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2008年9月13日 (土)

サマリア人さん、あなたは主イエスに愛されているのですよ!

だんだん収拾がつかなくなってきたような(^_^;)・・・管理人として見て見ぬ振りは出来ないようですね。
心労で寝込んだ時はしばらくブログお休みします・・・(涙;)。
その時は、わたぴ~さん(また振っちゃッたよ^_^;、でも一番信頼してるということで、ブログやってるし)・・・バルナバさん・・・nnobitaさん・・・enjeruさん・・・あとのことはよろしくお願いしますm(__)m。

サマリア人さん・・・私ごときで納得する答えが出せるとは思ってませんけど・・・付き合いましょう。
わがブログと関わりを持ったのも何らか理由があるかもしれないから。

その前に!三位一体をまず無視しなさい!!

この際、背に腹は変えられません。
それとおかしなサイト、教理関係のネットサーフィンはやめること!
私が思うに、「ホルスの目」のサイトでおかしな影響受けたんじゃないかな?
オカルト=パワーをバカにしちゃいけません。
そうじゃないと、いつまでたっても、サタンの惑わしから抜けられませんよ。
「相手は人間じゃあない」のです、元フォーブス=アジア編集長さんみたいに、「我々で立ち上がって戦おう!」などと言うのは、バカの見本です・・・相手を知らないでノコノコ出て行ったのでは、発狂するだけです。

それと誤解のないよう言っておきますが、悪霊の惑わしは、誰にもやってきます、何もあなただけじゃない。
それにサタンは、どうでもいいような人間、サタンにとって強敵となる可能性のない人間は相手にしません。
サタンがあなたを「今のうちに潰してしまおう」と考えても不思議じゃない。
わたしは、サマリア人さんが、それだけの可能性を秘めていると思ってます。

バルナバさんが紹介してくれたサイトにもあったでしょ、「三位一体を充分に理解しようと思う者は、頭がおかしくなるであろう。」って。これは脅迫でも何でもなく、事実です。
まったくその通りで、三位一体と限らず、聖書を完璧に人間の頭で納得できるよう理解しようと思うならば・・・発狂するのが関の山です。東大卒、ハーバード卒の頭脳をもってしても無理!預言者でさえ、すべてを理解しているわけではないのです、「理解する、神がそのベールを剥ぐ」にも時があるのですよ。
悪い事いわないから、やめましょう。だから「悪霊にやられた・・・」とはっきり言ったのですよ。「惑わしの霊」にやられたわけです。

それとnnobitaさんがいい事言ってくれました。

>愛と同じように信仰も最後の飛翔は理屈では説明できない。
って・・・

いいですか、理屈じゃないのです・・・真正のキリスト者であれば、誰でもわかるはずです。

ということを前提に、サマリア人さんのコメを検証してみましょう。

>これは正統なカトリック、およびプロテスタントクリスチャンとして、洗礼を受けたもののみが最後の審判で復活するというと理解されているのですか?

→私はそうは思ってませんよ。洗礼受けたって、名前だけのクリスチャンだけならいくらでもいます。
総裁選に出馬している、麻生、与謝野、石破だってそうなんですよ。
あんなのがクリスチャンだって?ふざけんじゃねえよ、って言いたくなります。私は絶対に認めない!

洗礼受けてなくたって、素晴らしい信仰を持った人はいるはずです・・・

>反対にエホバの証人だろうが、仏教徒だろうが三位一体の教義をうけてなくても、神の教えに従っていきようとしている人

→残念ながらこれは違うんだなあ。三位一体じゃなくて

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。  

ヨハネ 14:6


が正解です。これは私じゃなくて、聖書が言っているのです。唯一の救いはキリストによる!って。
いい人と正しい人は違うのですよ。このことは、わが教会で長老の方に言われ、「ハッ!」としました。

>偽クリスチャンでも、彼らより救われるチャンスがあるとお思いなのですか?

→答えは明白ですね?enjeruさんだって、そうは理解してないはずです。これは誤解。イエスをキリストと認めない、自称?クリスチャンは世間一般の人より、サマリア人さんが言うように、ある意味厳しいかもしれませんね。

>教義の同じ人だけが尊敬に値するとでもおっしゃりたいのですか?

→そんなことないでしょう。冷静になってください。キリスト者じゃなくたって、いい人、尊敬できる人はいくらでもいます。それどころか、自称クリスチャンより、よっぽど!「キリストの教えをわかってるじゃん!」という方はいくらでもいます・・・そして無理にキリスト教を押し付けるべきではありません・・・

時があります。そして三位一体がわからないから、クリスチャンになれないという理解も間違ってます・・・それを言ったら、私・・・クリスチャンじゃないです(-_-;)・・・あなたもそのうちわかるときが来るはず!

理屈じゃないのですよ・・・それが、知識と信仰の大きな違いなのです・・・知識だけなら、宗教学者の中に長けた人だっています。牧師先生より詳しい。でも信仰がなければ、絵に書いた餅だと私は思う。

聖霊の助けがなければ、「イエスこそ唯一の救い主である」ことがわからないし、聖書の言わんとしている真理はいつまでたってもわからないと思う。

エホバの証人だって、創価学会の信徒だって、いい人はいますよ。この世的に助けてもらっている人もいる。そういう人には、別の方法があるのかもしれない・・・それは残念ながら私にはわからないし、新しい神学を立ち上げるつもりもありません。

ただし!いいですか!!唯一の救いはキリストです。これは私としても譲れません・・・

>ただ、三位一体については神と神の子キリストが同質だとはわからないのだから、理解しようがないのです。
絶対に、神とキリストが同質でないと信じないと、神に裁かれる、そんなことどこに聖書に書いてあるのですか?

→だから理解できなくていいんです。「わからないのは罪である」と言うのにも似た、サタンの脅迫に惑わされているのです。そうでなきゃ、それほど三位一体にこだわるはずがない・・・みんなわからないで、「キリストの救い」を受け入れているのです。それだけで充分です。

私はキリスト教とは、徹頭徹尾キリスト本願で、キリストを「唯一の救い主=来るべきメシヤ」であると受け入れていれば、それでいいと思っているのです。だからキリストの救いをうまくはぐらかすエホバの証人や、キリストの神性を表向きはどうあれ、認めないユニテリアン=ユニバーサリストはキリスト教ではないと言っているのです。とにかく三位一体の惑わしから離れること!

時が来れば誰でも理解できるように、主イエスが真実を教えてくれるから。それまで待とうよ。

>三位一体という正統な教義を信じないと、救いはないと、どうして言い切られるのでしょう。
罪の悔い改めって、正統教会がいうように、キリストと神が同質でないと信じられない事を罪といわれるのですか。。

→そんなこと誰も言ってないよ。聖書にも書いてないよ。惑わされているのはあなたですよ・・・被害妄想に陥っている。

ただ、「キリストこそ唯一の救い主である」ということがわかっていればいいんだよ。これならわかるよね?それだけで充分です(^_^)v。

最後に私の大好きなエピソード、メッセージなどを少々。何度わがブログで書いても過ぎることはないから。

>使徒のあとの時代の第一クレメンス書簡にはペテロがローマで殉教したと書かれています。それを元にしたのでしょうか19世紀のポーランドの作家シエンキヴィッチはすばらしい物語を書きました。『クオ・バ・デス・ドミネ』(主よいずこに行き給う)という名のこの小説はローマ皇帝ネロの迫害の時の様子が見事に書かれています。大迫害の中クリスチャン達次々と犠牲になります。弟子たちはペテロにローマを脱出するように願います。あなたひとりは私たち数万人にも当たりますどうぞ逃れてください。
ついにローマを後にして郊外に出たペテロは向こうの空に輝く光を見ます。それはやがてペテロの横を通り過ぎようとしますが、弟子たちの目には何も見えないのにペテロの目にはその光の中に主イエスが見えました。ペテロは問います。「クオ・バ・デス・ドミネ」“主よいずこに行き給う”。主は答えられます。「ペテロよ、あなたが私の羊を捨てて逃れるなら、私はローマに行ってもう一度十字架に掛かろう」
「主よ申し訳ありません」老ペテロは驚く弟子たちを尻目にくびすを返してローマに帰ります。そしてついに捕らえられ十字架刑に処せられます。その時、ペテロは私は三度も主を否んだ者だ、主と同じ十字架に掛かることなど出来ないと、両方の腕木が下にある十字架にさかさまに掛かり殉教したと伝承にはあります。
弱く、無学で、普通の人だったペテロ。しかし、彼は幼子のように主に従いました。彼は常に真実でした。ガリラヤ湖の無名の漁師は歴史上もっとも有名な人となり、キリストの教会の柱となりました。


~小石牧師の礼拝説教集 2000/7/9 ペテロ Ⅲ より

* サマリア人さん、この老ペテロのどこに、「三位一体」の概念がありますか?この頃はまだ、アタナシウス神学もアリウス神学もなかったんだよ。そこにあるのは、ペテロの純粋なるキリストに対する従順だけじゃない、それだけでいいじゃん!

次いきます、長くなりそうだけどご勘弁を。

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」19:5

 イエス様はザアカイという名前を知っておられました。前に聴いたことがあったのか、それとも神であるご自身の力で知っておられたのかは判りません。しかし、イエス様はザアカイの名前だけでなく、その心の求めの全てを知っておられたに違いありません。そうでなければ「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」とは言わなかったと思います。先日学んだイザヤ書の言葉を思い出します。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた。わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。イザヤ45:4~5(口語訳)

 イエス様はあなたを知っています。あなたの必要、あなたの寂しさ、あなたの苦しみ、あなたの悲しみ。
 面白いのはザアカイの家に泊まることにしてあるからという言葉です。ザアカイの承諾があったわけでもなく、全くの初対面なのに、まるで旧知の友人の家に泊まるように、気軽に言われたのです。ザアカイは友を持っていたのです。イエスという親友を持っていたのです。そうです私たちすべてはイエス様という親友を持っているのです。

ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」19:6~8

 ザアカイは「急いで降りて来」ました。人々からのけものにされ、鼻つまみ者だったやくざの頭。しかし、彼は今、幼子のように喜び勇んでイエス様を迎えました。案の定、人々はイエス様を非難しました。「何だ、あの男もザアカイと一緒か」。
 しかし、ザアカイも、そしてイエス様も全くそんなことは問題にしていません。ザアカイはたちまちにして自分がなすべきことを悟りました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」。主よ、というとき人は自分がその人の僕であると告白しているのです。人を人とも思わず、金だけがすべてだと思っていたザアカイ。すべての人に憎まれても、一向に気にせず、荒くれ者の頭だったザアカイがイエス様に「主よ」と呼びかけました。「私はこれからの生涯、あなたを主と仰ぎます。あなたは神の御子、約束のメシヤです。」

イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」19:9~10

 ザアカイは失われた人でした。言わばこの世の脱落者だったのです。しかし、そういう人のためにこそイエス様は来たとおっしゃるのです。救いが来ました。アブラハムの約束。永遠の救いがここに来ました。
 その日、エリコの町の貧しい人々の家に、ザアカイの僕たちが金銀をばら撒いて行きました。ザアカイの莫大な財産の半分が、エリコの町に流れてゆきました。
 イエス様はザアカイの決意を喜ばれました。イエス様はザアカイの差し出す悔い改めの捧げものを受け取られました。イエス様はザアカイに、あの金持ちの息子のように全財産を捨てよという命令はされませんでした。それはなぜだと思いますか。あの青年は「あなたに従ってまいります」と言ったのです。献身するのに財産は要りません。すべてを捨てるべきです。ペテロもヨハネも、網と両親を捨てて従いました。しかし、ザアカイはイエス様に従って行くと言ったのではありません。彼はエリコに留まりました。恐らく取税人もやめなかったことでしょう。正しく行うならそれは間違った職業ではなかったのです。イエス様はザアカイの信仰の度合いに従って、ザアカイを受け入れたのです。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28~30


 今もこの方は変わらずに私たちを待っておられます。イエス様は今日もあなたに言うのです、「急いで降りてきなさい。今日、あなたの家に、あなたの心に泊まることにしているから。私はあなたの親友だから。

~ 小石牧師の礼拝説教集 2002/8/25 組長ザアカイの回心より

* 私はこのメッセージによって、ハンネが与えられました・・・そこにあるのは、常にキリストと自分との関係でしょ?元祖オリジナルのザアカイさんだって、「三位一体」を信じて救われたわけじゃないよね?主イエスをキリストと信じて救われたわけだよね?これだったらわかるよね?それと二つのメッセージに共通する事、それは、「幼子のように」です・・・小難しい理屈はいらないのです。

私の信仰の基礎の半分以上は小石牧師に教わったものなので、先生に無断ですが、引用させてもらってます・・・あの先生、「陰謀論者」とか「反ユダヤ」のレッテル貼られているけど、それは単なる一面で、あの牧師先生の信仰の真髄は、「三位一体」じゃなく、「キリストの際限なき愛」なんです。これだけで充分です。

これで最後です。

フット=プリント(あしあと)

ある夜、私は夢を見た。 

私は、主とともに、なぎさを歩いていた。 

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。 

どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。 

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 

これまでの人生の最後の光景が映し出された時、 

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 

そこには一つのあしあとしかなかった。 

私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 

このことがいつも私の心を乱していたので、 

私はその悩みについて主にお尋ねした。 

「主よ、私があなたに従うと決心した時、 

あなたは、全ての道において、私とともに歩み、 

私と語り合ってくださると約束されました。 

それなのに、私の人生のいちばんつらい時、 

ひとりのあしあとしかなかったのです。 

いちばんあなたを必要とした時に、 

あなたが、なぜ、わたしをすてられたのか、 

わたしにはわかりません」 

主は、ささやかれた。 

「私の大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 

あしあとがひとつだったとき、 私はあなたを背負って歩いていた。」
 

* どうですか?ここにだって、「三位一体」の三の字も出てこないよね?でも私には充分主イエスの愛が伝わってくるし、三位一体などわからなくても、「主よ、私はあなたについていきます!」という気になりませんか?

今は確かにつらいかもしれない・・・キリストを受け入れるということは、つらいことも覚悟しなくてはならないから。それも神の子となる(もちろん、キリストと違った意味でです)ためには必要なのです。

みんなそれを乗り越えて、今に至っている・・・キリスト教とはその初めにして、つまづきの石なんです。来るものを選ぶのです・・・大丈夫!それこそ「わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。

となるから(^_^)v。

今日は不思議と爽やかで、心穏やかです・・・冷静に書けました。こんなしょうもないブログでよければ、いつでもおいで・・・私も覚悟決めたよ・・・とことんまで付き合ってあげるから・・・でもお手上げの時は・・・わたぴ~さん、よろしく~(^_^;)・・・ふり杉だって(笑)。

それにしてもバルナバさん・・・

>バルナバです。
サタンの策略は明確です。
私たち主に在る兄弟姉妹の分裂と、子羊通信の閉鎖です。

私・・・ここまで考えませんでしたよ(^_^;)・・・

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コメント

ザアカイさん、こんばんは。
コメしようと思ったら、もうザアカイさんが思うところ全部言ってくださいました。感謝!
ザアカイさん、ごめんなさいね。
主におまかせするように言われたのについ出しゃばったまねをして。
私、後で反省しました。
一番主に赦しをこうたのは、主のご栄光を傷つけたこと。
それが一番心の痛みでした。
バルナバさんがフォローしてくださって感謝でした。
ザアカイさんが主を愛しておられることに改めて感謝しました。

愛するサマリヤ人さん
あなたを傷つけてごめんなさいね。決してあなたを嫌っているわけじゃないのです。
ホント、今度の件でもあなたのためにものすごく祈らされました。
コメ書いた以上責任がありますから。
あなたが主を信じているとのことですので、あなたは救われています。(ヨハネⅠ4・2)
このことはごめんなさいね。あなたが救われていないような書き方して。
ただザアカイさんが言われるように
この世的にみていい人が救われるのではなく、救いはキリストを通してのみ。
そのことだけ言いたかったのです。
それとお願い。ザアカイさんやわたぴーさん、バルナバさんの言うことに素直に聞く耳を持ってね。
それが、あなたが悪の力から守られる一番の方法だと思います。
あと主にまず祈ってね。私が言いたいことはそれだけ。
サマリヤ人さんとともに主の栄光を現したいわ。
子羊通信では、唯一の女性二人になってしまったですね。
女性がいないと子羊通信も「花」がなく、味気ないかもよ・・・(笑)
さあ、またゼロからの出発!
サマリヤ人さん、主があなたを愛しておられますよ!
天に目を向け出発!ゴー!

前日に続けまして、ザアカイさんこんばんは。

三位一体についてはとても難しい。。。
何度も理解しようと牧師である父に質問しても、クリスチャンのその他の家族に質問しても納得の行く回答は得られませんでした。
三位一体が多く語られた時代の方々も、かなり議論したそうですが、私レベルでは本当にとても難しい。
それこそザアカイさんが仰られているように頭が混乱しまくりました。

ある論説ではイエスの偏在性は復活して天に上げられてから機能し、そこで初めて完全となったとの旨が述べられていましたが、確かに可能性は否定できないと個人的に思ってしまいました。これは異端の考えに通じてしまうのでしょうか?
その考えに同調もしくは可能性は否定できないと感じてしまうことは三位一体をも否定することにつながってしまうみたいですね・・・
本当に一生抜け出せそうにない迷路です。何はともあれイエス自身がそれを述べたのではなく後の世の宗教家達の間で三位一体は成立されたものだということも以前どなたかが述べられていましたが忘れてはいけないような気がします。
真実は全てをつかさどる方のみがご存知なのですから。

また、クリスチャン以外は救われないのかとの問題についても、
多くのクリスチャンは「そうだ」と答えると思います。そしてその考えに付随するのか多くのクリスチャンが洗礼を受けた日を「救われた」と語ります。それはイエスを「神」として認めるだけで救われるのだということだと個人的に認識していますが、本当にそんなに簡単に救われるのでしょうか?
多くのクリスチャンはなぜあなたは洗礼を受け救われるのでしょうか。との問いに
「イエスが私達の罪の為に死んでくださったからだ」
「そのイエスを神と信じているからだ」
と、答えると思いますが、信じているといったことは一体どういったことなのでしょうか。
イエスの教えを正しい意味で忠実に守ることの意なのでしょうか。

もちろん守れないこともある、誰でも真の意味で正しいと思いその道を突き進み罪を犯してしまう場合があります。
そして心から後悔し慈悲深き主にその許しをこう。それは忠実に生きている証だと思います。
弱い私達のことですから、人間的感情の中において致し方ない場合、例えるなら恐れや一時的な悪欲において犯してしまった罪についても
後で冷静にもしくは本当に後悔し許しをこうた場合主は罪を許してくれる。つまりはこれも忠実に生きている証だと。

ただ、気になる一番の問題は、主の教えを『一番良く理解』しているはずのクリスチャンが自らを「罪人だから」と割り切って後で謝ればいいやという軽々しい気持ちでその行為に及ぶ。それは羊の皮をかぶった狼そのものの姿ではないのでしょうか。そしてその罪を心から謝らないことこそが、教えに忠実ではない=神を信じていないと捕らえられる可能性が無いのでしょうか?

もしかしたら教えを知らないノンクリスチャンが犯す罪よりも、クリスチャンが犯す罪の方が神の前においてはとても大きな罪のような気がします。
もちろん教師である教会の指導者的役割をになう方々の場合は、一般信徒さんよりも深く聖書のみことばの意を学び信徒を導く立場にある方達ですからその責任はより重大になるのでしょう。

そう考えていくと神が本当に公平で適正な裁量者であるのであれば、
他宗教の方々もしくは無神論者の方々の中にクリスチャンよりも神の教えに結果的に忠実に生きている方を、ただひとつだけの理由「イエスが救い主だと知らなかった」だけではその道を閉ざされないのではないか。と思います。
その方々が一概に救われるとは私は神ではありませんので断定できませんが、救われないとも私は断定できません。

私はクリスチャンの家庭に、しかも牧師の家に生まれ周囲の信徒さんからは「恵まれている」「幸せだ」の今まで多く言われてきました。実の親からもそう教えられました。
それはその教えに身近で触れられるからだと認識しておりますが、全く触れる機会の無いまま人生を終えていく人があまりにも多すぎる。
そのかたがたは何も知らぬまま、教科書すら与えられないまま試験が解けないからと地獄へいくのでしょうか?
そう断定するにはあまりにも無情だと思います。

この様な想いを今まで数人のクリスチャンに質したことがありますが、
「そういった方にはきっと神様が何かをしてくれるはず(死後も含め)」と答えてくれた方がいたのは私の心の救いでもありました。

>エホバの証人だって、創価学会の信徒だって、いい人はいますよ。この世的に助けてもらっている人もいる。そういう人には、別の方法があるのかもしれない・・・それは残念ながら私にはわからない

ザアカイさんのコメも似ています。恐らくは私たちには隣にいるクリスチャンが本当に救われるのか?救われないのか?その人を他宗教の他人よりも知っているはずなのにそれすらもわからないんですから。
本当の神以外には何もわからない。

「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」ヨハネ 14:6
聖書を全体から捉え、このみことばの真の意味を理解しつつ、そしてそれが本当に真実のものであると理解しえたうえでもイエスが救い主だと認めない者に対して。
また、前述で述べた理解し納得し信仰をもったクリスチャンや教師たちが、本当の意味で神を欺き神の怒りに触れた時がその道が閉ざされる時だと思っております。
要はイエス=救い主と信じる。「信じる」とは何?それにつきると、今は考えています。

>ペテロがローマで殉教

外典のことは殆ど知りませんが、この件は以前見た覚えがあります。
外典各々の信憑性等も詳しくわかりませんが、
彼がどのように人生の最後を終えたのかは多くの方が興味を持っているみたいですね。


P.S:私自身はクリスチャンではありませんのであしからず。。。ずっと右往左往してます。(^^;

ザアカイさん、enjeruさん、サマリヤ人さんありがとうございます。
やはり主にある兄弟姉妹ですね、解り合えて感謝です。
 実はあのサイトはキリスト者の方ではないので、私のコメントはあえて避けました。
サマリヤ人さんには洗礼を受けるのに三位一体は重要ではないこと、そして、私が一番言いたかったことはザアカイさんに解っていただき、やはり方向性は同じだと感じています。
 サマリヤ人さんとの関係をもう少し築いてから忠告しようと思っていたのですが、陰謀論はあまり深入りしすぎると危険です、私の経験からですと互いに矛盾することでも成立することが多々あります。
真実の情報と惑わしの情報それを見抜くのは至難の技です、私もちょくちょく惑わされていますが。『何でもかんでもアメリカのせいにするじゃない』とよく言われます。

ども、わたぴ~です(^-^*)

♪~呼ばれて振られてジャジャジャジャ~・・・ (;^◇^)ノ~☆(ノ ̄皿 ̄)ノ
コメントするかどうか迷いましたが、ザアカイさんのコメント見てから決めようと思っていたら、いやぁ~、しっかり振ってきましたね、ザアカイさん(^▽^;)

サマリア人さんへ

かなり混乱されているようですね。コメントの内容を見ても、それが十分伝わってきます。お気持ちは痛いほどよく分かりますよ。ワタクシも現在無所属、無宗教(キリスト教ではなく、キリストそのものを信じているという意味)ですから。前にも述べましたが、ワタクシが聖書を学び始めた頃と瓜二つです。(~O~;) 結果、ワタクシの場合は放蕩しまくった揚げ句、未だにヘッポコデモクリですが。(TmT)

以下は、サマリア人さんのコメントを読んだ個人的な感想です。ワタクシの理解や解釈を押し付けるつもりはありませんので、ご了承ください。<(_ _)>

>カルトと呼ばれている組織も理にかなった事をいうこともある

サマリア人さんが、今回の件で「サタンに惑わされた」と決め付けるつもりはありませんが、サタンの攻撃はその人の短所を突いてくるばかりとは限りません。「長所」も突いてきます。なぜでしょう?それは、その人の長所を利用して惑わせば、本人にしてみれば「自分の考えは100%正しくはないかもしれないが、間違っているとも思えない」と簡単に思ってしまい、自分の分をわきまえることから逸れていってしまいやすくなるからです。「短所」が元になっていれば間違いも受け入れやすいでしょう。

では、ここで創世記に記されているエバを誘惑した蛇の言葉をよく読んでみてください。蛇の言葉は間違っていることばかりではありませんでした。では100%正しかったでしょうか。いいえ、答えはNoですよね。「多くの真実の中に、少しの嘘を混ぜる」のがサタンのやり方ですが、だからこそ人を誑かせたり、誘惑、あるいは信用させることが出来るのですよ。なぜ信用させる必要があるのでしょう。答えは簡単ですね。「滅びの道に道連れ」にするためですね。では、神様はエデンの園における蛇を許されたでしょうか。蛇がエデンにその後も居続けられたかどうかわかりませんが、罰せられたことは明確に書かれています。蛇は罰っせられたのですが、エデンの園を追われた人間には罰だけでなはなく、皮の衣を与えられました。おそらくその時に贖罪の儀式についても、神から教えていただいたのかもしれません。しかし、重要なことは今日においてサタンが、エデンの園における人間を誘惑した蛇の言葉を、そのまま「今の私達(人間)」にさせていることです。キッカケさえ与えれば、人間は生来の罪深さによってどんどん勝手に神の言葉から離れていきます。それがサタンの誘惑の根幹の一つです。

率直に言わせていただければ、カルトに対する認識が「甘すぎ」ます。カルトとは最終的に「人格破壊」です。教理の違いがどうこうという生易しいものではありませんよ。外から見る印象と、中で実際に経験する場合では明らかに違いがあります。勿論、日本とドイツでは国民性や価値観、宗教に対する受け止め方も違いますから、同じ宗教でもその国々によって、受ける側の印象も全く違ってくることも多かれ少なかれあります。サマリア人さんの知り合いの方は、その人なりの良い信仰を築いておられるかも知れませんが、それはそれです。

ここからは少し厳しい言葉になるかもしれませんが、あえて書きます。もし、サマリア人さんご自身の心が現状落ち着かず、不安が大きいのであれば読まずに飛ばしてくださって結構です。

まだ立ち上がることもままならない幼子に、いきなり「かけっこ」させようとする親はいませんよね。言葉も満足に話せない幼子に、難しい漢字の読み書きをいきなりやらせる親もいません。聖書を学ぶことは受験勉強ではありません。あなたが聖書解釈に関して100点を取ったからといって、「誰も神から祝福される訳ではありません」。それは神にではなく「自分自身に栄光を帰す」ことになります。それは自分の「分」をわきまえず、神の言葉の上に「自分の言葉」を置くことになるからです。「義に過ぎる」という意味の一つはそういうことです。あなたの言葉を借りて言えば、イエスが糾弾されたパリサイ派の人々と「50歩100歩」です。イエスが地上で奇跡を行われていた時、場合によっては、それを行うことを差し控えられたときもありました。それはなぜでしょうか。イエスが奇跡を行われる時はそれが必ず「神の栄光を顕わす」場合にのみ行われたからです。イエスは決して栄光も奇跡も「自分に栄光を帰す」ために行われたのではありません。「誰がどのような形で救われるのか」ということも、神様の領域に属することがらです。ワタクシ達が救う訳でもなければ、救いの規準をワタクシ達が明確に線引きできる訳でもありません。疑問を提示したり、意見交換するのは全然かまわないと思いますが、やはり行き過ぎは「義に過ぎる」ことになるでしょうね。ワタクシなりの今のサマリア人さんの印象は、バケツ一杯の水を、必死になって小さなコップに全て注ぎ込もうとしているように思えます。では、どうしたらバケツの水をこぼさずに、全てうまく移し変えることができるでしょうか。言うまでもありませんよね。

>誠実な人の方が、最後の審判で神の恵みをうけるのではないかと

「律法を守ることや行動によって信仰を現わすこと」に関する、基本的な認識が明らかに欠けています。誤解を恐れずに端的に言えば、それは単に良い行いをしようとする道徳に過ぎないのです。 行動は「神の愛に基づいていなくても」行なうことができます。ヤコブが述べた「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」という聖句に関する理解もピントがズレています。聖書における「罪」と言う言葉が「的を外す」という言葉を伴っていることを思い起こす必要があります。「行いのない信仰はよくない」と思われているのであれば、ローマ人への手紙がどのような順番で書かれているかをよく読んで、調べてごらんなさい。

もし、宗教の違いや信仰云々の壁を越えて「誠実な人の方が、最後の審判で神の恵みをうける」可能性が高いと思われているのであれば、それは神の王国の良いたよりを「聞かなかったほうが」神の前で(故意であれ、過失であれ)罪を犯さずに済んだかもしれないということになります。明らかに聖書の意図と反します。そんなことを画策するのは誰でしょうか。

大事なのは「どの程度、理にかなっているか」「理解できる範囲が云々」という人間の視点ではなく、それに対して「神様がどう考えておられるか」です。そういう意味においてまず優先させるべきは「神様がどのような方であるか」について、もっとよく認識することです。疑問を解明することよりもそれが先決です。サマリア人さん、あなたはまだ知っていること(理解している事)よりも、知らないことの方が多いのです。勿論、ワタクシ(達)も同じです。以前も言いましたが、理解出来ないことを思いの中心に据え続けて信仰を築くことなど、誰にもできません。しかし、私達人間の理解力で全てを知ることも出来ませんし、知ったからといってそれが即、信仰へと繋がる場合ばかりとは限りません。ですから、理解できることの中から「神様が信頼できる方であるかどうか」を調べる必要があるのです。そういう意味で言えば「人間の理解力に頼っている」のは、あなたの方ですよ。

>疑問を持つのが悪魔にたぶらかされているとなぜ言い切るのでしょう

正確に言えば「疑問を持つ」ことに対してではなく、「疑問の内容」に関して、そう思えたからなのではないでしょうか。「悪魔云々」ということになれば、突然そんなことを言われれば、誰であれ良い思いはしません。心中は痛いほどわかります。同時にそういったことを述べなければならない状況なのであれば、言う側にも勇気がいりますし、同じように痛みを感じます。そこは理解してあげてくださいね。けれどサマリア人さん、よく自分の心に問いかけてみて下さい。貴女が痛みを感じたのは「悪魔云々」ということ以上に、貴女の信仰心全てが否定されたように感じたからではないですか?そこは分別を働かせて下さい。

>聖書が言っているのです。唯一の救いはキリストによる!(ザアカイさんのコメントより)

これがキリストの教えと他の宗教とを「明確に」区別している最大の理由の一つです。

サマリア人さんのコメント内容は「片手落ち」が多いという印象です。まずは基本をしっかり身につけることです。今のサマリア人さんに必要なのは「心を沈め、落ち着く」ことです。現状において聖書や聖句、あるいは意見交換が重荷になると感じるのであれば、祈りに専念しても良いかもしれません。勿論、どのようにすれば良いかをまず祈りのうちに考慮し、それが神の御意志であればですが。自分から重荷を増やす必要はありません。それはイエスの贖いの価値を軽んじることです。消化不良でも良い意味で割り切れるならともかく、納得できないのであれば、続きはワタクシのブログにコメントしてください。ザアカイさんにもご迷惑がかかりますので。それで疑問が解決する訳ではないかもしれませんし、何の役にも立たないかもしれませんが、ワタクシもザアカイさん共々(やっぱり、とりあえず振ってみる(>▽<;;)付き合いますよ。但し、「納得できないのであれば」ということですので、その前提として「心を沈め、落ち着く」ことを、まず優先させて下さい。

こんなことで大切な羊が失われてしまうことは許されません。ワタクシ、哀しみの怒りプンプンです!! ヾ(●`ε´●)ノ彡 神様の憂いと悲しみはいかばかりでしょうか。あ、決してサマリア人さんに怒っているわけじゃないですよ~。(;~〓~) 
サマリア人さんの書いたコメントに、ワタクシなりに一つ一つ答えることも出来ますが、全部書いているとこのブログがパンクしちゃうので (ノ´▽`)ノ 
とりあえずこの辺で。<(_ _)>

わたぴ~です。すみません、補足です。<(_ _)>

>カルトと呼ばれている組織も理にかなった事をいうこともある
>「多くの真実の中に、少しの嘘を混ぜる」のがサタンのやり方

彼らが用いている「理にかなった事」は確かにそれ自体は真実ですが、それは自分達が信じさせたい嘘(あるいは故意でない場合などは「自分達の信じている事柄」)を信じさせるための道具でしかありません。「理にかなった事」を神への栄光のために用いている訳ではなく、自分達に栄光を帰すために用いるのです。100%とは言わないまでも、客観的に見て「うさんくさい」と感じるような教えであれば(中にはあからさまにそういったものもありますが)だれも着いてきません。ですから、「理にかなった事をいうこともある」のではなく、理にかなった事「も」いわなければならないのです。そして「理にかなった事」を利用し、信じさせる、信じ込ませる必要があるのです。まぁ、ハッキリ言って「詐欺師」の手口です。しかしそれは指導者レベルの事柄ですので、末端の信者にはまず解かりません。

どうしてもその点が引っかかるのであれば、最も理にかなったお方は誰でしょう。宗教や宗派、教理に必要以上に囚われてしまえば、神様をその中に閉じ込めてしまうこととなります。その時点で「普遍性」を持たれる神様を顕わしているとは言えなくなってしまいますよ。

ザアカイさん、皆さんありがとうございます。

わたしは、やはり甘いのだと思います。
自分が罪深く。肉のおもいにいつもかられるからこそ、非クリスチャンの誠実なかたがたと
比べてしまい、私などがキリストの救いの希望を知る機会を、与えられているのに、
かれらが救われないというのは、人間のわたしにはどうしてもわからない。。と。
はじめさんと同様に、憐れみのある神だったら、本当にキリストの本質を知る機会がなかったひとびとに、なにかしらチャンスを与えてくださるのでは?とおもっているのです。
自分自身、人間の理解に頼っているのは自覚しています。神の見方を理解するのはむずかしいです。
これは、旧約聖書を読むたびに、どう消化してよいものかと。。困っています。
自分の理解では、理解不能だから、神に信頼するしかない。。それだけのことなのですが、
どうしても、辛抱がたらなかったり、謙遜になれず自分で解決したいと思ってしまうのですよね。
それが、わたぴーさんのおっしゃるように、蛇がエバをだました事ともかかわるのでしょう。。

クリスチャンが死後、神のもと天国に行くのであれば、シェオル(墓)にいる、非クリスチャンの人々が最後の審判で、いわゆる行いによって裁かれる、いわゆる最後のチャンスのようなものがあるのでは? と思ったのです。 
もちろんこれもわからないことですから、やはり最後は神に信頼をよせる
それだけに、つきるのかもしれません。
神と御子キリストの存在、神聖さを認める事、愛する事、ここまではたぶん?いいのですが、
絶対的な信頼、神にすべてお任せするというのが、なかなかできない自分がいるのだとおもいます。
今回は、自分の理解と、人の理解(今回は教義の問題)への疑問に、おもいっきりつまずいてしまいました。 

自分も他人も100%正しくないのだからと、人の理解を重要視してはいけないと、
そう意見している自分が、人の理解の三位一体の教義の重荷につぶされそうになっていたのです。
教義も大切ですが、それは重要ではないという、一見矛盾でもありますが(一応、使徒信条ですから表向きは大事なのでしょうが)。。これが理解できていませんでした。
たぶん私は、教義が絶対的なものだから、絶対に信じないとだめだ、クリスチャンは全員それを100%信じきっているのだ、そうでなければ認められないのだ。。それを信じていないと、
それこそ異端審問のように、三位一体を絶対的に信じないと断罪するのだと。。
クリスチャンの方々に対する不信や、ザアカイさんがいうように被害妄想に陥っていたのだと思います
それで、誠実に見える、非(自称)クリスチャンをかばうように、なっていたのです。  

クリスチャンのなかには100% 三位一体や、教会が絶対的なものだと思う方もいるのでしょうが、
そうでない、ザアカイさんや皆さんのように、きっと本当の事は神様におそわらないとわからないのでは?、教会も大事だけれど、個人の神との関係が最終的に大切だとおもっている方々もいるのだと。。
その事を知る機会ができて、この子羊通信とコメンテーターの皆様には感謝しています。
クリスチャンへの思い込み(誤解)と、自分の理解にどれだけ頼り切っているか。。
今回、それがはっきりとわかりました。気付かずに勝手に背負っている重荷があるのですね。
その重荷を取り除いてくださるのが、キリストなのですね。

神に信頼を寄せること、これが自分の理解という、あるいみ最大の罪との戦いでもある、それが
神への信仰なのではないか。。。とやっと頭だけでなく、心に伝わってきました。
聖書の知識を取り入れるのも大切だけれども、一番むずかしいのは
やはり、アブラハムのように絶大な信頼をよせること、これなんですね。。
知識ばかりの頭でっかちになっていて、子供のように信頼するという、一番大切なものがぬけていたんですね。キリスト自身が子供のようなものが、天の国では一番えらいのだとおっしゃってましたね。。
道のりはながいですが。。一歩一歩進みます。

謹慎のつもりが。。しゃべりすぎてしまいました。

ども、わたぴ~です。(^-^*)

サマリア人さん、謙虚に受け止めてくださって感謝します。ありがとうございます。<(_ _)>
やっと、サマリア人さんの「心の声」が聞こえたような気がします。(^-^*)

ワタクシも、今回のサマリア人さんと全く同じ疑問を、当初抱いていました。が、今はご覧のように、見事に「ヘッポコ」・・・もとい、一応クリスチャンです・・・( ̄▽ ̄;)(全然励ましになってないぞ~ (ノ´▽`)ノオオオオッ) おそらく、人それぞれ内容は違うでしょうが、同じような道を、皆通ってきたのだと思います。ですから皆、自分のことのように心配しちゃったんでしょうね。「そっちじゃない!! 乗り越えるにはこっちに来なきゃダメだぞ~っ!! o(><)o」って。一時的なことですから、あまり負担に感じるほどに、自分を責めないでくださいね。それは神様やイエスは勿論、私たちにとっても喜ばしいことではありませんから。(*'-') ワタクシも現在、皆さんの助けを借りながら、聖書を学んでいるに過ぎません。ですから、ワタクシの理解や解釈が違うと思えば、遠慮なく指摘してくださいね。サマリア人さんの元気と熱心さは神様からの賜物ですから、今回のことにメゲズに、神様の導きと共に大切に育てて下さいね。(^-^*)

今回のブログ記事のタイトル通りですよ。サマリア人さん、貴女は神様に愛されていますよ。イエスにも、私達にも。('∇'*)
これからも共に学んでいきましょう。よろしくお願いしますね。(>▽<)b

バルナバです。
今日の礼拝の箇所は使徒13;13~26
『神の約束による励まし』でした。

使徒 13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。
ヨハネはバルナバの甥にあたります、理由は書かれていませんが(若いために伝道旅行の厳しさに付いて行けなかったのかもしれません)とにかくここで、つまづいていてしまいました。しかしヨハネは立ち上がり(とりなしの祈りによる聖霊の助けが有ったのでしょう)後にパウロに『私の同労者』といわれる人物にまでなりました。私はこのメッセージを聞きながらサマリヤ人さんのことを考えていました。つまづいて立ち止まっても歩き出せば良いのです、その時はパワーアップしていますよ。
 
サマリヤ人さんこれだから、教会での礼拝は大切なのです。

バルナバです。
今日の礼拝の箇所は使徒13;13~26
『神の約束による励まし』でした。

使徒 13:13 パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。
ヨハネはバルナバの甥にあたります、理由は書かれていませんが(若いために伝道旅行の厳しさに付いて行けなかったのかもしれません)とにかくここで、つまづいていてしまいました。しかしヨハネは立ち上がり(とりなしの祈りによる聖霊の助けが有ったのでしょう)後にパウロに『私の同労者』といわれる人物にまでなりました。私はこのメッセージを聞きながらサマリヤ人さんのことを考えていました。つまづいて立ち止まっても歩き出せば良いのです、その時はパワーアップしていますよ。
 
サマリヤ人さんこれだから、教会での礼拝は大切なのです。

いやあ~、みなさん・・・助太刀感謝いたします。
何も言うことはありません。ありがとうございました。

そしてはじめさん、示唆深いコメありがとうございました。私も考えさせられました・・・すべてがわかるわけじゃありませんからね。

よくK牧師が「クリスチャンじゃなきゃ、なくてもいいんです。フリをするのが一番いけない」とよくおっしゃいますね・・・

それと今日のわが教会の説教での牧師先生の証しです。
「私の父も牧師でしたが、私にひとことも!クリスチャンになれ、牧師になれとは言いませんでした。 
 その代わり、毎朝礼拝堂で『子供たちがあなたを信じるようになりますように』と祈ってました。(笑)」
「そして!食事の前に15分も祈るんです!普通30秒くらいです。こっちはお腹へってへって、早く食べたいのに~!(爆;)」って。

enjeru さん
子羊通信、唯一の姉妹として、愛をしめしてくださってありがとうございます。
私、気合い?は十分なのですが、自分の力には負えない重荷をせおってしまったのかもしれません。
やはり、気合いも限度がありますね(^-^; 重すぎるのに、きのせい、大丈夫とおもってしまい、
あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、皆さんにごめいわくと心配をおかけしてしまって、
そしてとうとう尻餅ついてしまいました。
重荷を主キリストに、もっていただいて、もしくはいらない荷物は兄弟姉妹の助言をきいて、処分するのも大切なのだと、まなびました。

アン シャーリーさんも戻ってこられるといいなと。。いのっています。
ひょっとすると、静かに子羊通信を見守っている、姉妹たちもいらっしゃるかもしれません。

花ですか。。ザアカイさんにあだ花といわれてしまったのは、ちょっとショックでしたが。(;;;´Д`)
サマリア人、しぶといですから、立ち直り早いです。(懲りないだけかもしれませんが。。)
華やかではなくとも、たんぽぽのようにふまれても、踏ん張ってたちあがります。
enjeruさんは、私のイメージでは 可憐なゆりのようだとおもってます。

ザアカイさん
たぶん悪魔からは、サマリア人、うるさいから( ̄Д ̄;;とりあえず、つぶしとこうとでも、思われているのでしょう。 

だんだん、悪霊のマインド=コントロールから醒めて来たようですね、よかった、よかった。

サマリア人さん、それなりにスムーズに行くかな?などと思ってましたが(ーー;)・・・
例外なく、打ちひしがれて、柔らかい土にされるようだな?と思います。

これが試練を伴う、来るものを選ぶキリスト教というものなのです・・・
一筋縄ではいかないのだよ~♪
だからこそ信じる価値があるとも言いますが・・・
欧米だって、日本式でクリスチャン人口を数えるならば
おそらく30%切るんじゃないかなあ?

ま、少し休んで仕切りなおしでいいんでないの。
それと、サタンに目をつけられた?ということは、ある意味光栄なことですぞ(笑)。
「こやつ、手強いかも知れぬ、今のうちにやっつけねば」などと(^_^;)

でもでも!おかしなキーワードで、ネット検索してはダメですぞ!

ザアカイさん、皆さん、こんばんは。
サマリヤ人さん、今のあなたは、素敵なクリスチャン女性に成長されたと感じます。
初めて「神に信頼をよせる」という告白が聞けたとき、
ホント、うれしくてイエスさまに感謝しました。
天の御国で天使たちが、喜びの鐘の音を鳴らしているようにさえ感じました。
そして、主にある兄弟方の「声」に耳を傾けて下さってありがとう。
皆さん、すばらしい信仰をお持ちなので、この方々に分からないところは
尋ねたらいいかと思います。そして祈り。
皆さん、だてに年をとってはいないと思いますので・・・(笑)
主の御元に行くまでどれだけ時があるのか分かりませんが、
それまで共に主を仰いでいきましょうね。
花・・・。私、天然ボケですので、道端にひっそり咲くすみれの花でしょうかねぇ~!

enjeru さん、すみれですか。。いいですね。
道ばたで、タンポポといいお友達になれますね。

ザアカイさん。
気になって、エースをねらえのオフィシャルサイトみてしまいました。
ザアカイさんは。。宗方コーチ!? スパルタなんですね。(;;;´Д`)
実力はともかく。。わたしは外見でいったら少年ぽい、岡ひろみに近いですかね?
ひろみのテニスの母となる、先輩お蝶婦人 enjeru さんに憧れて、けわしいテニスならぬ、
クリスチャンの道へ!? 
そして、こまったときは、わたぴーさん なぜか修行僧になっていますが、桂コーチへバトンタッチといったところでしょうか。
ひろみちゃんと恋に落ちる、藤堂くんは。。むずかしいですが。いざというときに、ひかえめに励ましてくれるという意味で、バルナバさんとか、たろさんかな? えっ 迷惑っていわないで。(;;;´Д`)
いじめっ子は、サタンなのか、これから激しくなるかもしれない人々の反対か。。。
と。。ちょっと勝手に想像をして一人でほくそ笑んでました。

文庫本見たくなってしまいましたよ。。面白そうですね。
スポーツ漫画は わたしはタッチと、スラムダンクがすきでしたよ。(自分で買ってないですけど、兄の買っていたのをみてました。)特に元不良の三井くん! しらないですかね?
日本のスポコン漫画、面白いですよね。
小説も好きですが、まんがもすきです(*^-^)

はじめさん、こんにちはバルナバです。
改めてはじめさんのレスを読み直してみました、自分の人生を正直に真面目に生きようと
しているのだなと感じています。私の教会の牧師も親が現役の牧師の方です、貴方のように母親の胎内にいる時から聖書の言葉を聴いています。やはり試練を通して牧師になりました。(2人の兄弟は社会人で一人はキリスト者です)
 私の理解ではイエスさまの十字架の贖いは自分のためであったと信じる者が罪を許され、信じないものは自分で罪を清算しなくてはいけないと言うことです。『罪からくる報酬は死です』と有るように永遠の命が与えられるということです。もちろん、今までの罪を悔い改め、これからは罪をおかさないようにし、罪を犯すと悔い改めなくてはいけません(許されるからといって罪を犯し続けることは的外れですが)

>ただひとつだけの理由「イエスが救い主だと知らなかった」だけではその道を閉ざされないのではないか。と思います。
こいう人達は受け入れることも、拒否することもしていないので別の道が有ると思います。
死後に受け入れるか、拒否するかを聞かれるはずです。どちらを選ぶかは本人の自由意志です。

>もしかしたら教えを知らないノンクリスチャンが犯す罪よりも、クリスチャンが犯す罪の方が神の前においてはとても大きな罪のような気がします。
悪いことだと知らないですることと、悪いことだと知っていてすることでは叩かれる数が違います。

十字架の贖い以前は十戒を守れば救われたのですが、人間には守れないので十字架の贖いが必要だったのです、それは神は一人も滅びないように望んでいるからです。

マタイ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
ルカ 6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか

私は今この聖句をよく考えなくてはと思っています。

こんにちは
いい展開になってよかったですね
ザアカイさんの記事がまた素晴らしかったです
きっと主がザアカイさんの上に働かれたのだろうと思います
サマリア人さんは、今、古い自分を十字架につけて新しく生まれようとしておられるのだろうと思います
感じておられた疑問や思いなどは、十字架につけられようとしている古い自分の抵抗なのかも知れません
今回のことは、サタンの影響があったのかも知れませんが、そうだとしても、はじめから、主がサマリア人さんの新生のために、全てをみこして働かれていたのだろうと感じています

そしてそれだけではないのかも、、、
はじめさんはじめまして
自分ははじめさんの疑問にお答えできるだけのものをもってはおりません
ただ、もし、ただ一人の真実と愛とに満ちた神がおられるということを否定されないのであれば、そしてまだしたことがないのであれば、その方に祈ってみることをご提案します
自分に必要な理解が与えられるように、、、正しい道に進めるように、、
本当にそのような方がおられるのであれば、必ず与えてくださるのではないでしょうか、、、

のびたです。

サマリア人さんをしかってやろうと記事を書いていたのですが、さっき消えてしまいました。先回も途中で消えてしまいましたから、しかるな、ということでしょう。

ですから、記事は止め。

がんばんなさい、サマリア人さんよ。

のびたさん
ありがとうございます。
きっと気ばかりあせっていていたのだと思います。
疑問がふくらみすぎてしまい、いろいろな推測が、ぐるぐるまわってしまって、
考え過ぎもよくありませんね。

のびたさんは、信仰の先輩である、兄弟、伯父さんのようなかただとおもっています。
(もし、それほどお年をめしてなかったらごめんなさい、私の父は60代ですが。。)
出来の悪い子、問題児ほど、手をかけないといけないといいますが。。かわいいともいいます。(゚ー゚;
おしかりもうけますので、かわいがってください。
これからもよろしくお願い致します。


はじめまして。
田舎と申します。
御縁あり書き込みさせていただきます。
子供の頃に親は啓典の民ではありませんが聖書がありました。
なにげに読んでおりました。

みなさまは、キリシタン大名の真実についてご存知でしょうか。

下記に『天界と地獄 スウェーデンボルグ』の内容がございますので、
よろしければご覧ください。
http://123.mikosi.com/3b.html


『これらの人びとには「信仰のみ」は不可能であることが分かっていないということである。

というのも、信仰はその源泉である愛を欠けばたんなる知識にすぎず、

また場合によっては、信仰に似た一種の思い込みにすぎないからである。』

またイエス様がもうされた『道』と法則について書いてありますのでこれをよろしければご覧ください。
http://123.mikosi.com/10.html

みなさまの何かの参考に少しでもなれば幸いでございます。
お読みくださりありがとうごいました。
失礼しました。

こんばんは、はじめです。

コメありがとうございます。

色々と頭で理解しようとして、くだらないコメを載せてしまいました。すみません。


>ザアカイさん

私も小さい頃はおなかが減って減って、父の祈りの時間がとても苦痛でした(笑
中学・高校時代一人で祈る時間が多くなってからは、30秒どころか早口で15秒程度。
今では一人での食事の際には何も言わずに、ただ黙々と食事をとっています。教会に住まわせていただいているのに・・・
(^^;

あと、可能な限り絶対に閉鎖しないでくださいね。
ちょくちょく子羊覗くのが数少ない楽しみとなっています。^^

>バルナバさん
コメありがとうございます。
一時は洗礼の勉強もしておりましたが、現在は停止中です。
それは自分の心の苦しみから逃れたいが為だけ、もしくは親を喜ばせたいという個人的願いからでした。
本来あるべき洗礼の目的とはかけ離れ、一番喜ばせなければいけないのは神様であるということを全く考えていませんでした。

何らかの存在は信じていますが、それが何であるのかは分からない。
キリスト教の神様?イエス様?仏教の仏?はたまたイスラムの神?
本当に正直な気持ち、大事なものが無い。
そんな気持ちでは受けることは出来ないと判断しました。

みなさんが羨ましいです。
心から信じているものがある人はとても強く見える。いや、本当に強いのかもしれない。。。
私は今では「なんらかの存在を信じる、無宗教」という、なんだか変な分類になってしまいました。
それはある意味強くもあり、ある意味とても弱く心が何度も折れそうになります。

一般社会における信仰生活では多くのことで悩みがあると思いますが、
みなさんは教会生活の中で何か嫌なことがあったりしないのですか?
教会のなかで自分には耐えられないレベルのことが起きたら、それでも教会へ行き、そしてクリスチャンでいられますか?

>たろさん

コメありがとうございます。

決してその存在は否定はしません。そして、その存在を漠然とですが信じています。
毎日時間を作り心で気持ちを伝えています。
時には自分は何に対して祈っているのだろうと虚しさ、怒りがこみ上げてくることもありますが、心からの真実の祈りです。
それは、幼い頃純粋に祈っていた頃よりも強い叫びだといえます。

>自分ははじめさんの疑問にお答えできるだけのものをもってはおりません

たろさんのコメントには、とてもあたたかさを感じました。ありがとうございます。
(ギスギスした私のコメとは大違いですね・・・私は理屈ばっかで・・・^^;)

はじめさん、どうも。くだらなくなんかないですからご心配なく。

>あと、可能な限り絶対に閉鎖しないでくださいね。

→おそらくですが・・・わがこの世の命が尽きるか、失業して夜も寝ないで働かざるを得なくなるか・・・
公安に逮捕されて、刑務所に入れられるか・・・その前にブログが閉鎖されるか・・・でもない限り・・・なんか、時が来るまで・・・やめさせてもらえないようです(^_^;)・・・心動かされ、指が動かされるような気がして・・・書くことで信仰が維持されている面は確かにあるかなあ?

きっと、はじめさんにも「その時」があるんだと思います・・・焦る必要などないと思います。
私だってすぐ教会へ行ったわけじゃなく、小石牧師の本読んでから、10年近くかかったんですよ。

エルサレムの娘たちよ、私は、かもしかと野の雌じかをさして、あなた方に誓い、お願いする、
愛のおのずから起こる時までは、ことさらに呼び起こすことも、さますこともしないように。
雅歌 3:5

とあるじゃないですか(^^♪

>みなさんは教会生活の中で何か嫌なことがあったりしないのですか?
教会のなかで自分には耐えられないレベルのことが起きたら、それでも教会へ行き、そしてクリスチャンでいられますか?

→そりゃありますよ・・・でも会社と比較してはどうかと思いますが、限界までは耐えようと思ってます。
可能な限り、許しあって。最終的には、主イエスと自分との関係だから・・・
ペテロの例もあるし、その時にならなきゃわかりませんけど・・・
私には主イエスにある希望を失った時は、ブラック=ホールに吸い込まれるに等しいかもしれません(ーー;)・・・

はじめさん、こんばんは。
>何らかの存在は信じていますが、それが何であるのかは分からない。
 キリスト教の神様?イエス様?仏教の仏?はたまたイスラムの神?
 本当に正直な気持ち、大事なものが無い。

この気持ち、私も経験したことがあります。中3の時から、この気持ちになり、
何してても空しく、心はいつも叫んでいたように思います。
当時、漠然と何の神か分からず、「本当の神様に導いて下さい」と。
今振り返ると、この祈りをしているときは、神が呼ばれている時だったのではないかと思います。
この祈りは、必ず天に届いており、必ず答えてがあると信じます。
高2のとき、トラクトいただき、押し出されるように教会に導かれました。
まるで、見えない手が私を引っ張っているみたいでした。
これが、祈りの答えだったと後で分かりました。

>時には自分は何に対して祈っているのだろうと虚しさ、怒りがこみ上げてくることもありますが、心からの真実の祈りです。
 それは、幼い頃純粋に祈っていた頃よりも強い叫びだといえます。

 はじめさんの祈りに主が御心のとき、答えて下さいますように。
 私も祈らせていただきますね。
 教会では、救われているといっても人間の集まりなので、それぞれ自我、肉を持っているので、
 罪を犯すことも多いですが、それでも主の救いはすばらしく、互いに赦しあい砕かれつつ、
 共に主を礼拝しています。
 はじめさんは、教会にお住まいとのことで、普通の人より、色々嫌な部分も見、聞きするかもしれませんが、
 それも主はご存知。はじめさんが、主と本当の出会いをされますように。

   あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
  「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
   わたしはあなたの名を呼んだ。
   あなたはわたしのもの。
   あなたが水の中を過ぎるときも、
   わたしはあなたとともにおり、
   川を渡るときも、あなたは押し流されない。
   火の中を歩いても、あなたは焼かれず、
   炎はあなたに燃えつかない。
   わたしが、あなたの神、主、
   イスラエルの聖なる者、
   あなたの救い主であるからだ。」(イザヤ43・1-3)

   わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、
   あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
   わたしに帰れ。
   わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ44・22)

二度目の登場です。
匿名掲示板の2ちゃんねるをご存じの方は多いと思います。
私のお気に入りのスレッドを紹介させていただきます。
【イエス】癒し主 救い主 【キリスト】Part32
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1221368083/
掲示板である故に、いろんな人が書き込みされています。クリスチャンでない方や反キリストの方も来ますが、実際にここを通して、癒され、救いに預かる魂が起こされています。

ザアカイさんや、サマリア人さん、わたぴーさん、そして常連の皆様、癒しを必要としてる方には是非とも訪れてほしいスレッドですので、この場を借りて宣伝させていただきました。

また、ザアカイさんは既にご存じかも知れませんが、ケネス・E・ヘーゲンの証が書かれた著書の一部が翻訳されたものありましたので、あわせて紹介させていただきます。
http://www.k2.dion.ne.jp/~yohane/00%20kenesu%20maborosi.htm
是非ともサマリア人さんには読んでほしいと思います。

ザアカイさん、この場にふさわしくないと思われたら削除していただいてもかまいません。

ピーマンさん、いらっしゃい。
別に気を遣う必要はありません、トンデも情報でない限り気にしませんから。
私それほど偏狭でもありません(笑)。

ただケネス=ヘイゲンですが、賛否両論あるようですね。

私もちょっと気になったので、全幅の信頼を置く牧師先生に尋ねたところ
「ケネス=ヘイゲンは危険だからやめておいたほうがいい」とのアドバイスを・・・

私の知っている元ワード=フェイスのクリスチャンの方も
「ワード=フェイスには深入りしない方がいいです」との事・・・
なんでも99%の真水に1%の毒を入れる手法だそうで(連中の常套手段ですね(ーー;))
ワード=フェイスはその1%の毒が非常に巧妙なんだとか?
まあ、話を聞く限りアーニー下村師は普通じゃありませんね・・・
その方も、下村師には近づかないと言ってました。

よって、私自身ヘイゲンの本は読んでないのでわかりませんし
そういうわけで、批評する資格もないのですが、個人的にはスルーしてます。少なくとも、「救い」には、必要不可欠なものでもないでしょうし。

最後の審判の時、真実はわかるのかもしれませんね・・・

はじめまして ピーマンさん
ヘイゲンさんの証言、神に対して、心から信じるという点では共感しています。
洗礼は、ふるい自分を捨てた印でありますが、パウロが述べたように、人間やはり肉の思いと常に戦わなければいけませんね。
主イエスとともに歩むということ、こころから信じること、クリスチャンによって捉え方が
ちがうかもしれません。 キリストの愛により生きる、それが自然に律法を完成させる結果と
なるはずなのですよね。 律法や犠牲もキリストが来るまでの、代理的なものであった。
ヘブル人の手紙にも興味深い事が描かれていますが、愛と善行にはげむこと、これはよく恵みによる救いに対して、不信であるといわれますが。。。

恵みによる救いが、前提ではありますが、キリストによって新しく生まれ変わったのであれば、
愛に動かされて行いにあらわれてくるのであろう、でなければそれはただ神の存在を信じているだけであって、(悪魔であっても神の存在は認めている訳ですから)救いにはいたらないかもしれない。。
実によって見分けられるともいいます。 しかし、キリストは神に不可能な事はないともいっておられますから、無理難題は求めないのだろうとしんじています。
人それぞれ状況も、能力も違うので、その人に見合ったもの以上は神は望まないのでしょうね。

聖霊の賜物に関しては。。わたしわかりません。  聖霊が心に働いてくださる事は信じられますが、
異言をかたるなど。。わたしの理解に及ばないので、コメントができません。
金粉が出てくるとか、体型がかわるなど、世俗的な肉的な望みがかなえられるような奇跡は悪霊の力の気がします。 病気をいやすというものもありますが。。。どうなのでしょう。。
たとえ奇跡を起こせたとしても、悪霊からくるか、神からかは、その奇跡を行う牧師たちの実によって見分けるしかないのでしょう。
本物の、二人の証人なり、艱難が始まって、神からの本物の聖霊によっていやす人々が現れるのかもしれません。見分けるのに慎重にならなくてはいけないとおもいます。

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