますが、それにもかかわらず、コメント入れていただけますこと厚く御礼申し上げます。

あんがいこういう時ほど、要注意なのかもしれませんね。
偉大なる大祭司、真理である方、主イエス=キリストを見上げ歩まねば。

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