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2011年6月 4日 (土)

クオ=ヴァディス

『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』(Quo Vadis: Powie?? z czasow Nerona)は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる歴史小説である。一般には単に『クォ・ヴァディス』として知られる。「クォ・ヴァディス」とはラテン語で「(あなたは)どこに行くのか?」を意味し、新約聖書の『ヨハネによる福音書』13章36節からの引用でもある[1]。本作はネロ帝治下のローマを舞台として、若いキリスト教徒の娘リギアと、ローマ人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を活写している。

シェンキェヴィチはこの作品を執筆するのに先だってローマ帝国の歴史を綿密に研究し、歴史的な詳細を精確に描きだした。本作に歴史上の人物が登場してキリスト教以前の主張を生き生きと伝えるのはその顕われである。

1895年にポーランドの3つの新聞に連載され、1896年に出版された。この時以来、日本語を含む50以上の言語に翻訳されている。この小説はシェンキェヴィチのノーベル文学賞受賞(1905年)に貢献したとされる。

以上、ウィキペディアより抜粋引用~

根はマジメな?(だと思う^^;~あくまで自称 --;)ザアカイ=オクタヴィア=アントニウスです・・・って、なぜか古代ローマ風(笑)

ええ、世の中、表面的には小康状態。これといって命題として取り上げるべき話題もないので、ここのところ信仰的なエントリーが続きます。
実は、以前から読んでみたかったと切に願っていた「クオ=ヴァディス」。ところが、「BIG BEN(ツタヤグループか?)」というレンタルCD,DVDショップで、上中下全三巻のDVDを発見!全部で90分x3で270分ですが、面白くて二晩で見ちゃいました。

私がレンタルショップの「ファミリー」コーナーで見つけたのは、1985年のテレビ作品(日本未公開)、2001年にポーランド語で作られたイェジー・カヴァレロヴィチ監督の『クオ・ヴァディス』でした。お勧めの一作です。

クリスチャンであるヒロイン=リギアにより、その女ッたらしで粗暴な性格から、優しさと思いやりに溢れる愛ある性格に変えられ、回心した主人公マルクス(まるでかつての自分を見ているみたい? (ToT))との純愛物語もいいですが、リギアの従者=ウルルス(忠実な怪力を持った下僕)とマルクスの叔父のペトロニウスも、いぶし銀としていい味出してたし、暴君ネロを演じていた俳優もうまかった。

そして老ペテロとパウロが地下教会の指導者として登場します。コロッセオでのライオンの餌食刑、磔刑、火あぶり刑と三連続で残酷な描写も多いのですが、実際、ネロ時代のクリスチャン迫害、殉教は、あのような目を覆いたくなるような冷酷無比なものであったろうし、あの忠実かつ健気な姿には勇気を与えられるし、涙を誘われます。天において有り余る程の報いを受けていることでしょう。

スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。
わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。
あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。
耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。

黙示 2:8~11

とはまさに、帝政ローマによる迫害の時代の教会でした。

そしてクライマックスはやはり何といっても、部下が謀反を起こし、ネロがローマから逃亡する途中殺害され、さらにペテロ処刑令が発せられてから。

弟子たちはペテロにローマを脱出するように願います。あなたひとりは私たち数万人にも当たります、どうぞ逃れてくださいと。
ローマを後にして郊外に出たペテロは空に輝く光を見ますが、それはやがてペテロの横を通り過ぎようとします。従者の少年の目には何も見えないのに、ペテロの目にはその光の中に主イエスを見ました。ペテロは問います。「クオ・ヴァデス・ドミネ」“主よいずこに行き給う”・・・
主は答えられます。「ペテロよ、あなたが私の羊を捨てて逃れるなら、私はローマに行ってもう一度十字架に掛かろう」と。

「主よ申し訳ありません」と老ペテロは地にひれ伏し、「ローマに戻るぞ」と従者に告げローマに戻ります。涙、涙でモニターがぼやけます。不思議とこの歳になると、悲しみの涙というのはほとんど流さなくなりましたが、感動、感激の涙がすぐ流れる(T_T)

映画はここで終わるのですが、伝承によるとペテロは逆さ十字架にかかり、殉教したとあります。

とにかくこの筆頭弟子でもあった使徒ペテロ。パウロのように博学でもない・・・たびたび失敗も繰り返しました。それでも私、使徒の中で一番大好きなのです。なぜか?聖書を読めばわかりますが、とにかく人間くさい!!自分を誇ることなく幼子のように主に従ったその健気さ、素直さ。まさしく牧師の雛形ですよ、アーメンです!

ユーチューブ動画を見つけました。

プロモーション用のやつと、ラストシーンのやつと貼り付けておきます。
例のシーンは、7分過ぎあたりです。これが日本語吹き替え版だと、天からの声が発せられ臨場感があるのですが、ポーランド語だと・・・「クオ・ヴァディス・ドミネ」だけしかわかりません --;

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主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事

コメント

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

まだキリスト者でなかった15歳の時、「死」の問題に悩み、死の解決を求めていた最中、
手にした本・・・『クォ・ヴァディス: ネロの時代の物語』

無実の罪で処刑される人々・・・キリスト者。
その死を前にした姿に心打たれました。

~抜粋
場内全体につぶやきが起こった。
「キリスト教徒だぞ!キリスト教徒だぞ!・・・」

鉄の格子がきしって、暗い出口の奥でマスティゴフォルスたちの「砂場へ!」といつもの叫び声が響いたかと思うと、たちまちのうちに砂場は獣の皮をまとった森の精のような人々の群れでいっぱいになった。
皆は足早に、いくらか熱にうなされたように駆けてきたが、円形の砂場の中央まで来ると、並んでひざまずき、両手を上に上げた。
観衆は、それを命乞いだと思い込み、その臆病さに腹を立て、足を踏み鳴らしたり、口笛を吹いたり、空になった葡萄酒の容器やかじった骨を投げたりして、
「獣を出せ!獣を出せ!・・・・」と口々にわめきたてた。
が、突然思いもかけない事が起こった。
毛皮をまとった群れの中から歌声が沸き起こったかと思うと、たちまちローマの闘技場が始まって以来、はじめて人が耳にする歌が響きだしたのである。

 キリストは統べたもう!・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それを聞いて観衆は仰天した。受刑者たちは天幕のほうに眼をあげて歌っていた。
青ざめてはいるが、いわば霊感に満ちた顔がみなの眼に映った。
                        ~抜粋終り~

死にゆく人の・・・無実の死にゆく人の・・・歌声。
猛獣に殺される寸前の人が、到底とることが出来ない姿。
それが、死の彼方の希望・・・キリストだと分かったとき、私の心が確かに動きました。そこには、本物の希望があるのだと・・・。
死を超えた何かが存在するのだと・・・分かりました。
それから、数年後、イエス・キリストを神の御子として信じ受け入れました。肉を剣や獣が引き裂こうとも、私たちの命は永遠にイエスさまと共に生き続けることを、多くの人が知ることが出来ますように~!

これらの人々はみな、信仰の人として死にました。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、
地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
                                     (ヘブル11・13)

enjeruさん、コメありがとうございます。

そうですか、15の時読んだのですか・・・以前も少しコメントに書いていたと記憶していますが、この小説がキリストへと誘うきっかけだったわけですね。
コロッセオで死の間際に跪き、賛美歌を歌う姿は、涙なくしては見れません。かわいそうだとか、気の毒だというようなものではなく、もっと何というのかな?崇高なものに触れた時に流れる涙なんですよね・・・魂が振るわれるとでも言うのでしょうかね。

また、からだを殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

マタイ 10:28

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

『クォ・ヴァディス』は、2つの作品のDVD、全て見ましたが、
小説にまさるものではありませんでした。

ペテロが、迫害に遭い、殉教の死を目前に控えた聖徒に語るメッセージは、感動しました。
紹介しておきますね。

~抜粋
「なぜあなたがたは嘆くのです?・・・・神は自ら進んで苦しみと死に身を委ねられました。それなのにあなたがたは、神がそれを免れさせてくださることを望むのですか?信仰薄き人々よ!あなたがたは神の御教えを理解しているというのですか、神はあなたがたにこの世の生命だけを約束なされたのでしょうか?
今、神はあなたがたのところへ来られて『私の道を歩みなさい』とお告げになっておられる。そして、あなたがたをご自身の元へ引き上げようとなさっておられる、それなのにあなたがたは、両手で大地にしがみついて、『主よ、助けたまえ!』と叫んでいます。
神の御前では一片の塵あくたにすぎない私も、あなたがたに対しては神の使徒であり、代理人なのです。その私がキリストの御名おいて申し上げます。あなたがたの前にあるのは死ではなく、生命です、苦しみではなく、限りない喜びです、涙や呻きではなく、歌声です、奴隷の身分ではなく、王の地位です!
やもめのご婦人よ、神の使徒として私はあなたに申します。あなたの息子さんは死にません。栄光に包まれて永遠の生命へと生まれるのです。そしてあなたはやがて息子さんと一緒になるのです。罪もない娘さんたちを首斬り役人どもに辱められた父親の方、私はあなたに約束します。やがてあなたはヘブロンの百合の花よりも白い姿の娘さんたちに会うことになるでしょう。父親を失った子供たちから引き離されようとしている母親たち、父親を失おうとしている人たち、嘆き悲しんでいる人たち、愛する人の死を見ようとしている人たち、悩み苦しんでいる人たち、不幸な人たち、恐れている人たち、これから死ななければならない人たち、キリストの御名においてあなたがたに申し上げます。あなたがたは夢から覚めたように幸福な目覚めを覚え、夜が明けたように神のあかつきを仰ぐでしょう。
キリストの御名において、あなたがたの眼から鱗が落ち、心が燃えさからんことを!」~抜粋引用終り~

患難時代、大勢の殉教者が死の苦しみを通されるとき、このペテロの励ましが慰めとなりますように~!

enjeruさん、補足、追加ありがとうございました。
そうでしょうね、ラストシーンが中途半端と言っちゃ、中途半端でしたからね。小説を先に読んでしまうと物足りないかもしれませんね・・・
私は下巻の内容をそれとなしに、HP礼拝メッセージで読んで知っていただけでしたので。

昨日の礼拝メッセージが出エジプトから荒野のたびへの出発の場面だったせいか、ちょと示唆が与えられた気がしてます。

イスラエルの民、ましてやモーセさえもあの時は、40年間荒野を彷徨わねばならないとは教えてもらってなかったでしょう。その先にあったのは苦難と試み・・・ふるいにかけられ、信仰が試される。

カナン入りが見えた時は、あのモーセでさえヨシュアへとバトンタッチ・・・おおよその立ち位置はわかっても、自分の運命とその明確な時まではわからない。

今の我々の置かれている状況と何となく似ている気がします。そしてモーセとペテロのおかれた立場・・・なんとなく共通するものを見出しますね。
この世において約束のものは受けなかった。
まさにヘブル書の「この世では旅人であり、寄留者であった」わけですね。

この先、自分が結果どう転んでも、偉大な信仰の先人たちには学ぶべきものが多いですね!!

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