土の器
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。
その時、主の言葉がわたしに臨んだ、「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。
エレミヤ 18:4~6
クリスチャンはよく土の器、土器にたとえられます。それはもろく、崩れやすい・・・そして必要とあれば、何度でも壊されて新しく作り変えられます。
>アブラハムもモーセもダビデもソロモンもエリヤも、すべての人は弱い土の器だったのです。人間を見ることを止めましょう。どんなすばらしい神の器も結局は土の器なのです。自分自身に失望することも止めましょう。弱い傷だらけの隙間から、キリストの光が輝いているではありませんか。
http://www.ne.jp/asahi/petros/izumi/2010msg/101121.html
毎週読んでいる礼拝説教集から一部お借りしようと思います。
このメッセージは、強烈に心に響きました・・・
私は教職で飯を食っているわけではありません。どちらかと言うと、この手の記事を書くのは苦手でもあります。
仕事の片手間にどういうわけか?こんなことやっているわけですが、このような時代、ご多分に漏れず毎日はタイトです・・・身の程知らずにも、偉そうにこんな事やっている資格などあるのか?
十戒すらまともに守れない、はっきり言って自分がどうしようもない「不良品の出来損ないの器」であると感じざるを得ません。その反面、そんな出来損ないだからこそ、何も取り得がないからこそ、「キリストこそが唯一の真理に至る道である」と理解し、到達することが出来たのか・・・私などにはわかりません。
自分に失望するのはやめよう。これは真理でありますが、ある程度自分に対し、自信を持てた自分はもはや私の中には存在しません。実際に、何度も随分砕かれてきたなとも感じます・・・世間から辱められ、卑しめられ、蹴りを入れられても、ただひたすら耐えるだけ。自分の無力さが恨めしい。そろそろ可能であるならば、ある程度の自信を取り戻したい。謙遜と自己卑下は明らかに違う。違った意味で、喜びをもって、バランスよく輝きたいものです・・・
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
第一コリント 1:27~28
このパウロの言葉は唯一の慰めです。
まるで今の自分は、傷だらけのヒビだらけ、いつ壊れてもおかしくないヨレヨレ状態の素焼きのみすぼらしい土器であることは、他でもない自分自身が一番よく知っています。
士師記 7:16~23には、ギデオンの軍がミデアンの軍勢に攻め入った時、つぼを割り、その壷の中に入っていた松明が輝いて勝利を得ることが出来た様子が書かれています。
私のような者でも、そのヒビの隙間から弱々しいながらも、光を輝かすことが出来るのか・・・今は自分に出来る事をやればそれでいい。人それぞれ賜物も違えば、役割も違う。
まだまだキリストの兵卒としては、役不足もいいところですが、たとえどんなにかすかな弱い光であっても、闇の中でこそ、その光が認識されて、輝くのもまた事実。
それほど遠くはないでしょう。その時さらに傷つき、ボロボロになっていたとしても、小惑星探査機「はやぶさ」のように、最後は大気圏に突入して、自分自身を最大限に輝かせ、跡形も無く粉々に砕け燃え尽きようとも、そのミッションだけはやり遂げることが出来た・・・そうであるなら、どんなに幸いなことでしょうか。
いや、可能であると信じよう。そのための「主イエスの贖いの十字架」であるわけだし、何より「万軍の主」が味方のはずなのだから。私自身はみすぼらしい土器であって出来なくとも、主イエスに出来ないはずはないのだから。
« 金融面で動きがあった模様 | トップページ | 韓半島危機に関する一考察 »
「主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事
- キリスト信仰までの The long and winding road?(2023.05.23)
- ラザロの蘇り(2022.04.03)
- You raize me up!(2020.06.10)
- 今日は「復活祭」(2019.04.21)
- 十字架の愛~神の一方的な恵みを(2018.06.10)
「人に出来ないことが神にはお出来になる」ザアカイさんがどう用いられるかは、神様がお決めになることですよ。人間は神のしもべとして、それに従えばいいのですr(^ω^*)))
投稿: コロ助 | 2010年11月25日 (木) 08時43分
コロ助さん、いつもどうもです。
そうですね、仰るとおりですね。
わかっちゃいるけど、自己に死し、忠実なる僕になるというのは難しいものですね。
一度でいいから、ワイングラス片手に「ああ~、人生は素晴らしい!」と本音で言ってみたいものです(笑)
投稿: ザアカイ | 2010年11月25日 (木) 11時16分
バランス良く輝く、って良い言葉ですね。
ダニエル書から見るヨーロッパの金融危機、参考になりました。
投稿: 木蓮 | 2010年11月25日 (木) 18時13分
木蓮さん、いつもありがとうございます。
なんでもそうですが、素晴らしいと思う言葉は、行うに難しですね(涙;)
EUに関する見識は一つの仮説と捉えてください。こればかりは、結果が出てみなけりゃわかりませんから。新しいことがわかった時、間違っていた時は、随時修正しながら行こうかと^^;
投稿: ザアカイ | 2010年11月25日 (木) 18時30分
ザアカイさん、皆さん、こんばんは。
土の器・・・人は弱い土の器。
見かけはみすぼらしい取るに足らない土の器に・・・主イエスを信じた時、輝く宝を入れて下さいましたね。
そう・・・ダイヤモンド、エメラルド、サファイア、ルビー・・・etc
それよりもはるかに輝く宝石を。
その宝石が主イエスの光りに当たると・・・
土の器から・・・光りを放って世を照らしています。
ある器は、主イエスの光りが少しだけ当たっているので、少しだけ光り、
ある器は、主イエスの光りがたくさん当たっているので、強い光りを放っています。
それは土の器が、光りの一番当たる所に来た時、輝く光を放つのだと・・・。
そして、ついに土の器が古くなってボロボロになって壊れた時、
宝全体に光りが当たって、まばゆいばかりに光り輝いて天に帰るのだと。
どんな弱い小さな土の器であっても、皆同じように宝を入れてくださる主に感謝!
「光りが、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。(Ⅱコリント4・6-7)
>それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
愚かな者、弱い者、身分の低い者、軽んじられている者、無きに等しい者
すべて私にあてはまると思います。
投稿: enjeru | 2010年11月26日 (金) 18時33分
enjeruさん、こんばんは。
まさしく私たちは、それ相応に、能力に応じて、役割に応じて、地に散りばめられたのだなと感じます。
見かけはそれぞれ違っていても、その中身においては共通するものがあるんでしょうね。たとえそれがどんなに小さいとしてもなのでしょう。
それは他でもない、キリストの栄光を現す光なんでしょうね。そしてそこには何の差別もなければ、不平等もない。愛だけが存在する。
と口で言うのは簡単なのですが、そうありたいなと思ってます --;
投稿: ザアカイ | 2010年11月27日 (土) 00時00分
ものすごく おひさしぶりです o(_ _)
どうも わたしも ここずっとスランプ気味です。
土の器。。。 打ち砕かれてまた 主によってつくりかえられることを
のぞみがあると信じているつもりでも。。どうしても自分をみて
無力さに打ちのめされてしまうものですよね。
ドイツでは最近テロ予告の影響で 若干警戒がつよまっているみたいです。。
一応ベルリンにある国会議事堂のガラス天井も入場禁止になっています。。
イスラム系(トルコ人)住民がドイツ国内に300万以上もいるので、大規模テロなど起こせないとだろうというのが、一般市民の反応ですが。。
どうなることやら。。。
明日からアドベントがはじまりますね。(*^-^)
投稿: サマリア人 | 2010年11月27日 (土) 17時36分
いや~、サマちゃん、本当にお久しぶりですね。みんな心配してましたよ。
ドイツは寒いんじゃないんですか?
何となくヨーロッパではテロは起らないような気がしますが、一応街中では注意してくださいな。
そっか・・・明日からアドベントだったんですね。今年もあとわずかなんだなと・・・
スランプですか・・・誰もが一度は通される道なんだと思いますよ。
私など何度スランプに陥ったことか --;
数え切れぬほどの悪態、偽預言者に騙されそうになったこと数回 --;自分の無能さ、情けなさに失望することしばしば、ストレスで脳神経やられてジャンキーと(ToT)・・・
そのたびにエリヤのセリフが頭を駆け巡り「もう十分です、疲れ果てました。わが命を取ってください」などと・・・
でもそうやって、失敗を何度も繰り返し成長していくんだとも思います。
誰でもキリストのうちにあるなら、どんなにヒビだらけの器でも、どんなに弱々しい光でも輝かすことが出来ると思いますよ。
これさえ手放して、失ってしまうと、何の為に生まれてきたのか?生きているのか?自分の存在価値すら失ってしまう気がして・・・
焦らず、腐らず、何も金メダルとる必要などないわけで、極端な話ビリだっていい。完走目指して進みましょう!
投稿: zaakai | 2010年11月27日 (土) 20時29分
ども、わたぴ~です(vv)
サマリア人さん、お帰りなさいませ~(^^)/
相変わらず、パソコンの調子、悪いんですかね?
ワタクシの方はぼちぼちやってますが、
相変わらず「不満ブツブツ文句大王(`ε´)」な為、
調子はイマイチ君でございます。
ま、いつもの事と言っちゃえば、それまでですが(^^;
イマイチ君はイマイチ君なりにやってます。
霊的に苦しいのは、神様と主イエスに向かい合っている証拠ですから、
感謝できる事なのかもしれませんね。
苦しい経験も、後々、隣人愛を示す上での大きな糧になるでしょうし。
聖書には「最後まで耐え忍ぶ」必要が語られていますから、
大なり小なり、最後までそういう状態が続くんでしょうけど、
それも見方を変えれば、互いに隣人愛を示しあう良い機会が
設けられていると考えれば、神様と主イエスへの感謝に繋がるでしょうね。
自分のことで精一杯のデモクリが言うのもなんですが~
アタフタ o( ̄▽ ̄;)三(; ̄▽ ̄)o アタフタ
ザアカイさんへ
この陶器師の聖句はワタクシも印象深くて、よく覚えています。
人が自分の自己努力で自分を形造ろうとするよりも、
遙かに素晴らしい陶器師であられる神様に全ておまかせした方が、
人の想像を遙かに超えた素晴らしい器として、人を形造ってくださるでしょうね。神様は何度でも、あきらめずに練り直してくださいますからね。
・・・と言いつつ、
ワタクシも思いっきり練られている真っ最中でございまふ。(vv;)
投稿: わたぴ~ | 2010年11月29日 (月) 13時02分
わたぴ~さん、どもです。
私もご多分に漏れず、練りに錬られ続けているなとつくづく感じます。
時として、「水攻めの拷問でないの?」とすら感じることもしばしば --;
やはり、「戦いなくして勝利なし」なのでしょうかねえ?その最大の敵が己自信であるのは間違いない気がします・・・とほほ。
投稿: ザアカイ | 2010年11月29日 (月) 18時41分
サマちゃん
毎日お祈りしてました。
お元気そうで感謝です。
私たちがどんなにスランプの時でも
命まで捨てて私たちを愛して下さったイエスさまの永遠の手が
下で支えてくださっていること・・・それを思うと感謝です。
御言葉をプレゼントします。神さまの言葉は力ですね。
主ご自身があなたの先に進まれる。
主があなたとともにおられる。
主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31・8)
投稿: enjeru | 2010年11月29日 (月) 22時54分