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2007年12月20日 (木)

主よ、来たりませ~マラナタ

今回のエントリーは、久々の信仰色の強いものである。キリスト者以外の方には退屈かもしれない、お許し願いたい。

2008年がもし・・・本当に主が戸口まで来ていると確信できる年となるならば、その再臨の目的とは一体何なのだろう・・・

裁き主として再び来られる。これは正しい認識である。あの愛弟子ヨハネでさえ、再臨時の姿であろう主イエスを見て、気絶してしまったほどだ。まるで初臨の時の、へりくだった姿は見る影もなく、まるで仁王像みたいなのだろう。そしてサタンの陣営を一網打尽にする・・・そればかりでなく、サタンに惑わされた人類も・・・かなりの数が裁かれることであろう・・・再臨のまさにその日、仮にそれなりの人間が生き残っていたとして、黙示録の記述を読む限り、おそらくはその日一日で、億からの人間が最終的に裁かれ死ぬことになるかもしれない・・・まさしく「出エジプト記」の過ぎ越し(ペサハ)が再現することだろう。子羊(新約の時代の主イエス=キリスト)の血で贖われていない限り、無事過ぎこすのは難しいのではないか?ベニー=ヒン、ビリー=グラハム、パット=ロバートソンなどの偽善者、世界のエスタブリッシュメント連中とその下僕などは、その際たる者と思われる。

・・・と言うのが、旧約で象徴される厳しい、威厳に満ちた神の姿である。

しかし、果たしてそれだけなのだろうか?これだけでは一面を語っているに過ぎないと感じるのは私だけだろうか?

「神の義と裁き」はまったくもって正しいが、それは救い・・・我々の顔から完全に涙を拭い去って下さる時でもあるのだ。もはや苦しみや悲しみが完全に無くなる時でもあるのだ。そこにあるのは神のまったき愛、罪の許し、慈愛、憐れみといった限りなき希望でもあるだろう。

義人は一人もいないとパウロも言っている。我々は少しでも主の御衣のふさに指先でもいいから触れようと努力する、少しでも似たような性質になろうと努力はする。しかし、はるか及ばないというのが現実ではなかろうか?自分は義人であるなどと他人を裁くのは、それこそ主の時代のパリサイ派、放蕩息子の兄につながるものがある。

我々は「何をしているのかわからない」のだから。だったら「主よ、私は少しでもあなた様に近づけるよう努力いたしました。それでも、弱き肉を持つ卑しい僕です。無理です、ただただ憐れみを請うばかりです。」でいいのではないだろうか?「救いは行いによるのではなく、一方的な恵み」=信仰義認のはずなのだから・・・きよわず、ムキにならず、自然体で、主に近づいていいのではないか?主イエスの血を受けているのだから、御前に出ることは可能なのだ。正しく受け取れていない教理があろうと、弱さゆえに繰り返し罪を犯してしまう、純朴ゆえに惑わされ見誤る・・・それで裁かれたのでは、救われる人など一人もいなくなってしまう。いつかわかる時が来る(もちろん程度にもよるが。日本の少数精鋭のクリスチャンと、アメリカなどの名前だけのクリスチャンは、その本質において違うと思っている。)

それで地獄行きなら、民数記にあるように、石に命ずることなく、石を打った・・・たったそれだけのことでカナンの地に入れなかったモーセは、今頃地獄で苦しんでいることになる。そんな馬鹿な話があるはずがない。その為の主イエスの贖いなのではないか?それこそ、主の十字架を否定する偽善者ではないのか?「神はその一人子を賜ったほど世を愛してくださった」のである。そこには、神に対する義が前提条件だなどと聖書には書いてない。恵みを素直にいただいていいのだと思う。聖人君子になる必要などない。謙虚に慎ましく歩んでいけばそれでいいはずだ。「溢れんばかりの憐れみと慈愛」これが新約聖書のテーマ=神のもう一方の一面であるはずだ。

主イエスは、そのような欠陥だらけの我々を、優しくオブラートで包んで、非の打ち所のない者として、父なる神に取り次いでくださるはずだ。重荷を降ろしていいのだ。

「君の信仰はあまい!君は間違っている、そんなことでは裁かれる」と言う行いの立派な方もいるかもしれない・・・それでも私は、主が再びこられるのを待つつもりである・・・慈愛と憐れみ>義と裁きであるはずだ。キリスト教は細木数子教とは違う。脅迫と強制はそこには存在しない。

来年以降この物質世界は、いよいよ黙示録の本番を迎えることになるかもしれない。身も凍るような、恐ろしいシナリオが待ち構えているかもしれない。後頭部に蹴りを入れられて、ボコボコにされるかもしれない。状況次第では肉体の死を覚悟しなければならないかもしれない。その時は、苦しむことなく、一瞬で楽にと願っているが(笑)。

それでも・・・主は我々のような至らぬ者をも憐れんで、愛してくださるはずだ。再臨の主の姿は、確かに恐ろしいかもしれない。しかし、そこに希望と終わることのない平安、終着駅が見出せる限り・・・私はこれに賭ける。最悪、何浪したっていい・・・普通のこの世的には何も悪くない人間が、永遠に地獄の業火で焼かれ続けることなどない。そんなのは人が苦しむのを見て喜ぶ、狂信的サディストのたわ言である・・・神はサタンではないのだから・・・

その為に私は、桑の木から降りてきたのです・・・「あなたの家に泊まることにしているから」、「今までもず~っと、あなたの心に呼びかけていたのだ。時間はかかったが、失われていた者が救われたのだ、さあ祝宴を開こうではないか!」と主イエス=キリストは、わが心にこのように語りかけてくださったのですから・・・

そこにあるのは・・・永遠なる希望と、終わることのない平安なのだから・・・重荷を降ろしていいはずだから・・・

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