過ぎ越しの犠牲の子羊(Passover Lamb)~イエス=キリストというお方
暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
イザヤ 9:2
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
イザヤ 11:1~2
2007年12月24日 クリスマス=イブ・・・
我らが主、イエス=キリストは、全人類の罪を贖うべくこの世に来られました。犠牲の子羊としての運命に違うことなく・・・いわゆる初臨。
もちろん私ザアカイは、ちょっと?(おおいに!)ひねくれた、はぐれ信徒としての一面もあります・・・ルカ伝2章8節を読むならば、「羊飼いは野宿をしていた」とのこと。ここの記述から察するに、主の生誕はおそらく、8月から9月初旬であったことでしょう。冬至(ミトラ神崇拝)との関係からも、12月24日がなにやら「胡散臭い、危険な匂い」がするということも知っています・・・
しかし、多くの人はそのことを知らないし、純粋に主の生誕を祝うのであれば、私は否定はしない・・・福音を通して主を知り、救いに与るのであれば、非難される筋合いはないと個人的には思う。あまりに行き過ぎると、現代の偽善者=律法主義者、パリサイ人と同じ徹を踏んでしまう。だからこの際、いいとしよう・・・我々は100%律法を持って救われるすべを知らないのだから。
主イエス=キリストが十字架にお架かりになった時間帯は、過ぎ越しの日であり(annual sabbath)、多くの羊が文字通り屠殺され犠牲となっていた時。何という神のご計画、配慮であろう!主イエスがメシヤであることの大いなる証明となる史実である。
我々の罪の生贄として、犠牲としてこの世に来られた・・・それがイエス=キリストというお方なのです・・・
私はこの恵みを無駄にはしたくありません・・・
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死は無駄であったことになる。
ガラテヤ 2:21
わがブログのテーマでもありますが、やがて近いうちに、主イエスは、王の王として、今度こそ、戦いの主としてもう一度、地上にやって来ることでしょう。しかし、その前に私たちは、尊い神の御子である主イエスによって、罪許されているということを確認しておく必要があります。
わたし達のような薄汚い泥棒ネコのような存在でさえ、ただただ一方的な限りなき愛によって、救いに与っていいわけなのです。それを選ぶのはわたしたちの自由な裁量に任されているのです。
過ぎ越しの犠牲の子羊(Passover Lamb)・・・その使命を持ってこの世に来られた方・・・ただただ・・・わたし達の罪の購いとして仕えるために・・・それが・・・イエス=キリストという方なのです・・・罪の購い、復活、そして再臨。これこそ我々人類に与えられた、間違っても!絶望に終わることのない、究極なる希望なわけです・・・
イエス生誕の地=ベツレヘムのクリスマスの町並み
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