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2010年2月 4日 (木)

キリストは「何をしに」ふたたび来られるのか?

「悪魔最後の陰謀」読み終わりました。
久しぶりに再読したのも何らかの示唆があったのかもしれません。
現在は絶版ゆえ、読みたくてもなかなか手に入らないだろうし、著作権侵害にも当たらないことでしょう。かえって、読み返して心に残った箇所を、拙いこのブログで紹介するのも御心かな?などと感じます・・・

本の題名はかなり過激ですが、決してオカルト本ではありませんので(^_^;)
なんでも出版社の社長が考えたとかいうエピソードが?

太字、色文字、脚注は管理人による。

P 229~236 ー最後の箇所です

~引用開始~

ではキリストは何をしに来られるのであろうか(注;ここでは初臨ではなく再臨を指している)。

「来て、主のみ業を見よ、主は驚くべき事を地に行われた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
『静まって、私こそ神である事を知れ。
わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる』」

詩篇 46:8~10

キリストが再び来られるのは、この世界から戦争と憎しみと偽りを一掃し、真の愛と平和を築くためである。人間がサタンの惑わしによって失った、その貴重な財産を回復し、地を清め、新しくするために来られる。読者はそんな信仰話は聞きたくないと言うだろうか。今日、我々は希望のない時代を生きている。恐らく歴史上これほど子供たちが、希望を持つことのなかった時代はあるまい。最も繁栄と豊かさの中に絶望がある。最近のアメリカの最も豊かな階層の子供たちが自殺している。しかし、核兵器の恐怖の下で、どんな希望を持てと言えるのか。果てしない欲望と無秩序な開発によって、地球環境は破壊され、多くの動植物種が絶滅している。二十一世紀に我々は希望より絶望を期待するほかない。
 しかし、聖書は人類が破滅の危機に瀕した時、神の子キリストが再びこの地上にやって来て秩序を取り戻し、人間が自分では持つことの出来なかった平和をもたらすというのだ。最後に少し長いがよく読むと興味深い人類の本当の希望が書かれている箇所を引用しよう。

「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れる事を楽しみとし、
その目の見るところによって、さばきをなさず、
その耳の聞くところによって、定めをなさず、
正義をもって貧しいものを裁き、公平をもって国のうちの
柔和なもののために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち
その唇の息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、
忠信はその身の帯となる」

イザヤ 11:1~5

 エッサイとはユダヤ人の理想の王ダビデの父である。ここに書かれているのは人類が究極において理想とする王の姿である。実のところ人類の理想の政治形態は民主主義ではない。
それは、愛と正義に満ちた王による政治である。
どんなに民主主義、民主主義と言っていても、少しでも有能な政治家が出ると、人間は期待と希望を持って迎えるではないか。逆にそうでなく、政治家が私利私欲に走り、蓄財、賄賂を日常茶飯とするとき、人々は失望し怒り狂うのである。それは政治家にこのような理想の王を無意識に求めているからではないだろうか。

「おおかみは子羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥たる家畜は共にいて小さいわらべに導かれ、雄牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、乳飲み子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らは我が聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。
水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである」

イザヤ 11:6~9

これこそ我らの願う真の平和である。その平和は動物にまでおよぶというのだ。いわゆる弱肉強食はなくなる。狼と子羊が共に住む。ひょうと子やぎ、ライオンと幼子、雄牛と熊が共に遊び戯れる。ライオンがわらを食うのだという。笑うだろうか。しかし、誰がこのような平和を考えたのか。このような発想はどこから来たのか。うそでもいいこんな平和を考えたい。人間の考え出す平和にはどこかに汚らわしい欲望が隠れ潜んでいる。
 今、地球上には「我こそはキリストの再来」いう人間がどれほど居るだろうか。ほんのお隣の国にも、己の「清い血」を分け与えることによって新人類を作り出すという奇特な御仁もおられるのである。しかし、聖書に言うキリストの再臨とは、他ならぬ「あのイエス」が来られる、それも雲に乗ってこられると言うのだから、それは天女の舞いのような神話の世界じゃと言う方もおられる事だろう。キリストの再臨は神話でも宗教の問題でもない。政治の問題である。彼はメシヤとして来るのではない(注;これは初臨の時と比較して言っているのであろう)。王として来るのである。
 キリストが2000年前、はじめて地上に来られた時、彼はあの「乞食と王子」の話のように貧しい大工のせがれとして、謙卑の姿で来られた。だからほとんどの人類、とりわけ神の選民たるユダヤ人ですらそれとはわからなかった。しかし、注意深い観察者なら彼こそ旧約聖書の約束のメシヤだとわかったはずである。なぜなら、旧約聖書は詳細にこの人物のディテールを預言していた。すでに見たように、その来臨の時ですら1年の狂いもなく予告していたのであった(注;ダニエル書9:24~25)。しかし、ユダヤ人は人間の最大の欠点の一つ、『先入観』でしかものを見ることが出来なかった。彼らはメシヤはたくましい王であると思っていたのである。預言者はその二重の映像を同時に語ったために彼らは王なるメシヤに気をとられて、その前にある僕のメシヤを見失っていたのである。
 僕なるメシヤこそキリスト教の奥義である。それは人類全体に課せられた入学試験である。神は天国にふさわしい人間をこの謙遜の姿で選抜しているのである。謙遜に謙遜を持って答えるか。それとも侮りを持って答えるか。天国には傲慢な人間は要らない。天国の市民権は謙遜である。聖書はそのためにキリストが自ら模範を示されたと言っている。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくある事を固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名に勝るなを彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス=キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」

ピリピ 2:6~11

謙遜な人間の選抜、これがキリスト教の秘密、存在意義である。

さて、最初のメシヤは注意深い観察者でないとわからなかった。そのために神は詳細な預言を与えられた。それに反して、再臨はほとんど細かい預言はない。特にその時などキリストは知らなくていいとさえ言っている。それは今度来る時はどんな不注意な人間でも分からないはずがないからである。何しろ今度来られるキリストはあの柔和な羊飼いの姿ではない。

そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

黙示 1:12~18

これはほとんど仁王像である。12弟子のうちキリストに最も愛されたヨハネでさえ、恐ろしさに震え上がり、気絶してしまった。
 その日(注;再臨=主の大いなる日)、歴史は止まり、天は地につながり、霊界が物質の世界に介入する。三次元はさらに高次元に侵入される。これはまったく想像を絶する世界である。
 そんなバカな事があるものか、と言われるなら、あえて問う、あなたは他にこのような事態に変る希望を持っているかと。もし何もないなら、そのままでいいのかと。
 先入観これこそ最も悲しむべき人間の欠点である。私は日本で伝道していて、どれほど思うのか。なぜ、知らないものを白紙になって知ってみようとはしないのか。そんな思いからかなり思い切った文章を書いてみた。私としては日本人の前から、キリスト教に対する先入観をふっ飛ばしたいのである。そして、聖書にはこれからの近未来がまるで手に取るようにあざやかに預言されている事を示したかった。読者がこれからの人生航路に聖書を羅針盤として下さったらそれに勝る喜びはない。

引用終わり~

長かったので疲れたことでしょう、チョッと休憩入れます。

この本の初版が1993年の6月、私が最初に読んだのが1997年の秋口だった記憶があります・・・

17(13)年が過ぎ去りました・・・2010年現在、まだもう少し時間がかかりそうですが、射程圏内にはあると考えます。遅くともあと2年以内には黙示録の本番が始まる気がします。
私が幸運だったのは、宗教にありがちな単なる「気休め」や「心の拠り所」ではなく、いきなりキリスト教の奥義に触れることが出来たことでしょう。
そうでなかったら、宗教大嫌いであった私のこと・・・おそらく拒否していたことでしょう。
この本もかなり賛否両論あったようです。誹謗中傷、バッシングもあった模様です。

折りしもバブル崩壊後の、悪化するばかりで先の見えない不況時・・・真理を捜し求めていた私には衝撃でした。

私としても、この記事を読んだ方100%すべてが、受け入れるだろうとは思ってません・・・

信じるか信じないか、賭けるか賭けないか・・・それはあくまで個人の自由。自由意志、こればかりは神といえど犯すことの出来ないものですから。

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主イエス=キリストの愛」カテゴリの記事

コメント

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。

これからの混沌とした世の中で人々が求めるものは、何があっても変わらない不動の真理だと思います。どんなに努力しても人間に罪あるかぎり、決して世は良くはなりませんね。
この本は真理をついていると思います。
聖書に書かれてあることは必ず実現しますから、そこから目を離さないでいたいです。そして多くの人が、十字架に架かられ、その血によって与えられた罪の赦しの真の救いを受けられますように・・・。

スポルジョンの言葉を紹介します。

その来る日には、だれが耐えられよう。(マラキ3・2)
主が初めて来られた時に、外部的な華やかさや力の誇示はなかった。が、それにもかかわらずそのテストの力に耐え得た者はほとんどなかった。ヘロデとエルサレム中の人々は驚くべき誕生の知らせを聞いて動揺した。主を待ち望んでいたと思われた者らは、主が実際に来られた時、主を拒否し、彼らの告白が偽りであったことを暴露した。主の地上における御生涯は打場をきよめる箕であって、多くの宗教上の告白をふるいわけ、それに耐え得た者はほとんどなかった。しかし主が再臨される時はどうであろう。それを考えてみるだけで絶え得ると思う罪人がいるであろうか。「(彼は)その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。」彼は兵士たちに「わたしが、それである」と言われただけであったが、兵士たちは地に倒れた。さらば彼があらわに「わたしが、それである」と御自身を表わされた時の敵の恐怖はいかばかりであろう。主の死は地を震わせ、天を暗くした。さらば彼が生ける救い主として死者と生者とを御前に集められる時の恐ろしい光景はどうであろう。ああ、その恐怖が人々をして罪を捨てさせ、神の子の怒りをなだめんために彼に口づけするに至らんことを。

enjeruさん、いつもありがとさんですm(__)m
最終チェックをして電源落とそうと思っていたら書き込みがありまして、グッドタイミングです(笑)

スポルジョンの言葉も核心突いてますね。
私も今更ながら気づいたのですが、キリスト教って、究極的には政治に行き着くのですよね。誰もが待ち望んだ統治者=王の王である方の帰還なんですよね・・・

だから私の場合、ある意味で現実的、すんなりと受け入れられたのかもしれません。


ザアカイさん、enjeruさん、皆さんお早うございます。

やっぱり主イエスの訪れの時は私たちの希望、人々の救いへの招きなんですね。読んで元気が出ました。

スポルジョンの言葉からすると、今主イエスを信じている私たちはふるいにかけられ残ったわけですよね。不思議な恵みに感動してきます。

さぁ、今日も主イエスと共に参りましょぉ~!
ヽ(^▽^)/

主イエスは、何の為に再び地上舞台に登場するのでしょうか…?

その答えのヒントが82年に公開されたディズニー映画トロンTronにあります。
主人公は、自分が創造したバーチャルワールドに侵入した悪玉ウィルスのアランのバーチャルワールド壊滅作戦を阻止する為に、自らが命を省みず 降臨します。
最初、彼は創造主であることを隠していましたが、コンピューター世界に生きているバーチャル人間たちを「救う」為に、一度はアランの策謀で「死に」渡されます。
しかし、やはりドンデン返しがあって主人公は「復活」し、一度現実世界へ戻ります。

今年2010年末に公開の続編では、「再臨」する彼と彼の息子が再びバーチャルワールドで、死に瀕した人々を救う為に立ち上がり、大活躍します。

あらためて、主イエスは何の為に地上に再臨されるのでしょうか?
その答えは敢えて申し上げません。問題なのは「あなたは」主の再臨を歓迎するでしょうか?それともあくまでも頑なに拒否しますか?

これ、天下一番の大事なり。

モトイさん、こんにちは。
本からの引用記事ですが、コピペでなく、キーボード叩いた甲斐があったというものです、感謝。

うちの教会の牧師先生もよく言います、
「本当の救いが成就するのは再臨の時です」と。
すでに射程圏内にあると信じ、歩みたいものです。そして、早くロック=オンになれば!などと(^_^;)

キラちゃん、へえ~、トロンってそのような内容だったのですか。

>問題なのは「あなたは」主の再臨を歓迎するでしょうか?それともあくまでも頑なに拒否しますか?

→さすが、鋭いところ指摘しますね。

ザアカイさん、皆さん、こんにちは。

2月11日夜9時頃より一つの言葉が繰り返し臨んでいます。
その言葉の重荷に苦しんでいます。
そして主に「主からのものでないならば取り去ってください」
と祈っています。
今日にいたるまでずっと朝から何回も言葉が繰り返し来ます。
皆さんもこの言葉が主からのもであるかどうか祈っていただけたらと思います。そうすれば私の重荷も軽くなると思います。(涙)

 『もうまもなくイエスが来る』

御霊も花嫁も言う。
「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22・17)

enjeruさん

私からも、お祈りしますね。
主が、間もなく来られる事を 心から願っています。
世界は、もう 限界です。。
いままで 世界的にも豊であった 日本にも、絶望で 将来の生活の見通しのない
心が押しつぶされそうな、人がたくさんいます。。

命の水を 多くの方が、受け入れられますように。。
宗教というなで、つまずきとなって、受け入れられない人もたくさんいるでしょう。
どうか、心の弱さを ゆるし、憐れみを向けてくださいますように。。

ヨハネの黙示録 / 22章 20節
これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

「もうまもなく」という時間がどのくらいなのか・・・それほど遠くないと信じます・・・しかしながら、なかなか特定するのは難しいですよね。3年以内か、それとも10年以内なのか、はたまた思いがけず、艱難期前携挙を意味して、半年以内なのか?・・・残念ながら、私にはまったくわからない・・・

どうか聖霊の助けにより、正しく聞き分けることが出来ますように。

微力ながらお祈り申し上げます。

ザアカイさん、enjeruさん こんばんは

以前のenjeruさんに、かけられた声や、今年初めに雷と稲光で応えられた源は 明らかに主イエス様の父なる神ヤハからのものだとわたしは思います。
そして、キリスト教掲示板にも書いたように、いよいよ主イエス様のおいでになられる時が「本当に」近いのかもしれません。少しわたしがコメント欄に久保先生の「2014年ユダヤの大預言」について書いたように、1914 1948 1973 2001 2008 そしていよいよ…ではないでしょうか

奇しくも今日で旧暦の大晦日です。明日は旧暦のお正月 春節 あと四時間余となりました。

http://jbbs.m.livedoor.jp/b/i.cgi/study/3405/1264650840/

みなさん、良いお年を

ザアカイさん、皆さん

お祈りありがとうございます。

「もうまもなく」というのがどのくらいの時間があるのか・・・。
本当に分かりませんね。

ただ聞こえてくる声をそのまま書いただけです。

サマちゃん、キラちゃん、近いうちお会いできそうな気がします。

皆さまが祈ってくださっているので少し心が軽くなりました。
感謝!

主イエスさまのご栄光だけが現われますように・・・。
多くの主イエスを知らず苦しんでいる魂が十字架の救いを信じて本当の平安を受けられますように。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(Ⅰテモテ 2・4)

 時のしるしは見分けが困難でしょうね、私の妄想では・・・・
014年4月15日の皆既月食から015年の9月28日の皆既月食まで約半年(半時)これを艱難期の中間の半時の天の静けさだとすれば、今年の秋ごろいよいよ始まるかもしれません。?

 以下のサイトお勧めです。http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/folder/193628.html
 主は信仰ではなく信頼を私たちに求めているそうです。

みなさんはバンクーバー五輪の開会式を見ましたか?
昨日、昼に放送されたライブ映像では、少年が地上から舞い上がって、空中飛行する場面 素晴らしい演出でした。(夜に放映された編集映像では、残念ながらカットされていたそうですが…)
そして、ダンサーたちが空中にさながら携挙されるように、垂直上昇していったあの場面は何なんだったのでしょうか?

(第1テサロニケ4:16.17参照)

聖書には、キリストはいよいよ終わりという時に選びの民を天に携え上げるとハッキリ書いてあります。救い主が地上が灼熱地獄になる前に花嫁を救い上げる。

(第2テサロニケ1:7参照)

もし、レフトビハインド引き上げられなかったとしたなら、失望するだろうか?

収穫ハーベストの取り入れには落ち穂は残る。落ち穂として地上に残されたならイエスの箱船に入り損ねたと言って悲観することはない。信仰が無いので取り残されたのではなく「大迫害に耐え、伝道の使命が果せる」と神が残されたのかもしれないから…あとから必ず合流するのだから

残りものには福音がある。

(レビ記23:22参照)

でもね~本音、わたしは落ちこぼれたくなーい!!

う~ん?難しい問題ですね。
やはり、終末のエリヤとモーセに一刻も早く登場してもらわねば。

ただ、携挙時期を別とするなら、ハルマゲドンまで時が進まない限り再臨はないわけですからね・・・

解釈が間違ってないならば、ロシアが動き反キリストが登場しない限り、黙示録の本番はまだ?始まってないともいえるし・・・

少なくとも前兆はともかく、物質的なラッパと思われる「しるし」はまだなんでしょう。

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