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2010年12月 8日 (水)

哀歌より

彼らが、傷ついた者のように町のちまたで/息も絶えようとするとき、その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、母にむかって、「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。

すべて道行く人は、あなたにむかって手を打ち、エルサレムの娘にむかって、あざ笑い、かつ頭を振って言う、「麗しさのきわみ、全地の喜びと/となえられた町はこれなのか」と。

主はその計画されたことを行い、警告されたことをなし遂げ、いにしえから命じておかれたように、滅ぼして、あわれむことをせず、あなたについて敵を喜ばせ、あなたのあだの力を高められた。

哀歌 2:12,15,17

わが魂は平和を失い、わたしは幸福を忘れた。
そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。

口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
主はとこしえにこのような人を/捨てられないからである。
彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。

3:17~18、29~33

シオンの娘よ、あなたの不義の罰は終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。エドムの娘よ、主はあなたの不義を罰し、あなたの罪をあらわされる。

4:22

エレミヤの書いたエレミヤ書、そしてこの哀歌は、終末の様子を探る上で、非常に霊的に示唆に富んでますね。
全編に渡り、エレミヤの魂の叫びを感じることができますが、全部書き出すことは無理なので、特に心に響いた箇所から抜粋してみました。
エレミヤは涙にペンを浸して書いたと言われていますが、何と悲しい書でしょうか・・・この事は預言者エレミヤの時代に、バビロン帝国に南朝ユダは滅ぼされ、焼け野原とされ、有能な人物は捕囚としてバビロンへ連れ去られていった史実であります・・・いわゆるバビロン捕囚です。ユダ王国、エルサレムの滅亡を預言したため、エレミヤは売国奴としてひどい扱いを受け、殺されそうになりました。

前の記事でも書きましたが、今日5章(短いのです)通読したところで、私にはこの哀歌が、これまた終末の予表としか、どうしても思えないのです、歴史は再び繰り返すと。この記事の構想が出来て、ひとつ前の記事が完成したようなものです。

教会のメッセージで、哀歌を取り上げることなどめったにないため、独自の解釈になってしまう事を断っておきます。

キリスト者以外の方は単なる昔話で、何の事だかわからないかもしれないので、簡単に順を追って見ていきましょう。解説をつけないところは文字通りでいいと思います。

>「パンとぶどう酒とは/どこにありますか」と叫ぶ。

旧約時代の前半のクライマックスであるバビロン捕囚は(ちなみに旧約後半のクライマックスは主イエスの十字架刑、厳密に言うと新約の時代は使徒行伝(ペンテコステ)から)、終末の予表でもある。パンとぶどう酒は御言葉(聖書)と聖霊のたとえ。第二テサロニケ2章にあるように、聖書の言葉は曲げられ、聖霊の働きは無に等しくなるのでしょう。

この時クリスチャンはどうなっているのか?携挙時期の問題が絡んでくる為、ここでは語りません。ちなみに私の立場としてはニュートラル、その時になってみなければわからない。様々な聖書箇所からは、艱難期前とも艱難期後とも取れるとしておきます。

>エルサレムの娘
>麗しさのきわみ、全地の喜びと/となえられた町

これは今で言うところの教会、クリスチャンのたとえでしょう。
第一ペテロ4章と合わせるにつけ、偽りの教会、クリスチャンの仮面を被った偽善者は裁きに会うことだろう。

>彼は心から人の子を/苦しめ悩ますことをされないからである。

悔い改めを促しているのでしょう。その為に後世になり、御子を遣わされたわけです。
その本質は、憐れみ深く、愛である方だということ。その一方で義をも要求される。その唯一の手段が、主イエスをメシヤとして信じること(信仰義認)、難行苦行、告解など必要なし。

>シオンの娘よ、あなたの不義の罰は終った。主は重ねてあなたを捕え移されない。

主イエスの差し出された手を掴むならば、裁かれることはない。旧約の時代から救いは約束されていた。肉体は別として、霊は永遠に救われる。なおエドムとはヤコブと双子の長兄であったエサウのことで、食物のために長子の特権(わかり易くするため極端な解釈をするならば、この世の地位、名誉、カネのためにサタンに魂を売り渡すこと)を売り渡した(創世記25章参照)。

解説がヘタクソなのは、素人ゆえ勘弁願いたいと思います。

結論を言うならば、我々人類はその罪のために裁かれねばならないということです。またその裁きは正しいということ。
その出来事のほとんどは天災もあるでしょうが、大部分は我々人類の自業自得の人災であると言うことです。

その救いの為に主イエスが、キリストとしてこの世に遣わされた(初臨)。そしてまた来る(再臨)。
今は恵の時代=教会時代であり、新約の時代であって、神との和解はキリストの十字架により完璧なまでに成し遂げられています・・・

しかし聖書の神は憐れみ深い愛なる方であると同時に、義なる方でもある。新約聖書にもマタイ伝24章、ペテロ書、そしてその極みが黙示録と、世の終わりには、羊と山羊、麦と毒麦が仕分けされるように、完璧なる審判が成されるというのも聖書が語っているところ。勧善懲悪、この時ばかりは中途半端はない。

教会、キリスト者とて例外ではない、これは聖書を読むならば一目瞭然。偽物は裁きに会う。神の目を誤魔化すことはできない。

旧約と新約はバランスよく総合的に見て解釈するのがベストなのでしょうか?もちろん、時代背景より、旧約の記述が古いマナである場合もあるでしょう。字のごとく新約により更改されたこともあるでしょう。私はプロの聖職者ではないのでその辺の所はよくわかりません・・・よって迷った時、双方より語りかけを感じる時は、足して2で割るということをよくやります。

この事を念頭に置いて解釈するならば、終末はとんでもない破壊、災難が訪れる。クリスチャンと名がつけば、教会へ行っていれば、欧米のような形式的な洗礼を受けているからといって、来るべき御国へと、再臨まで生きのびることが出来るとは限らないということ。それは神のみぞ知るということでしょう。

哀歌を読み終えて、そう感じざるを得ません・・・もちろん私の解釈が絶対正しいとも思ってません、参考程度に捉えてください。
しかし、この事だけは間違いないでしょう。主イエスをメシヤとして受け入れ信じる者は、少なくとも肉(この世の命)は滅びようとも、霊は間違いなく救いに与かっているということ。最後の審判で裁かれることはないのではないかと。復活に与かり、新天新地=新しいエルサレムの住人になれる、そこには悲しみ、苦しみ、叫びも涙もない、本当の意味での神の人類救済が完了し、すべての重荷から解放され、永遠なる幸せを享受出来るようになる・・・主イエスに委ねていれば、問題など皆無となる。理想の王による政治が実現する。
私がキリストを信じる理由、希望はそこにあるのです・・・

PS:そして何より・・・キャッシュが足りないからと言って、買掛金の支払い、借金の返済に苦しめられることもない --;

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黙示録、聖書預言」カテゴリの記事

コメント

>この事だけは間違いないでしょう。主イエスをメシヤとして受け入れ信じる>者は、少なくとも肉(この世の命)は滅びようとも、霊は間違いなく救いに与>かっているということ。最後の審判で裁かれることはないのではないかと。>復活に与かり、新天新地=新しいエルサレムの住人になれる、そこには悲>しみ、苦しみ、叫びも涙もない、本当の意味での神の人類救済が完了し、>すべての重荷から解放され、永遠なる幸せを享受出来るようになる・・・主>イエスに委ねていれば、問題など皆無となる。理想の王による政治が実現>する。

ザアカイさんはそこに力点を置かれているのですね。
コロ助の信仰の力点はここです。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ 5:11~12)
コロ助はいじめられっ子だったから、ここに思いが至るのでしょう。

私はちょっと他人と違った形で?この道に入ってきた為、どうしてもそうなってしまいます。いわゆる終末論から、福音を理解し信じたクチなので。

私にとっては、黙示録21章がすべての終着駅で、キリスト教の真髄なんです。そんなわけで、ブログ記事の内容もそのようなことばかり --;

コロ助さんご指摘の山上の垂訓、心に染み入りますね!

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

涙の預言者エレミヤ。
 
ああ、私の頭が水であったなら、
私の目が涙であったなら、
私は昼も夜も、
私の娘、私の民の殺された者のために
泣こうものを。(エレミヤ9・1)

ユダ王朝に迫り来る破滅を涙と嘆きとをもって警告した預言者エレミヤ。

彼は悲しみの人で排斥され、孤独となり、人に捨てられ、
自分が母の胎から生まれたことさえ嘆き、悲しんでいる人の姿は
どこかイエスさまを感じます。
そのようなエレミヤの警告の預言は、子羊の怒りが近い現代でも
生きた言葉となって私たちの心に迫ってきますね。

その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、
彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、
地面の肥やしとなる。(エレミヤ25・33)

ああ。
その日は大いなる日、比べるものもない日だ。
それはヤコブにも苦難の日だ。
しかし彼はそれから救われる。(エレミヤ30・7)

>終末はとんでもない破壊、災難が訪れる。

それはきっと想像もできなような光景なのでしょうね。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える。」と言いました。(ヘブル12・21)

けれども、主イエスの救いが患難時代にも与えられ、信じる人は魂が救われることは、本当に恵みそのものですね。
救いの道が残されていることは、神さまの憐れみだと思います。

永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。
それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。(エレミヤ31・1)

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主の憐れみは尽きないからだ。(哀歌3・22)

願わくば患難時代に次のように言う前に主イエスの救いを受け入れてほしいものです。

主よ。あなたのみもとに帰りたいのです。
私たちは帰りたいのです。
私たちの日を昔のように新しくしてください。
それとも、
あなたはほんとうに、私たちを退けたのですか。
窮みまで私たちを怒られるのですか。(哀歌5・21-22)

enjeruさん、コメありがとうございます。

エレミヤ書と哀歌は本当に悲しみのシンボルみたいな書ですね。
しかしながら、そんな中にあっても一筋の光を見出すことが出来るのは聖書の一貫したテーマであるのもまたしかりでして。

この先訪れるであろう苦難の規模や期間は人類の態度いかんによっては、ある程度変えられることがあるんだろうと思いたいですが、大枠でのシナリオは変えられないんでしょうね・・・

そうでもしないと、絶対悪を一網打尽にすることは不可能なのでしょう・・・
最終章に中途半端はないでしょうからね。楽して平安は訪れないということなんでしょうかね。

悲しみの星=地球=この世=地とは良くぞ言ったものですね。

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