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2010年10月14日 (木)

信仰と行い

さて、今度こそ本題です --;

私、以前からなかなか仕分けというか、垣根論というか・・・今ひとつわかりづらく、なかなか理解に苦しむ事が信仰生活の中に存在しておりました。

それがエントリーの表題だったのです。たまには「マトモな?」信仰記事も書かないとその精神状態を疑われてしまう --;

聖書には

なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

ローマ 4:20~24

なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。

ローマ 4:3

なぜなら、世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、律法によるのではなく、信仰の義によるからである。

ローマ 4:13

しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。

ローマ 9:31~32

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。

ローマ 10:9~10

人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。 それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることが ないからである。

ガラテヤ 2:16

わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。

ガラテヤ 2:21

ざっと抜粋すると、明らかに救いは「信仰義認」であり、一方的な神の恵みであるとされます。ざっくばらんに言うと極端な話、「イエスはキリストであり、神の御子でありメシヤである」
と信じるだけでいいのです。

この辺が、ガチガチのユダヤ教徒に言わせると、パウロは憎むべき裏切り者であり、ローマ書は破り捨てて、焚書したい書であるといわれる所以なのでしょうね。

私も洗礼に向けての勉強会で当時の牧師先生から
「律法を100%完璧に行えば救いに至ることができます。しかし、人間には到底不可能なこと。あのモーセでさえ律法の行いによる義によっては、救いを得ることが出来ませんでした。よって、自分の罪を認め、悔い改めて、イエスをキリストと信じることによって救われるのです。」
と講義を受けました。

そして必ずと言っていいくらい「信仰と行いのバランス、矛盾」が論点となります・・・これがまたわかりづらい。ただ、いくら信仰義認とはいえ「救いは信仰によるのだから、何もする必要ないじゃん。行い主義にはよらないのだから。」とするのは極論であり、不作為犯ともなりかねない。聖書にはその一方で「あなた方もそのように行いなさい」という記述があちこちに書かれているから(例えば、「良きサマリア人」の話、ヤコブ書全般など)余計矛盾を感じ、ややこしくなる(涙;)

そしてある時、この件に関して質問したことがあります。うちの教会の牧師先生ではありませんが、その牧師先生が言うには
「その先生の言うことは正しいです。救いは行いによるのではありません。ただ、いいですか。救われたから行うのです。」という回答でした。

要するに、信仰というか、救いの土台はキリストなのだが、どのような家を建てるか?「その上に立ち上げる家は、人それぞれである」ということでしょう。「宿題はあったのだ」ということなのですね。

マタイの7章15節から20節にはこうあります。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。
あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。
そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。

もっともですよね。口先だけで実践の伴わない人間は多いものです。実践が伴ったとしても、言っていることとやっていることが違う二枚舌の人間・・・信頼に値する人を見分けるには、やはりその人の行動を見ることが一つの判断材料となります。

そんな時です!わたぴ~さんのブログ記事から「目からウロコ」というエントリーがありました。

http://blog.goo.ne.jp/watapi_1968/e/3b65a113f5ca4bbe0de9ec48fa947c91

黄金律こそ律法と預言者である~19
(ちなみにまだシリーズは完結してないようです。勉強になりますから是非、バックナンバー1番よりお読みください。お勧めです。)

>この「結ぶ」は原語で「ポイエオー」で、「行う」「為す」等の意味を持っていて、内に満ちるものが外に溢れ出る形を表わしています。「詩」「詩人」等もこ の語源から来ており、この事から、偽預言者の行為というものはその学問や教理ではなく、その心の奥底から流れ出る行為を指すものとして理解されているよう です。

→これで理論武装が完成した!さすが!と思わず頷いたものです。モトイさんがあの熱き思い、オーラを発しての福音伝道担当なら、彼はさしずめ聖書学者、教師担当ですね。

>内に満ちるものが外に溢れ出る形を表わしています。

これですよ、これ!私もこれは実感としてわかる。

いてもたってもいられない。動かないで傍観するのが辛いという思いに駆られて、結果行動していたというやつです。

もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。

エレミヤ 20:9

かっこよく言うならば、こんな感じでしょうか。じっとしていることが出来ず、何らかの行動に出るのです・・・
これを行い主義と混同すべきではありません。

ただ、注意したいのは、神はその人の「能力以上の事」をお求めにはならないということ。
自分に出来る事をやればいい。献金するのだって、教会の奉仕だって、礼拝前のスリッパ並べでも立派な行いです。

中には「弟子の歩みでないと意味がない」として、クリスチャンにおけるエリート主義路線を強調する方がいます。確かにこのような歩みが出来るのならば祝福も大きいかもしれません。しかし、みんながみんな弟子としての歩みが出来るわけではない。このようなエリート主義の弱者切捨て、放蕩息子の兄的信仰。人を見下し弱者や信仰の未熟な者を相手にせずバカにして裁きまくり、肉的な行いを説くスタンスは私は好きではないです・・・

賜物、能力は個人差があって当然なのだから、各々が出来る事を誠実にやればそれでいいわけです。そのような人間に限って、自分だけが正しい、人じゃなく聖霊に聞いているのだから、間違えるわけがないと預言者を気取り自惚れ、思いあがりが強く、傲慢で頑な、自分の信仰、聖書解釈と距離がある人間を裁きたがる・・・どこかパリサイ派に通じる所があり、義に過ぎるというか、思いやりとか愛が感じられない。言うならば冷徹な信仰ロボットというところでしょうか・・・これまた私は好きじゃありませんね。、またそのような家を立ち上げたいとも思わない。
人の信仰をとやかく言うつもりはありませんが、私的には手本としてお勧めできません。

主は言われました。

わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

ヨハネ 15:12~14

なあなあの事なかれ主義、毒麦は断固として拒否し、受け入れる必要はありませんが、私としてはやはり、原点回帰とて言わせて頂けば

ルカによる福音書 / 19章 5節
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。

の箇所の、私のような陽の当たらないクリスチャン裏街道まっしぐらの日陰者・・・何の取り得もない役立たずにでも、主イエスは「早く降りてきなさい、私はず~っと降りてくるのを待っていたのだ。あなたが心を開いてくれたから、これで私もあなたの心に泊まることが出来る。時間がかかったようだが、友よ、よく帰って来てくれた。」
と声をかけて下さった。

もちろん、終末の教会の裁きを甘く見るべきではないでしょう。悲しいことですが、道を踏み外し、腐臭が漂っている教会が増えてきているのは事実です・・・神の義は必須条件です。
それでも私は、神の本質は愛であると思いたい。だから私はまだ間に合ううちに、警告すべきは警告を発し、知るべき事は知るべきであるゆえ、私の知っていることはここに書いていきたい・・・(実際は口で言うほど簡単ではなく、できてないのだが・・・)

私に出来ること、役回りはあんがい、今やっていることなのかもしれないから。

PS:
慣れない記事を書くと疲れます --;
やはり私には、鳩、光、陽の部分より、蛇、闇、陰の部分を記事にしたほうがスムーズに指が動くようで・・・とほほ。

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主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事

コメント

第一ヨハネ3章を読んでみてください。信仰と行いと愛がドッキングした、一つの例とは思いませんか?

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

今日、友人と自然の美しい環境の中を語らいながら、散歩したとき、
彼女が、「ねぇ~、死ぬときこの人生良かったって思えるかな?今の私にはそう言えそうもないわ・・・」と言いました。

私は言いました。「今の人生より死んだ先の永遠の時の生のほうがはるかに喜びに満ちて楽しいわよ。
だから、そこに行くまで忍耐がたくさんるけれど希望をもって死を迎えることができると思うの。」

それから、少しだけ福音を伝えることができました。感謝!彼女の救いのために祈っていきたいです。

>内に満ちるものが外に溢れ出る形を表わしています。

聖霊に満たされたとき、突き動かされる衝動は、その人自身にしか分かりませんが、確かに主が働いて導かれたことだとわかりますね。

その時、自分の力ではなく主の力が内側に働いて動かされているのを何度も経験しました。主から流れ出る力は、主の御心を行なうように仕向けて事を行なわせてくださいます。それをした時、不思議な魂の満足感があるのが分かります。主の広さ、高さ、深さは本当に計り知れませんね。


コロ助さん、ご指摘感謝。
第一ヨハネは確かによくまとまってますね・・・
どうしても、信仰と律法の比較として、ローマ書とガラテヤ書に目がいってしまいました。

あら、enjeruさん、ニアミスでしたね^^;
その後いかがお過ごしでしょうか?
誰かも言ってましたね、主イエスと教会は必ずしもイコールとは限らないって。確かにそうだなと思います。人を見るとぶれるから、神のみ見上げなさいと前任の牧師先生も言ってましたっけ。

>その時、自分の力ではなく主の力が内側に働いて動かされているのを何度も経験しました。主から流れ出る力は、主の御心を行なうように仕向けて事を行なわせてくださいます。それをした時、不思議な魂の満足感があるのが分かります。

→なんかコロ助さんといい、enjeruさんといい、私が悩み続けてきた疑問をひとことで単純明快に簡単に片付けてしまうとは^^;・・・恐れ入りましたm(__)m

このことなんだと思います、異言が話せなくとも、癒しが出来なくとも、預言の賜物が無くとも、奇跡が起こらなくとも、聖霊は静かに働かれるんでしょうね。これだって立派な聖霊体験、プチ奇跡だと思います。

毎度ありがとうございます。黒猫です。
素晴らしい核心に迫った記事、読んでてうれしくなりましたよ~!
わたぴ~さんのあのシリーズも、圧倒されながら愛読してます。

新約に入ってからは、神様は我々の心に直接「律法」を書きこむ時代になったと思います。
だから、「ツール」としての賜物偏重は、どうも・・・。
大事なのは、「御霊の実」と思うのですね。愛、喜び、平安・・・。すべて心のなかのこと、「霊」のことだと思います。
そして、「神は、心を見る」のですよね。
じつは、方法論以外、神様は旧約からまったく変わってないのですね。
「神を愛する」ことと、「人を愛する」こと、つづめて言えばこれが「律法」だと思います。つまり、「愛」なのですね。
神は愛なり・・・。愛のないところに神はいない・・・たとえ、正しくても、です。
個人的には、マザー・テレサがリトマス紙かなぁ・・・と。
偉そうに書きましたが、オイラは「実」どころか「賜物」だって怪しいものです。とほほ・・・。

こんにちは。私も今回の記事に感動しました。ピリピ人への手紙を読んで、私はつまづきから、解放されました。1章15-18節です。

ps・・ピリピ人―フィリピ人への手紙・・・聖書2つありますので・・。

黒猫さん、いつもどうも。
こんな私でも、1~2ヶ月に一つくらい、福音記事が書ければと思って、チャレンジするのですが、これがなかなか難しい!
やはり人には得手不得手の分野があるようで(涙;)
そうやって考えてみると、毎週メッセージをする教職者って大変だな、とつくづく思います。私には出来ませんね --;

>オイラは「実」どころか「賜物」だって怪しいものです。

→それを言ったら私とて同じです(涙;)

ゆー・さん、こんにちは。

示唆深い箇所ですね。この箇所からは我々が考えているより寛容だなと思わされますね。結果としてキリストを証しすればそれでよしとしてくれるという感じで。もちろんケースバイケースで、許容範囲があるんでしょうけどね。

つまづきの石は、あらゆる所にありますよね。そんな時、主イエスから直接、日本語で教えてもらえれば何の苦労もないのですが・・・
ま、そこが信仰が試されていると言うことなんでしょうかねえ?

ザアカイさん、みなさん、こんにちは。
モトイです。

私はメシアニックジューの集いにいたので、行いガチガチのトンチンカンな人たちをたくさん知ってます

やっぱり内側から溢れるものですよね。なっとくなっとく!

かく言う私は実は、律法の命じることをしっかり守って(守りきれる者ではないにもかかわらず・・・汗)、人より多く守って悦になっていたことがありました。

例えば食物規定を守るのはもちろんのこと、「二種類の糸で布を織ってはいけないと言う律法より、着る物は全て綿100%とかポリ100%とか、とにかく100%物をえらんで着てみたり、 安息日には汗をかかないようにしたりなど・・・(爆)。


やってみると面白いし、やってない人よりも上を行っている気になるんですよね~。もはや笑うしかない、おもひででやんした・・・。

お!モトイさん、いらっしゃい。
通訳の奉仕のお勤めご苦労さんでしたm(__)m

そうだったんですか!メサニック=ジューの集いにね。でもあの人たちの姿勢は決してバカにしたものでも非難するべきものでもないと感じます。

黒猫さんの言うように、直接心に律法を書き込むというのが説得力が高いと思いますけど、それでも私、クリスマスよりも、ユダヤ三大祭り、特に「過ぎ越し」はキリストの十字架の予表でもあるしで、羊を屠って・・・まではやりませんが(笑)、感慨深いものがありますね!

私思うのですけど、みなさん、過去の経験が肥しとなって、今があるんですねえ~

やはり「万事を益に」は真理ですね!

ども、わたぴ~です(vv)

ワタクシ、前々から思っているのですが、
たぶん、聖書解釈についてはモトイさんの方が、
ワタクシなんぞより、格段に理解されていると思いますよ。
モトイさんが本気出せば、ワタクシなんぞ、
ピュ~~~ッ!~~~~~~ (/´θ`)/ アーレー
と簡単に吹き飛ばされてしまうでしょう。

信仰義認と行動義認についてもいずれは書いてみたいのですが、
一体、いつになることやら・・・(-_-;)

そうそう、黄金律シリーズですが、発端となった某HPの記事における
「報復」「復讐」という点については、

たった一言でカタつけれます!(*`д´)b  ので、ご安心?を~

え?そういうアンタが一番信用できないって?
ウウッ!グレてやるぅ~っ!ヽ(TдT)ノ (今更かいっ!(ノ_-;))

わたぴ~さん、どもです。

いや、特に比較どうのこうのは、この際ナンセンスですよ。
お二人さんと限らず、みなさんそれなりに個性が強いから、それが何らかの形で役に立つのならそれでいいような気がします。
エボニー&アイボリーで結果、絶妙のハーモニーが奏でられれば、こうしてブログ仲間としてネット上で出会ってこうしているのも単なる偶然じゃないかもしれませんし。

黄金律シリーズはマイペースでやってください。とは言え、まだ序論?だと思うのですが、いつの間にかメイン=テーマ忘れてしまった(笑)

確か論点の中枢は、原語に忠実に訳すと誤訳がどうのこうのでしたよね・・・その解釈が誤導に至る危険があるでいいと思いましたが --;?

ども、わたぴ~です(vv)

>いや、特に比較どうのこうのは、この際ナンセンス

すいません。言葉足らずでしたね(^^;
そのようなつもりはありませんので、ご安心を~(^^)
単純に、最初にモトイさんのブログを読んだ時に、
そう思ったもんですから。「脳ある鷹は爪隠す」って感じで。

>黄金律シリーズはマイペースでやってください

ハイ。~でないと、ワタクシの頭がついてきませんので(vv;)
非常に長くなってしまったので、バルナバさんには申し訳ないのですが。

翻訳に関しては、いくら原語から正確に訳出したとしても、
それを受け止める側(罪のうちにある人間)が必ずしも、
正確に解釈して受け止めることが出来るばかりとは限りませんからねぇ。
そもそも、「何をもって正確とするのか」という定義自体からして、
意見が別れると思いますし。(--;

あらら、わたぴ〜さん、どもでつ。箴言に曰く、人は他人の賞賛により試される、と有りますので、ここで種明かしをば...f^_^;)

実は私の場合、何か気になった日本語聖句の箇所を言語で調べて見ています。なのでひらめきは主イエスからのもので、ギリシャ語へブル語は付け焼き刃程度です。聖書に対する興味も主が与えてくれたものだと思います。

キリスト者は皆それぞれ唯一の存在ですので、私はわたぴ〜さんのように深く掘り下げて広く調べられないし、ザアカイさんのようにフォーラムをいつのまにか形成するキャラクターではないし、...他にも例をあげればキリがないですが、でもそれで皆それぞれ唯一と言っていいのだと思います。(バルナバさんは早起きで検索名人だし...w)

比較だと変ですが、唯一と考えると楽しいですよね。これこそ神の国なんでしょうね、きっと。

主イエス、ハレルヤ!

わたぴ~さん、どもです。
いや、その点は私などが心配するような器じゃないのはわかってますのでm(__)m
まだ核心部分の本論へ入ってなくとも、示唆深い内容ですので、勉強させてもらいながら楽しませてもらってますよ(^_^)v

>翻訳に関しては、いくら原語から正確に訳出したとしても、
それを受け止める側(罪のうちにある人間)が必ずしも、
正確に解釈して受け止めることが出来るばかりとは限りませんからねぇ。

→これは私も見事に罠に掛かりそうになったので、わかります。
自分の土俵で勝負できる場合はそうでもありませんが、どうしても相手の方が優勢?と判断してしまうと、特に自分が圧倒的に不利だと、一種の洗脳に掛かり易いです(涙;)
とにかくネット上には敵味方入り乱れ、ツワモノがキリがないほどいますからね --;

モトイさんもフォローお手数かけてすみませんm(__)m

>比較だと変ですが、唯一と考えると楽しいですよね。これこそ神の国なんでしょうね、きっと。

→そんな気がしますね。
この世に完璧な教会などありませんし、あくまで雛形なんだと思うんですが、かと言ってこれが人間の限界だし、それはそれで感謝なことで否定すべきものではないと思います。今朝の祈りの中で、大祭司なる主イエス本人が主任牧師で指揮を取る礼拝のイメージが思い浮かんだんです。

現実の教会の方々や、ネット上で知り合った方々、ここまで引き上げて下さったK牧師や、フリッツ他、当然まだ見ぬ方々・・・パウロあたりが司会やって、礼拝前の祈祷をペテロあたりがやってとか(笑)

普段はダビデ指揮下で門番^^;・・・美女の入浴シーンにだけ気をつけながらとか(爆;)

そう考えるとワクワクするんですけど、悲しいかな、支払いの請求書が回ってくると現実に戻され、顔が青ざめる(ToT)

おあとがよろしいようでm(__)m

黄金比こそ律法と預言者である、この言葉だけで思わず見入ってしまいました。私は、フィボナッチ数列を見ていると過去と未来を垣間見る気がします。私は、信仰というのは持っていませんが、ザアカイさんの物事に対する感想は、とても思いやりを感じるので共感しています。
真実を追求する先には、そういう温かい気持ちがあるといいですね。チリのところに書いてあった69ですが、ダニエル書に、69というのがあるんですよね?今のイスラエルの動きと関係あるのかも、と思います。
21、という数字は、終わりである、と同時に始まりでもある数字らしく、21世紀、2012年は、完成を意味しているのかもしれません。そして、あらゆる対立物の完全なる統合に至る。69を陰陽と考えても矛盾がないです。ただ、2012年は、始まりでもあるんですよね。リーマンから今年で、3年ですよね。この3年が前兆を意味するのではと思います。そして、そこから何年かで建物に限らず何かが建て直される、そんな気がします。

木蓮さん、コメありがとうございます。
数字に思い入れというか、数霊術?かわかりませんが、詳しそうですね。
フィボナッチ数列をたった今、ウィキで調べてきましたが、あかんわ~

一目見ただけでダメ・・・蕁麻疹できそうです(笑)、理数系はまったく苦手なんです --;

>リーマンから今年で、3年ですよね。この3年が前兆を意味するのではと思います。

→後半部分は、何となく仰ることの示唆深さ、わかります。
いつも「そろそろのはずだが?」と感じつつやっているんですが、結果が出ないことには、単なる終末カルトの妄想で終わってしまいますからね --;

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

久々にヘタな「詩」を書いてみました。

           ベテスダの池

5つの回廊がついているエルサレムのベテスダの池。
あらゆる病がそこにある。
盲人、足なえ、やせ衰えた者・・・大勢の病人・・・
絶望、苦痛、悲哀・・・人々の心さえも病んでいた。

ただ一つの希望。
「天使が降りて来て、水面が揺り動かされる時、最初に入った者は、
どのような病気も癒される」 という。

彼らは、くる日もくる日も、毎時間毎分毎秒・・・水面をじっと見つめていた。
ただその水面に唯一の希望があった。病が癒されるという~。

水面が動くとき、大勢の人々は、我先に人を押しのけ、
病んだ身体を引きずりながら、池へ池へ飛び込む。
飛び散る水しぶき。怒号の声。

38年もの間病にかかっている男が寝ていた。
うす汚れたボロボロの服、白髪の髪と長く垂れ下がった顎ひげ。
刻み込まれた深い皴に絶望と悲しみが満ちていた。
水面が動くとき、彼は動かない。
ただ死を待つばかりの長い長い時。

ある日一人の人が男に声をかけた。
神の御子イエス。罪を取り除く神の御子。
 「よくなりたいか。」
もう長い間、彼に話かける人はいなかった。
彼は知る。その言葉の権威を霊に感じて、神の声と・・・。

「主よ。私には、水がかき回されるとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです。」

深い同情心と慈しみの顔でイエスは答える。
 「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
その言葉の中に、彼の病は消え去り、
みなぎる力が内側から溢れ出た。

その男は、すぐ立ち上がり、床を取り上げて歩いた。
男は癒された。神の声によって・・・。
男は神を見る。
言い尽くすことの出来ない感謝の喜びに満ちて~。

                          (ヨハネ5章1節~9節)

enjeruさん、こんばんは。

なかなかよく出来てるじゃないですか(^_^)v
場面が脳裏に鮮明にイメージできます。
人類の歴史って、太古の昔から悲惨の歴史だったんだなとつくづく思わされますね。

ある牧師先生が言ってました・・・「人間の悲惨を知ることが信仰の最後の仕上段階である」って。

確かに悲しみ、苦しみを知らずして、本物の信仰へとたどり着くことは出来ないなと私も感じます。
人間、比較的恵まれているうちはなかなか神が見えませんからね・・・

そして希望があるならば、それなりに荒むことなく持ち堪えられると思う今日この頃です。

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