人類の唯一なる希望とは
本当に久々です・・・今回は、ザアカイ表の顔(私にだってこのような一面があるのですよ、最近こられたブログの読者は知らないかもしれませんが^_^;)として登場します。能登半島で大地震がありました。被災者の方に主の憐れみがありますように。これも七つの雷=6番目の封印の一環なのでしょうか?世界を見渡しても、一触即発の火薬庫状態・・・嫌になりますね・・・
そんな中、またニュー=フェイスが登場してくださいました、DECさん、コメント感謝です。
>本当に恐ろしいです
→もっともな感想だと思います。日本はなんだかんだ言ってもまだ爆弾やミサイルが着弾する危険は今のところないので、こうしてブログ書きをやっていられるのだと感じます、感謝です。経済的に苦しくとも、餓死するまではいっていないし・・・
これは私の考えなのですが、おそらく私の書いているブログのシナリオが変えられる可能性は、ほとんどないといっていいと・・・残念で悲しいことなのですが・・・神のシナリオは、終末に向かってペースを上げていくのでしょう。我々人間に与えられた時間はやはり6000年なのでしょうかね・・・おそらくは、徹底的に我々人類は卑しめられ、奈落の底に突き落とされることでしょう・・・そして天狗となっている鼻をへし折られて、能力の限界というものを、嫌というほど味わうのではないかなと・・・そこまで行かないと、我々は、神に顔を向けることはできないのでしょう。そこまで経験しないと、人間は「そんな事してくださらなくとも、我々の力でもできたのに」と文句を言うのではないでしょうか・・・
そして私のポジションは、携挙があるとすれば、艱難期後携挙説、ハル=リンゼイ、ジョン=ダービーの艱難期前にクリスチャンだけが天に挙げられる、レフト=ビハインドなどというご都合主義のサタンの惑わしなど私は信じません。聖書を読む限り、我々も艱難期を生き抜く覚悟を決めねばならないと・・・ウェインランド師ですら、殉教する(もっとも3日後にキリストのように復活すると自信満々で言っていますが(^_^;)。
忍耐についての私の言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住むものたちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたを防ぎ守ろう。
黙示 3:10
私は平安をあなた方に残していく、私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな、またおじけるな。
ヨハネ 14:27
これらのことをあなた方に話したのは、私にあって平安を得るためである。あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。
ヨハネ 16:33
* 主なるキリストは、我々にこのように言ってくださいます。何とありがたいことでしょうか!
イエスは彼らに近づいてきて言われた、~
マタイ 28:18
* ここの場面は、キリストの昇天の場面で、主自ら、弟子たちに近づいてきてくださったのです。主を裏切ったにもかかわらず・・・
だから私たちも自分から主に顔を向けるなら、主自ら我々に近づいてきてくれるのではないかと思うのです。ためらっているのは我々なのではないのかな?と思うのです。
せっかくですので、ブログを始めたころ、ペテロに関して書いた記事から引用します。そこにはもう、主を3度否定した弱きペテロの姿はありません。
主よ何処へ行きたもう(小石牧師の礼拝説教集より抜粋)
その後のペテロの足跡は、はっきりとはしません。しかし、使徒のあとの時代の第一クレメンス書簡にはペテロがローマで殉教したと書かれています。それを元にしたのでしょうか19世紀のポーランドの作家シエンキヴィッチはすばらしい物語を書きました。『クオ・バ・デス・ドミネ』(主よいずこに行き給う)という名のこの小説はローマ皇帝ネロの迫害の時の様子が見事に書かれています。大迫害の中クリスチャン達次々と犠牲になります。弟子たちはペテロにローマを脱出するように願います。あなたひとりは私たち数万人にも当たりますどうぞ逃れてください。
ついにローマを後にして郊外に出たペテロは向こうの空に輝く光を見ます。それはやがてペテロの横を通り過ぎようとしますが、弟子たちの目には何も見えないのにペテロの目にはその光の中に主イエスが見えました。ペテロは問います。「クオ・バ・デス・ドミネ」“主よいずこに行き給う”。主は答えられます。「ペテロよ、あなたが私の羊を捨てて逃れるなら、私はローマに行ってもう一度十字架に掛かろう」
「主よ申し訳ありません」老ペテロは驚く弟子たちを尻目にくびすを返してローマに帰ります。そしてついに捕らえられ十字架刑に処せられます。その時、ペテロは私は三度も主を否んだ者だ、主と同じ十字架に掛かることなど出来ないと、両方の腕木が下にある十字架にさかさまに掛かり殉教したと伝承にはあります。
弱く、無学で、普通の人だったペテロ。しかし、彼は幼子のように主に従いました。彼は常に真実でした。ガリラヤ湖の無名の漁師は歴史上もっとも有名な人となり、キリストの教会の柱となりました。
メッセージ 2000/7/9 ペテロ(3)
(注:太字、アンダーライン、色文字はザアカイによる)
* この物語には、非常に勇気を与えられます。ひょっとしたら、私みたいなのでも、その時になったら勇気が与えられるかもしれない。主イエスを信じ、どこまでもついて行こう、このような時代において残された希望はそれしかないのだから・・・主を信じるものは、たとえ死んでも生きるのだから・・・復活に預かることができるのだから。
そして主イエス=キリストは次のようにおっしゃって、昇天されました、再び来ると約束されて!
見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである
マタイ 28:20
* そうなのです!たとえどんな艱難辛苦が訪れようと、試みに会おうと、終わりまで!・・・主イエス=キリストは共に歩んでくださるのです。特に試みに会うときには・・・次の有名なポエムのように、
フット=プリント(あしあと)
ある夜、私は夢を見た。
私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出された時、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つの足跡しかなかった
私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつも私の心を乱していたので、
私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ、私があなたに従うと決心した時、
あなたは、全ての道において、私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要とした時に、
あなたが、なぜ、わたしをすてられたのか、
わたしにはわかりません」
主は、ささやかれた。
「私の大切な子よ。 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。 あしあとがひとつだったとき、 私はあなたを背負って歩いていた。」 ニューエイジャー、カトリックの信徒の方に憎まれるのを覚悟で言います、われらの信ずべき方は、銀河連邦宇宙人、聖母マリアではありません。NESARAなどサタンのペテンであろう。ましてや自分自身であるはずがありません・・・救いはただお一人、われらが主イエス=キリストによるのです。
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コメント
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コメントありがとうございました。自分のブログにレスをしたんですが、誤解されるといけない内容なので、要点だけここに書いておきます。
え〜と、1週の契約は全体で7年と私は解釈しています。7ヶ月というのは7年間2520日から、ダニエル書の2300日を引いた残りなんです。これについては私もよくわかりませんが、のちほど一つの可能性としてアップロードする予定です。つまり7年間の艱難時代のうち最初の7ヶ月間は「堅い条約」の影響で平和が保たれるのではないか?その後2300日は文字通り苦難の連続となるのではないかと考えています。
ところで携挙に関して、3つの説があるのは私も知っています。実は私は「3回とも起こる」と信じているんです。
終末の預言についての解釈はザアカイさんと異なるものがありますが、同じ主イエスキリストを信じている者同士として、末永く(永遠に)よろしくお願いします。
投稿: Allegro | 2007年3月27日 (火) 20時57分