倒されても滅びない
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
第二コリント 4:8~10
ブラジルへ帰国された前任の牧師先生からメールが届きました。そこで紹介されていたユーチューブ動画です。
確かに今は惑わし、嘘、偽りが跋扈しているので、御霊の助けを借り、情報を収集、分析し、自分の頭で考え、勉強して理論武装することは必要でしょう。また人類の歴史上、我々の立ち位置を確認するのは有益だと思います。そうじゃないと敵の術中に陥ります。
しかし信仰とは、学問とは違います・・・どんなに理屈をこねて、相手を論破したところでそこには何も残らない。
最後にものを言うのは理屈じゃありません。自分の心にどのような形で響き渡るか、その感覚じゃないでしょうか?
何も聖霊のバプテスマを受けてなくとも、異言を語れなくとも、聖霊体験というのはあります。どのような形で主イエス・キリストを受け入れたか、それはその人だけの聖霊体験でしょう。
彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。
ルカ 24:32
のような体験が誰しもあるはずです。
たしかモトイさんのブログだったでしょうか?彼がまだ信仰を持つ前、ある姉妹を「キリスト教から脱却させる為?」理論武装して論破したという話がありました。
そのとき、その姉妹の何気ない言葉・・・「でも、信じてるんです・・・」
この何気ない一言には何者も勝てない。理屈はいりません、この何気ない幼子のような素直な言葉、これで彼は回心したと確か?証していたような^^;
これこそ最強の武器なわけですね。私もこのエピソードには心が燃えました<(_ _)>
それ以来私も「必要のない」不毛な論争、特に「アカデミック色の強いやつ」は極力避けるようになりました・・・時間の無駄ですし。
とはいえ、人間そう急には変われませんが --;
さていつものごとく前置きが長くなりました。
なお福島第一聖書バプテスト教会のHPは↓です。
http://f1church.com/
もう一度いいます、理屈はいりません・・・素直な気持ちでワッチしてみることをお勧めします。「心が内に燃える」感覚が呼び起こされますように。
そう、我々は倒されても決して滅びないのです!!
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ザアカイさん、皆さん、こんばんは。
地震も津波も破壊も放射能も・・・。
あらゆる災害が、私たちキリスト者を襲うとき、
目に見えるもの全てが絶望の淵にあるように思えるとき、
神の愛の御手は、ありあまる天の豊かな宝の恵みの窓を開いて下さり、
必要を満たして下さる。
エリヤを養ったカラス。
現代でも、聖徒の差し迫った必要に応じ、
聖霊の翼に乗って必要を運んで下さる。
永遠の腕が下で支えて倒れないように支えて下さる。
その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。
主がその手を支えておられるからだ。(詩篇37・24)
この神の愛から私たち決して離されることはありませんね。
世が暗く、罪が増し加わっても・・・。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主イエス・キリストにある
神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ8・35-39)
福島第一聖書バプテスト教会の牧師さんの証、感動しました。
投稿: enjeru | 2011年5月14日 (土) 21時08分
enjeruさん、いつもありがとうございます。
光あるところに陰がある・・・とは、がきンチョの時みた漫画の導入部ですが、
「闇深きところに光あり」のほうが、真に迫ってますね。私もこの牧師先生、本物のキリスト者だと動画見ていて、心が熱くなりました。
おそらく主はあれだけの苦難にも耐えうる、そして羊たちを導く器であると信頼したからこそ、あれだけの艱難をお許しになったのかもしれない・・・と、私は感じました。
きっと、我々日本人は福島原発事故を乗り越え、まだまだこの国にいるであろうレムナントを探し出して、神国日本の底力を全世界に見せることが出来ると自信が湧いてきました。
そしてひょっとしたら、イスラエルのユダヤ人のレムナントを悔い改めに導くヨセフ的役割がこの国にはある可能性も同時に見出しました。
この国はユダというよりエフライム的かもしれませんね!!
このエントリーのもう一つのキーワードは、よみがえり=復活ですね。
投稿: zaakai | 2011年5月14日 (土) 22時40分
闇に生まれ闇に消える、それが忍者の定めなのだ・・・
僕の定めもそうなんだろうな・・・という思いがよく浮かびます。
でもこの福島第一聖書バプテスト教会の先生の証し、素晴らしいですね。
そうだキリスト教は復活だよみがえりなのだ。私たちもよみがえるのだ。
まるで水の上を歩くように、エリヤを養ったカラスのように。カラスが山ほどいるんです・・・
涙がでますね。迫力あります。励まされます。
良い証しの紹介ありがとうございました。
投稿: たろ | 2011年5月15日 (日) 22時56分
たろさん、いつもありがとうございます。
私もどちらかと言うと、忍(しのび)的役回りの人間ゆえ、太陽は眩し過ぎる日陰者です(笑)
とはいえやはり、「光」を好むんですよね。
まだまだこの国も捨てたもんじゃありませんね!
投稿: ザアカイ | 2011年5月15日 (日) 23時27分
あっ、確かにその証をしました。私としては完全に論破したつもりだったので、それはそれは不思議な、と言うか、ものすごく荘厳で力強くて恐ろしいものを見た思いがしてました。そのインパクトは確かに神の語りかけだったのだと、今は分かります。
今でもその光景が思い浮かんできます。信仰者の証は神のわざなんですね。
佐藤先生の証も励まされますね。朝から元気を頂きました。動画の貼り付け感謝します。
よっし!今日も主イエスと歩みまっす(^-^)/
投稿: モトイ | 2011年5月16日 (月) 07時49分
モトイさん、いつもお世話になってます。
確かその記事は最近コメントがついて読み返したんだったかと。
脳天にズシン!と雷が落ちた思いでしたよ。
私は悟りました、いくら頭で理解しても霊的に眼が開かれないとその真髄はわからないんですよね。
本物の言葉には、神の霊が宿るから心が燃えるんですね!
投稿: ザアカイ | 2011年5月16日 (月) 11時34分
ザアカイさん、皆さん、こんばんは。
>このエントリーのもう一つのキーワードは、よみがえり=復活ですね。
死について
人間において最も公平にやって来る力。
「死」
人格者も知識人もお金持ちも力ある人も
すべての人に平等に訪れる闇の力。
病・老化による肉体が痛みの悲鳴をあげる時、
霊は、死の恐怖に悲鳴をあげる。
人間の生への願望は、その闇の力から全速力で逃げようと試みる。
ついにその力が人間に追いつくとき・・・。
人間は「死の陰の谷」を歩く。
主イエスは、その闇の力、人間に訪れるその力を憎んだ。そして戦った。
全き罪なきお方は、ご自身がその痛みを通られ、
死の陰の谷を歩まれた。
そして戦われた。闇の力に悲鳴をあげている者を助けるために。
主イエスは完全に勝利された!
勝利の証・・・空の墓、復活の主イエス。永遠の命。
死に打ち勝たれた主イエスの上に栄光と誉れがとこしえにありますように!
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」
としるされている、みことばが実現します。
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
(Ⅰコリント15・54-57)
投稿: enjeru | 2011年5月18日 (水) 22時32分
enjeruさん、いつもありがとうございます。
私最近思うんですけど、時代は新約に入った時、万物は更新されたのではないかと。当たり前のことなのですが、どうも惑わしがはびこっているような気がして。
要するに、キリストが天において王位に着いた。
購いと復活が成就し、後残すは再臨のみ。その後千年王国、最後の審判、新天新地と長い長い道のりが残されてますが、とりあえずは、再臨により眼に見える形での人類の救いが完成する。
それが父なる神の描いていた人類計画なのだと。そういうわけですから、旧約からの流れ、一貫性を無視するわけでもなく、父なる神の絶対的な権威を否定するわけでもないのですけど、新約の今、キリストの権威と言うものは、父なる神と同等の絶対的なものなんだろうなと・・・すべては主イエスに継承され任されたのだと。
この辺をうまくはぐらかし、薄め、最近のキリストの権威を貶めるトレンド、すり替え・・・から感じたことです。
投稿: zaakai | 2011年5月19日 (木) 11時35分
トマスです。いまだ入院中です。
病院には、いろんな宗教が集まります。その中で、ソウカもいれば、クリスチャンもいます。でも、宗教と病気(医療)に、直接の関係はない、とトマスは思います。
「神癒」について、牧師と真剣に話し合いました。神は癒し主なのだから、トマスを癒してくれてもいいだろう、と傲慢になっていた自分に気付かされました。災難にあった者は、選ばれて災難にあったのですね。これは病気でも、地震でも、放射能でも一緒だと思います。
トマスも、キリストのかおりを携えて、入院生活を送りたい……と思っていたら、もう医師から退院の準備の話が出ました。主の恵みと、皆様の祈り支えに感謝です。
投稿: トマス | 2011年5月19日 (木) 12時37分
トマスさん、外泊かな?・・・と思っていたら、退院ですか。
よかった、よかった!!ハレルヤですよ!
>災難にあった者は、選ばれて災難にあったのですね。これは病気でも、地震でも、放射能でも一緒だと思います。
→神のそのお考えの奥底までは私などではわかりませんが、そういう側面はあると思います。
そしてある意味、そのようなことを通して主の栄光を顕す、キリストの香りを放つ・・・そのような役割が与えられているのかもしれませんね。
投稿: ザアカイ | 2011年5月19日 (木) 15時01分