キリスト者の確信とは?
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
イザヤ 25:8
わたしはエルサレムを喜び、我が民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞こえることはない。
彼らの勤労はむだでなく、その生むところの子らは災にかからない。彼らは主に祝福された者のすえであって、その子らも彼らと共におるからである。
彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。
おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない」と主は言われる。
イザヤ 65:19、23~25
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
黙示 21:1~4
イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
ヨハネ 20:15~16
今現在、アメリカが揺れ始めています。しかし断片的なものばかりで、確信を得られる情報がありません・・・ということで、いつもいつも暗いことばかり書いていたのでは気が滅入ってしまい、サタンにつけ込まれるので、バランスを取るため、たまには信仰に関する希望に満ちた明るいことも書いてみようかと。
上記引用した聖句は、我がブログでたびたび引用してきました。好きな聖句は多々あれど、キリストにある終着駅という意味で言うと、閃くのはこれらの箇所でしょうか。
ただ単に陰謀論、人類の裏側を探っているだけでは自暴自棄になり、絶望し、発狂するだけです。歴史の裏側から、政治経済の裏側=いわゆる人類の闇の側面~から導かれた私みたいな人間が今、こうしていられるのは、主イエス=キリストという史上最大の希望があるからなのは疑う余地がありません。
我がブログも、のびたさん、わたぴ~さん、モトイさん、そしてジュリさんと相互乗り入れ、リンク先が増えてきました。感謝な事です。そんな中で訪れる方々の中には、キリスト者でないにせよ、少なくとも関心はある方がほとんどだと思っております。
つくづく感じますが、自我を徹底的に打ち砕かれて、御前にひれ伏すまではなかなか受け入れることは難しいかもしれません・・・自分がそうでした。
キリスト教とは徹頭徹尾「他力本願」否、「キリスト本願」なわけです。私はマグダラのマリヤの復活した主との再会の場面、その気持ちが自分のことのようにわかります・・・
今現在の閉塞感漂う、先の見えない時代に置き換えれば、主イエスだけが頼りです。これでもう恐いものなど何もない、爽やかなそよ風が吹きすさぶ、溢れんばかりの暖かな光の渦の中に身を置くようなものでしょう。
すべてが終わるのだ、というか、すべてが解決する。もう悲しみ、苦しみの涙を流すことはもはやない。人類では歴史上そうであったように、到底出来ないことなのです。私は荒唐無稽のおとぎ話だとは思いません。
あのパウロが言ってます。ガマリエル門下のパリサイ派の超エリートであった人間が、今まで自分の得たものは、キリストに比べれば糞土のごときだと。漁師であったペテロやヨハネと違って、彼は今で言えば、ハーバード、東大卒のエリートだったわけです。いつも書いてますが、理屈じゃありません。幼子のように心を開けば、おのずと主は訪れてくれるのです。
「急いで降りてきなさい。あなたの心に今日泊まるから。あなたもまたアブラハムの子なのだから。」と・・・私たちが心を開くのを待っておられるのです・・・
わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。
第二テモテ 4:6~8
なかなか私ではパウロのごとく、間違っても!このように言うことは出来ません。
「じゃあ、おまえは主に会えるのか?」と問われれば、「たぶん?大丈夫でしょう。絶対に大丈夫!たぶんね --;」程度かもしれません。
しかし、それしかないのです。ないのなら、それに賭けるしか選択肢はありませんから 。
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